第30話 Everybody's fool(1)

(1) 


 白壇の香りが部屋中に充満しきっている。

 ヘッドボードに金細工が施された豪奢なベッドの上には、その馨しさに酔わされたかのように、幼い少女が仰向けで寝転んでいた。

 少女の意識は朦朧とし、涼しげなダークブラウンの瞳は虚ろで何も映さない。


『ルパート、お前は本当に酷い男だ。金に釣られて息子を売ろうなどとは……』


 少女が横たわるベッドの脇にはアブサンのグラスを片手に、くすんだ赤毛の男がダークブロンドでやつれた顔映せの若い――、と言っても三十前後といったところか――、男を嘲笑う。若い方の男は無言で曖昧な笑顔を返す。


『しかし、この色の白さといい線の細さと言い、端正な顔立ちといい……、見れば見る程、少女のようで愛らしいな。こうして少女の服装をさせると、とても少年だとは思えぬ』


 長い黒髪でフリルがふんだんにあしらわれたケイト・グリーナウェイドレスを纏う少女――、かと思いきや、どうやらこの子供は幼い少年らしい。


『……はい、息子は……、妻と面差しがよく似ていますし……。普段は髪も短いのですが……、今は鬘を被せていますから、余計に少女のように見えるのでしょうね……』

『……ふん、成程……。……よし、私はこの少年が気に入った……。約束通り、部屋を出て地下に下りたら、ヤンに私の事付けを伝えろ。そうすれば、私がお前の息子を連れて降りてくるまでの時間――、少なくとも今から二時間はタダで、それも好きなだけ阿片を吸わせてやろう』


 赤毛の男の発言に、若い男は一瞬ビクリと肩を震わせた――が、その後、ベッドの上のドレス姿の息子を何度も何度も振り返りつつ、静かに扉を開けて部屋から出て行く。

 若い男が部屋からいなくなると、赤毛の男は厭らしく顔を歪めて少年の身にのしかかる。


 少年の虚ろな瞳に、僅かに恐怖の色が入り混じり、現実から目を逸らす為にギュッと固く目を閉じた――



 ――――――――



 ――どれ程の時間が経過したのか分からないが、少年が恐る恐る目を開けると、変わらず少女の格好でベッドの上に――、ではなく、清潔そうな白衣を纏った二十代の青年へと姿を変えていた。


化学薬品の臭いが充満し、数多くの試験管やビーカーの実験道具、メスなどと言った医療道具が揃えられた机が置かれた、地下だと思われる薄暗い実験室に佇んでいる。

 机を挟んだ目の前には、白髪交じりのオールバックに金縁眼鏡をかけた、同じ白衣姿の紳士が神妙な顔つきで彼に語りかけている最中だった。


『血液と唾液以外の体液、涙、鼻汁、汗に毒成分は一切含まれていなかった。あと残すところは、性交時に分泌される愛液のみだ。それを調べるためにだな……』

 紳士は、青年に向かって意味ありげな視線を送りつける。

『……博士、私に何をさせるおつもりですか……』

『君は女性の扱いに手馴れている上に、アッシュと随分懇意にしているようだから、これくらいの事など容易く行えるだろう??』


 紳士のおよそ人道から外れた発言に、青年は絶句する。


『勿論、協力して貰えるだろう??』


 青年は形の良い薄い唇を噛みしめ、無言で俯く。太股の横に付けたそれぞれの掌は、無意識の内に固く握り拳を形作っていく。


『…………きません…………』

 青年は喉の奥をきつく締め付けながらも、辛うじて声を振り絞る。

『……そのような真似……、……私にはできません……』

『そうか。では仕方ない、また適当な下層民に金を握らせ……』

『……博士、おやめください』

『君が無理ならそれしか方法はないのだが……』


 青年の噛みしめた唇に血が滲み、痺れが生じる程に拳に力が込められる。

 端正に整った顔を苦渋の色で満たし、葛藤に苛まれている青年を、シンシハ見下すような、憐れむような目で静かに答えを待っている。


『……承知致しました。アッシュの……、……を、必ずや私が……、手に入れてみせます……』

 込み上げる吐き気を堪えつつ、青年は俯いたまま答えを紳士に告げる。

『ふむ、さすがはシャロン君だ。大いに助かるよ』


 ここで紳士は初めて、気品溢れる穏やかな笑顏を見せ――、怒りに駆られた青年は反射的に彼の胸倉に掴み掛かると、空いている方の手で彼を力の限りに突き飛ばした――





(2)


 きゃあ、と、弱々しい悲鳴と共に、誰かが床に投げ出される音が耳に届く。


 突き飛ばした後の反動がやけに軽い――、気付いた瞬間、シャロンは慌ててベッドから半身を起こす。

 ベッドの真下には、アッシュブロンドの短髪に、白いブラウスと黒いスカートを履いた少女が床に蹲っている。

 シャロンはすぐさまベッドから抜け出すと、少女の小さくか細い身体を抱き起こした。


「すまない、グレッチェン。わざわざ私を起こしに来てくれたのに……。寝惚けていたとはいえ、君に乱暴な真似を働いてしまい、本当に申し訳なかった。身体のどこかを打ったり、怪我はしていないかね??」

「……はい、私は大丈夫です。それよりも、シャロンさんこそ、随分と魘されていたようですが……」


 心配したつもりが、逆にこちらの身を案じられてしまい、シャロンが苦笑を漏らすしかない。


「……ただの悪夢だよ……。気にする程じゃない」

「……そうですか。だったら、いいのですが……」


 それでも尚、グレッチェンは上目遣いでシャロンをじっと見上げてくる。

 彼女が時折シャロンにだけ見せる、顔色を伺うような目つきは出会って六年が過ぎた今でも変わらない。


「……大丈夫でしたら、早く身支度を済ませて下さいね。きっとお義母様とシェリル叔母様も、私達の訪問を今か今かと待ち詫びているに違いないでしょうし……」


 そこからグレッチェンによる、耳の痛すぎる怒涛の説教時間が始まってしまった。シャロンが適当に相槌を打っていると、それに対しても更なる説教が飛んでくる。

 グレッチェンの方が一回りも年下で、ようやく十八歳になったばかりだというのに、とうに三十歳を迎えたシャロンよりも数段しっかりしているのだ。しかも若い分、容赦がない。


(……この歯に衣を着せない、手厳しい態度はいつから始まったのか……)


 少なくとも三年前、まだマクレガー家で共に暮らしていた頃までは素直に慕ってくれていたのになぁ……、と、少々寂しく思う。


「分かった、分かった。君の忠告はしっかりと肝に銘じておくよ。それよりも……」

「それよりも、とは何ですか……」

「いい加減、着替えをさせてくれないか。それとも、私が着替える様を観察でもしたいのかね??」


 グレッチェンの理知的な顔が朱に染まる。代わりに、キッと無言で睨みつけ、くるりと素早くシャロンに背を向ける。


(……ふむ、こういう初心なところは実に可愛らしい……)


 揶揄って遊びたい衝動に耐えながら、シャロンは寝間着から着替えるべく、クローゼットの取っ手に手を掛けたのだった。




(3)


 それからシャロンとグレッチェンは、店の前の道を南に真っ直ぐ進み、オブライエン通りを抜け、教会へと続く途中のブルーム通りまで歩き続けた。


 昼日中で馬車に乗るならば、まだ人気がまばらな歓楽街よりも、教会に続く道まで出向いた方が断然捕まえやすい。特に安息日の今日、平日と比べてミサに訪れる人が多い。


 やがてブルーム通りに差し掛かる頃にはすでに多くの馬車が行き交っていた。すぐに近くを通り掛かった無蓋の馬車に声を掛け、乗り込む。

 補正されたなだらかな道を約二十分、馬車に揺られ、シャロンの母マクレガー夫人こと、レイチェル・マクレガーの邸宅――、シャロンの実家へ到着した。


 今日は夫人の双子の妹であり、産科医のシェリルが邸宅に訪れる。折角だからシャロンやグレッチェンも交えてお茶会を開こうと、招待されたのだ。

 そのため、グレッチェンもいつもの男装姿ではなく、質素ながらもごく普通の女性の服装をしていた。


 玄関の呼び鈴を鳴らすと女中頭のエドナが出て来て、応接室へと案内する。

 扉を開き、グレッチェンが若草色の絨毯が敷かれた床に一歩、足を付けると共にマクレガー夫人と、二人より一足先に到着していたシャロンの叔母シェリルが、抱きつかんばかりの勢いで彼女を出迎えた。


「まぁまぁ、グレッチェン!ごきげんはいかがかしら??いつ見ても本当に小さくて可愛いわぁ……!!」

「ごきげんよう、グレッチェン。貴女と会うのも随分と久しぶりねぇ。しばらく見ない内に一段ときれいになって……」

「……お母さん、シェリル叔母さん。グレッチェンが怯えているので程々にしてください……」

「あらぁ、もしかして焼きもちを焼いているの??」


 双子熟女の勢いにたじろぐグレッチェンの肩に手を添えつつ、夫人が息子に含み笑いを向けてくる。シェリルも同じく、無言で微笑む。


「……違いますよ。こういう時だけ団結するのはやめてください……」

 うんざりした様子のシャロンに、夫人とシェリルはクスクスと声を立てて笑う。

「さぁさぁ、皆さま。久方振りに御家族がお揃いになり、お気持ちが逸るのはよく分かりますが……。折角用意したお茶が冷めてしまいますよ」


 いつまでも扉付近で固まったまま、ちっともテーブルの席に着く気配のない夫人達を見兼ね、女中頭のエドナがやんわりと注意を促す。


「嫌だ、私ったら、ついはしゃいでしまって……、いけないわ。じゃあ、シェリル、シャロン、グレッチェン。貴方達も早く席に座って頂戴」


 夫人に手招きされ、扉から見て左奥――、ハイサッシの窓際付近に置かれた丸テーブルに、三人はそれぞれ席に着いたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る