第53話 Stand my Ground(8)
(1)
グレッチェンの髪を掴んだまま、少年が一歩にじり寄る。
痛みを堪えて一歩後退しようとするが、更に強い力を持ってして髪を引っ張り上げてくる。
罠の網に引っ掛かった小動物と罠を仕掛けた狩人――、全てを奪い尽くそうとする捕食者と、奪われて息絶える末路しか残されていない被捕食者とでもいうべきか。
初冬の陰った太陽と、傘を被ったように上空を覆う黒い霧と灰色の雲の下、冬の到来を知らしめる木枯らしが二人の間を吹き抜けていく。身動きが取れない間にも、他の少年達もじわりじわりと距離を詰めてくる。
彼らは白昼堂々路上にて、グレッチェンの身ぐるみを剥いだ上で連れ去ろうとしている。
往来で少年達が騒ぎを起こしているにも関わらず、周辺のあばら家やぼろアパートからは誰一人として外へ出てくる気配が見当たらない。目の前で子供達が道を踏み外し、犯罪が起きようとしていても見て見ぬ振りを決め込んでいるのだ。
悲しくもやるせないがこれが現実、迂闊に危険区域に足を踏み入れてしまった自らの不注意と愚かさが招いた失態。観念したグレッチェンは、一層身を固くさせた。
「うわぁ、ちょっと待ってくれよ!!」
グレッチェンの髪を掴んでいた少年が、悲鳴にも似た叫び声を上げる。
何事かと目を見開いたと同時に少年は、何処からともなく姿を現した一人の男に首根っこを掴まれ、軽々と身体を持ち上げられていた。少年の力は自然に緩み、掌からグレッチェンの髪がするりと抜け出ていく。そろりそろり、さり気なく後退し、少年と男から一定以上の距離を取る。
「……お前らのようなガキどもにはこいつは上等すぎる獲物だ。俺に回せ」
「は?!勘弁してくれよ、サイクス!!いくらあんたでも獲物の横取りは……、って、うわあぁぁー!!!!」
男は、少年をあばら屋の壁へと叩きつけるように思い切り投げ飛ばした。
鈍いけれど、人が壁に激突した音が周辺に響き渡る。衝撃で壁の一部が崩れ落ち、埃臭い粉塵が舞う中、少年はがくりと地に横たわった。
少年を投げ飛ばした時も壁に激突した時も、一貫して無表情の男にグレッチェンは総毛立ち、肌という肌が激しく粟立つ。
子供相手ですら容赦ない男に他の少年達はすっかり恐れをなし、蜘蛛の子を蹴散らすように狭い路地を素早く退散していく。
残されたのは、見るからに無法者然としたサイクスとかいう男とグレッチェンのみ。
一歩、また一歩と近づいてくる、静かな狂気を瞳に湛える大男を前に恐怖で膝が笑い、竦んでしまっている足は言う事を聞いてくれそうにない。
(……あの人とどことなく雰囲気が似ている……)
あの人とは、レズモンド博士がグレッチェン、もとい、アッシュへの『実験』の際、常に付き従わせていた従僕だ。
元ボクシング選手だったというだけに大柄で屈強な体格を持ち、実験中に抵抗できないよう、いつも身体の上にのしかかってはきつく拘束してきた。
体格のみならず無口で無表情、瞳にそこはかとない狂気を宿している等、サイクスと従僕には似通っている点が多い。
絶体絶命の状況下に加え、忌まわしい過去の記憶までが呼び起こされ――、グレッチェンは絶望の淵へと立たされようとしていた。
(2)
サイクスとグレッチェンとの距離があと二、三歩、というところで、突然背後から腕を強く引かれ、ふわり、身体が宙に浮く。気づけば、腕を引いた人物の小脇に抱えられていた。
二度あることは三度ある。
もう何度目かになるだろう、グレッチェンは更にぎゅっと身を固く構える。だが、煙草と麝香の香りが入り混じった匂いが鼻をつくと、言葉では言い尽くせない程の安心感と共に、全身からすぅーと力が抜けていく。
「よぉ、サイクス。相変わらず、しけた面しやがって。悪ぃが、この娘はお前に渡す訳にはいかないんで今すぐ手を引いてもらおうか……、って、おっと!口より先に手が出るのも相変わらずだな!」
言い終わるよりも先にサイクスが殴り掛かってきた。ハルは空いている右手で拳を受け止め、サイクスの腹目掛けて蹴りを一発食らわせる。間髪入れず、苦しげに腹を抑えた隙を逃さず、拳を彼の顔面にめりこませる。
衝撃でよろめきつつサイクスは間合いを空けるため、唇の血を手の甲で乱暴に拭い、二、三歩後ろへ下がった、が。
ハルはこれ以上遣り合う気がなかったらしい。サイクスが態勢を整えている間に素早く背を向け、この場から全速力で駆け出す。
先制攻撃に失敗、返り討ちに遭ったあげく、あっさり獲物を奪われた。
サイクスはギラギラと激しい憎悪を瞳に滾らせ、ハルの後を猛然と追いかける。脚力はハルの方が勝っているが、十三歳の少女を抱えた身では少々分が悪い。
ハルは後ろを振り返り、続けてちらりと視線を上に向ける。
「グレッチェン、耳を塞げ」
グレッチェンが両手で耳を塞ぐのを視界の端で確認すると、ハルは懐から拳銃を取り出し、再び後方を振り返って立ち止まる。
銃を目にしても怯むどころか、闘牛場の暴れ牛よろしく二人に突っ込んでこようとするサイクスを見て、ハルは不敵に嗤い、頭上へ銃を構える。
銃声が四発、辺り一帯に鳴り響く。
サイクス目掛けて何枚ものシャツやズボンなどの洗濯物が風に流され、舞い落ちてくる。道を挟んで向かい合うぼろアパートの窓と窓の間から繋がれている洗濯紐を銃で撃ち抜き、落下してくる洗濯物でサイクスの動きを封じるよう仕向けたのだ。
「くそっ!」
目論見通り、頭に大きめのシーツが被さってしまったサイクスは、シーツを剥ぎ取ろうと躍起になりもがいていた。あがきも虚しく、暴れている内に足元の洗濯物に足を取られて転倒してしまう。
その間にも、ハルは少し離れた建物と建物の狭い隙間に入り込み、グレッチェン共々身を隠した。
「……あ、あの……」
「……シッ!」
肩を上下させ、息を静かに整えながら、地面に下ろしたグレッチェンに向けてハルは唇に人差し指を押し当てる。慌てて口元を両手で抑え込むと、先程の路地を狂ったように疾走していくサイクスの姿が垣間見えた。
ハルの息遣いが不規則なものから規則的なものに変わっていくまで、グレッチェンはしばらくの間口を噤んでいた。
「……グレッチェン、そろそろ出るぞ。もうサイクスの野郎もこの辺りをうろついていないだろう」
そう言うと、ハルはグレッチェンに広い背を向け、しゃがみ込む。
「さっきは、切羽詰まった状況だったとはいえ、レディを荷物みたいに扱っちまって悪かった。今度はちゃんと背負ってやるから乗れよ」
「……いえ、大丈夫です……。私、まだ歩けますから……」
「嘘つくな。あの教会からノース地区まで走ったせいで本当は足がパンパンに浮腫んで痛くて仕方がない癖に。それにノース地区から完全に出るまでにまた危ない奴に襲われるかもしれん。背中に居てくれた方が守りやすいし逃げやすい」
「…………」
ハルの最もたる言い分に反論の余地もなく、グレッチェンは唇を僅かに歪めながらも「すみません、お世話掛けます……」と、彼の背中に乗りかかった。
「そうそう、こういう時は反抗せずに素直に従ってくれ。……って、さっき抱えた時も思ったが、お前さんは本当に小さくて軽い。ちゃんと食って大きくならないと良い女に育たないぜ??綺麗な顔してんのにそれじゃあ余りにもったいねぇ」
「…………」
「教会の正門でシャロンと落ち合う約束をしているから戻るぞ。……あぁ、頼むから、脱走を謀ろうとするのだけはやめてくれよ??」
「……分かっています……」
「ならいい」
ハルは満足げに笑うと、建物の間の狭い隙間から先程の路地へと抜け出し、西に向かって足早に歩き出す。
アドリアナを最悪な形で失ったのに。普段と変わらぬハルの軽い態度と口調にグレッチェンは酷く戸惑っていた。
もう、あの、うららかな春の日差しのように暖かく、優しい笑顔を永久に見ることが叶わないなんて――、改めてグレッチェンの意識は深い哀しみの海の底へとどこまでも沈みこもうとしていた。
しかし、背中越しに欝鬱とした空気を感じ取ったのか、ハルが急にこちらを振り返ってきた。金色が入り混じったグリーンの瞳からは、やはり鋭さ以外何の感情も読み取れず、益々グレッチェンを困惑させる。
「話はシャロンの馬鹿から大体聞かせてもらった。まぁ、俺が言うのも何だが、あいつを含めマクレガー家の人間が、お前さんを傷つけたくないばかりにアダの死を隠し通そうとしたってだけだ。悪意は一切ないってことは分かってやってくれ。色々な意味でやり方は非常にまずい上に、お前さんを子供扱いして意思を完全に無視した点はいくらでも文句を垂れてやってもいいとは思う。でもな、お前もお前でシャロンに何も訊こうとせず、いきなり無謀な行動に出たのはかなりまずい。たまたま、運良く俺が見つけられたから良かったものの……。じゃなきゃ今頃サイクスに攫われて、今日明日にでも路上に立たされて身を売る羽目になっていたかもしれん。お前さんの、何をしでかすか分からない不安定さをシャロンは多かれ少なかれ見抜いていたから言うに言えなかったのかもしれん……って、俺は多少なりとも納得できた」
「……………」
淡々と諭されながら、グレッチェンは自らの短慮な行動の末に騒ぎを引き起こし、多大な心配と迷惑を掛けてしまったと己に対して深く恥じ入った。
アダの死と自らの過ちに酷く落ち込み、無言で項垂れるグレッチェンに、ハルはやれやれと苦笑する。
「アダから聞いていたが……、お前さんは早く大人になりたがってたんだって??でも、これで思い知っただろう??大人になるのは言う程簡単じゃないってな」
まっ、なりたくなくてもいずれ大人にならざるを得ないが、と言うハルに、グレッチェンは目を瞠る。
「アドリアナさんも、以前に似たようなことを仰っていました」
「へぇ、そうか。たまにはあいつも的得たこと言ってたんだな。年下の娘に精一杯姉貴振りたかったんだろうけど」
「……私、アドリアナさんが本当のお姉様だったら良かったのに、と、いつも思っていました……」
「あぁ、やめとけやめとけ。あいつ、かなり抜けた性格だったからいずれお前さんと立場が逆転していたに違いない」
「……ハルさん、さっきからアドリアナさんのこと、けなしてばかりいませんか??」
「いや、俺は事実を述べているだけだ」
「…………」
アドリアナに対するハルの憎まれ口に怒るべきか相槌を打つべきか、どうしたものかと複雑な気分に陥っていたが、お蔭でほんの僅かでも哀しみが和らいできた、ような気がしていた。
これはきっと、ハルなりのアドリアナへの偲び方であり、グレッチェンへの励ましでもあるのだろう。
そんなことを思いながら、ハルに背負われて話に耳を傾けていると無事にノース地区を抜け、イースト地区へと入り――、広場を教会とを繋ぐブナの遊歩道に差し掛かった。
西に傾いていく太陽の光が進行方向と重なり、逆光が目に眩しくて仕方がない。手を翳し、ハルの肩越しから正面に見える目的地、教会の正門を細めた目を凝らして見据える。
頑強な黒い鉄柵の前を、うろうろと落ち着きなく無為に歩き回る人物――、シャロンの姿を捉えた。途端にグレッチェンはハルの肩に乗せていた顎をさっと外し、背に顔を隠した。
「グレッチェン、今度は逃げようとするなよ??」
「……し、しませんよ!」
「絶対にだぞ??」
「……わ、分かってます!!」
よし、と、ハルは短く笑い、シャロンが待つ場所目指して幾分歩みを速めたのだった。
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