第38話 Everbody's fool(9)
(1)
その日、仕事を早く終えたシェリルは、久しぶりに歓楽街の裏通り近くの古書店へと足を運んでいた。
通称『不愉快な六番街』と呼ばれるその通りは、月日が経つごとに寂静感ばかりが増し、本来通りを照らす筈のガス灯の灯りすら点されていない。
夕方の薄暗い通りを女一人怖々とした思いで、目的の古書店へと歩みを進めていたシェリルだったが、反対側から歩いて来た人物を目にすると咄嗟に、赤黒く変色した煉瓦壁の裏に身を隠してしまった。
艶を失ったダークブロンドの髪、肉が削げ落ちた頬、瞳孔が収縮し、落ち窪んだ青い瞳、病人のように痩せ細った身体つき――、昔の美貌は見る影もなく、纏っている良質な素材の服装がやけに浮いて見える、三十歳前後の紳士――、姉レイチェルの夫ルパートだ。
ルパートは阿片窟へ立ち入らないよう外出を禁止されているし、金を一銭足りとも持たせてもらってない筈では??
(……きっと、使用人の目を盗んで家から抜け出したのね。それにしても、ここまでどうやって来たの……、まさかと思うけど、徒歩で??)
マクレガー家から歓楽街までは、歩いておよそ一時間近くかかる。
(……そこまでして阿片が吸いたい訳??何て恐ろしいまでの執念かしら……、って……。あれは、まさか……)
物陰からこっそりとルパートの様子を窺っていたシェリルは、ルパートが腕に抱えているもの――、女装姿でぐったりとしている幼い甥シャロンに気付くと、全身から血の気がさーっと降りていく感覚を覚えた。
(……お義兄様は、シャロンを阿片窟なんかに連れ込んで、一体どうする気?!)
――一刻も早く、この事をレイチェルに報せなければ――
居ても立ってもいられなくなったシェリルは、すぐさまその場から離れ、レイチェルが働く薬屋へと一目散に駆け出して行った。
(2)
降霊会が開始されて一時間程経過した頃、女霊媒師はアルファベット文字の紙を丸めて鞄の中へしまう。見計らったかのように、人数分のグラスと匙付きのシュガーボックスを乗せたトレイを手に、メイドが入室した。
メイドは女霊媒師の席に六つのグラスとシュガーボックスを置いていくと、静かに部屋から出て行く。
女霊媒師はシュガーボックスの蓋を開け、匙で白い粉を掬い取った。
それぞれのグラスの中へ大匙一杯ずつ粉を入れていき、全てのグラスに粉を入れ終わると、今度は匙で粉をかき混ぜていく。
鮮やかな緑色から想定するに、グラスの中身はアブサン、白い粉は阿片錠剤を潰して粉末化させたものだろう。
順にグラスを受け取った紳士達は一斉に酒を煽る。
「さあて、これからが本番だよ」
降霊会が行われるのを黙って静観していただけのウォルターが、にたりと歪んだ笑みを見せた――、丁度折良く、先程のメイドが今度は六本の煙管とマッチ箱をトレイに乗せて再び部屋に姿を現す。
空になった六つのグラスと引き換えに煙管とマッチ箱を渡された女霊媒師と紳士達は、メイドが出て行くのを見計らい、マッチを擦って煙管の雁首に火をつける。
あっという間に、広い部屋の中は白煙に支配され、それまで姿勢良く座っていた筈の人々の表情や行動は徐々に変化をきたし始めた。
ある者はだらりと首を椅子の背もたれに凭れ掛けさせ、またある者はテーブルの上に突っ伏し始め――、ただ、どの人物にも言えることは、まるで幸せな夢でも見ているかのような、虚ろな目をして恍惚に満ち溢れた表情を浮かべていた。
ウォルターにべったりと身体を抱かれていることへの不快感すら忘れて、シャロンは異様な光景に呆然となった。同時に、流れてくる阿片の煙のせいで自身の頭もボーっとし始めたことに危機感を覚えた――
「旦那ぁ、うちの『商品』まで阿片の煙で馬鹿にさせちまうつもりかい??約束だろ??うちの商品には一切阿片と関わらせないって」
軽妙だが、一抹の厳しさが混じった口調でディヴィッドがウォルターに忠告を促した。
思わずディヴィッドを見返すと、へらへらと間の抜けた笑みが消え失せている。
「……あぁ、分かっておるわ。儂はあの連中に新種の阿片を与えてやっているだけで、儂自身は勿論、お前の店の男娼まで阿片をやらせるつもりは一切ない。それに、そろそろ儂もこの者とお愉しみにいきたい、と思っていたところだ」
ウォルターはシャロンの肩を抱いたまま、すぐさま席を立ち上がる。
「じゃ、いつものように俺はあんたの部屋の前で待たせてもらう。あと、こいつも一緒に部屋へ連れて行ってくれよぉ」
ディヴィッドは、隣に佇むグレッチェンの肩を掴んで一歩前へと押し出す。
「こんな貧相で根暗そうなガキなど、儂の好みじゃない」
「いやいやいや、別にこいつの相手はしなくていいんだよぉ。ただ、男娼の仕事がどういうものか、実際にこいつに見せてやりたいんだと、サリーが言って聞かなくてねぇ。なーに、目障りで気が散るってなら、カーテンの影とかに隠れるなり何なりさせて、目に付かないようにさせますからー」
通常の軽薄な態度に戻ったディヴィッドは、シャロンと共にグレッチェンもウォルターの自室に入れてくれるよう、交渉し出した。
始めの内、ウォルターはひどく渋っていたが、ディヴィッドの口車に乗せられたのか、彼のしつこさに諦めたのか、「……分かった。ただし、邪魔になると判断した場合、即刻部屋から叩き出すからな」と、嫌々ながらも了承したのだった。
「おぉ、さっすがウォルターの旦那ぁ。話が分かるお人で助かったぜぇー」
ディヴィッドは馴れ馴れしくウォルターの肩をポンポンと叩く。
ウォルターは顰め面を見せたものの特に抗議するでもなく、シャロンの肩を更にぐっと引き寄せ、ディヴィッドとグレッチェンも引き連れて自室へと向かった。
(3)
阿片吸引をし続ける人々をそのままに、部屋を後にした四人は深紅の絨毯が敷かれた廊下を真っ直ぐ進み、屋敷の中央にあたる場所――、玄関前の螺旋階段を昇り二階へと上がっていく。
ウォルターの自室は階段から左へ二部屋進んだ場所にあり、シャロンとグレッチェンは部屋へと案内された。
交霊会及び阿片吸引が行われている部屋と同じく、ウォルターの部屋も深紅の壁に銀の鎖が飾りつけられており、部屋の奥には真っ赤な寝具で統一された天蓋付きのベッドと赤茶色のサイドテーブル、薪ストーブ、ベッドのすぐ横の壁には巨大な鏡、ベッドのヘッドボードの後ろには深紅のカーテンで閉ざされた窓が設置されていた。
「まぁ、せいぜい頑張りなぁ」
扉が閉まる直前、廊下の壁に寄り掛かったディヴィッドが二人に向けてひらひらと手を振った。
「さっき言った通り、お前は事が終わるまでここで待機していろ!」
部屋に入った途端、ウォルターはグレッチェンの手を乱暴に掴み取ると、巨大な鏡の前まで強引に引っ張っていく。
ウォルターが大声で叫ぶと同時に鏡が壁から外れ――、否、ただの鏡かと思いきや、隠し扉となっていて、奥の部屋から縮れた茶髪の中年男が飛び出してきた。
予想外の事態に身を強張らせたグレッチェンを、男は力づくで無理矢理奥の部屋へと連れ込んでいく。
「グレッチェン!!」
「あの鏡は特殊な作りでできていてな、こちらから奥の部屋は見れないが、あちらからはこの部屋の様子がよく見える仕掛けになっている。云わば、覗き部屋みたいなものだ。銀の鎖の参加者の中で、儂と男娼との情事を見たいという輩を時々忍び込ませているのだが……。たまにはお互いの情事を進めながら覗くのもまた一興だろう!」
このままではグレッチェンの身に危険が及ぶ――、すぐさまシャロンは男の後を追い、鏡の扉をこじ開けようとした――、が、彼の行動をウォルターが見逃す筈がない。
ウォルターは、シャロンを背後から羽交い絞めにして彼を拘束する。
当然シャロンは、彼の腕を振り払おうと必死に抵抗してみせるが、身動きが取りづらいドレス姿の上に、とても六十歳を超えた老人とは思えぬウォルターの強い力によって抜け出すことすらままならない。
「くそっ!放せ!!」
「いいや、決して離すものか!あの時のお前を味わい損ねた分、今度はたっぷり愉しませてもらおうじゃないか!!」
ウォルターが放った言葉に、シャロンは一瞬動きを止める。
その隙をつき、ウォルターはシャロンの身体を鏡に強く押し付ける。
母とよく似た自身の美しい顔と、背後にて醜い表情で迫るウォルターから目を逸らしながら、シャロンは尋ねる。
「……貴様、最初から私の正体に気付いていたのか??」
ウォルターは、ふん、と鼻を鳴らしてシャロンを嘲笑う。
「お前はルパートの息子だろう??あぁ、よく覚えているよ。ルパートの腕の中で眠るお前は、まるで天使のように愛らしかった……。そんなお前を、この手でたっぷりと可愛がってやれると思うと、ひどく興奮を覚えたものだよ……」
鬘の長い栗毛を掻き分け、ウォルターはシャロンの耳朶に軽く歯を立てる。
シャロンは怖気が立つ余り、もう何度目かすらも分からない強い吐き気に襲われたが、それよりもグレッチェンを助け出すためにこの男を何とかしなければ……、という焦燥感に駆られた。
「あの時はルパートの邪魔が入ったせいでお前を味わう事が出来なかったが、今度こそ……」
たった今し方、ウォルターの口から出た言葉にシャロンは耳を疑った。
(……どういう事だ??もしかすると、私はこの男に犯されて等いなかったのか??)
ウォルターの言葉を推測するに、シャロンがウォルターの毒牙に掛かる直前、ルパートが助けに入った、ということなのだろうか??
シャロンが思案する姿を、抵抗を諦めたのだと見なしたウォルターは、ハァハァと息を荒げてドレスの上から平らな胸を撫で回してくる。
(あぁ……、女性にされるのであれば大歓迎だが、男、しかもよりに寄ってこんな醜い老人になど……。だが、もう少し好きに泳がせて油断させるか……)
シャロンの身体を弄るのに夢中で、ウォルターの拘束は徐々に緩む一方である。
その隙を逃さずシャロンは振り返り、彼と向かい合わせの態勢へと持ち込むと、彼の首へと両腕を回してみせた――、次の瞬間――
シャロンは、力の限りにウォルターの股間を膝で蹴り上げていた。
およそ人間のものとは思えぬ、家畜が屠殺される瞬間のような悲鳴を上げながら、ウォルターは床に倒れ込む。
シャロンは急いで鏡を押し出そうとした――、直後、キィィ、と音を立てて、中から、乱れた服装のグレッチェンが出て来たのだ。
「グレッチェン!無事なのか?!……って、その姿は……」
「……大丈夫です。咄嗟に、あの男を……」
グレッチェンの小さな身体が小刻みに震え、すっかり血の気を失くした顔色は真っ白で、唇は青紫色に変色している。
だが、よく見ると唇は唾液と血に汚れ、袖が捲れ上がった左手首には、赤く滲んだ歯型の痕から僅かに血が垂れていた。
「まさか……」
言葉を詰まらせるシャロンに、グレッチェンは俯きがちに弱々しく頷いてみせる。
「…………すまなかった。また私は、君に辛い思いをさせてしまったようだ……」
シャロンはグレッチェンの両手を固く握り、唇をきつく噛みしめながら俯いた。
グレッチェンは力無く首を横に振ると、「……私のことは、どうでもいいのです……。それよりも、シャロンさんの目的を果たして下さい……」と、未だ痛みで起き上がることすらできず、床で蹲るウォルターに視線を落としたのだった。
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