第3話

 ドワーフのイムリは驚異的な跳躍力を見せた。


 そして、鋭い戦斧の刃を吸血鬼サイラスの頭上目掛けて降り下ろした。


 だが、空を切り裂いたような感覚で、肉を裂き骨を砕くような手応えは何もなかったのだった。


 確かに吸血鬼の姿を捉えて戦斧を振りかざしたのだが、吸血鬼は己の体を一瞬の内に霧状に散らしたのだ。


 大司祭は霧状の粒子でドワーフの体の周囲に纏わり付くように飛散した。


 次の瞬間、その粒子はドワーフの樽のような体を一気に締め上げた。


 イムリは苦痛の表情を浮かべたが、叫び声は上げなかった。


 骨が軋むような不快な音がした後に、生木を圧し折るような鈍い音が地下下水道に響いた。


 ドワーフは手に握っていた戦斧を床に落とした。


 再び、霧状の粒子が飛散した。


 ドワーフは床の上に力なく崩れ落ちた。


 霧状の粒子は、女官にも襲い掛かった。


 女官の周りに集まった霧状の粒子は、女官の首元を締め上げるように纏わり付いていた。


 女官は直ぐに意識を失い、身動きしなくなった。


 霧状の粒子は、次の獲物を狩るために少女の周りに集まり始めた。


 霧状の粒子は渦を巻くように集まり、大司祭サイラスの人間の姿を成した。


「さて、邪魔者はいなくなった。お前の血を味わうとするか」


 床を滑るように吸血鬼がディヴィナの元へ近づいてきた。


 ディヴィナは恐怖を感じた。


 この感じは以前にも感じたことがあるような気がした。


 絶望感と悲壮感の狭間で、何もできない無力さを痛感させられたのだ。


 少女を守る者は誰一人この場には居ない。


 ディヴィナは気が遠退くのを感じた。


 それと同時に、己の内に潜む強大な力が目覚めようとしているのも感じた。


 この感覚に身に覚えがあった。


 だが、今は薄れ行く意識の中では曖昧な感覚に飲み込まれてかき消されてゆくのだ。


「我を解き放て!」


 威圧的な強い意志が少女の意識を、完全に飲み込もうとした。


 己の中にある存在は、少女の中から出たがっているのだ。


「ファーヴニル! あなたを解き放ったら、わたしたちを助けてくれますか?」


 少女の小さく消えかかった意志が、抱擁するものに問いかけた。


「目の前の敵を滅すればいいのだな? 容易なことだ」


 ファーヴニルは答えた。


 少女の体が光に包まれた。


 ディヴィナから強大な魔力が開放され、地下の下水道坑道の屋根の部分が吹き飛んだ。


 少女の肉体から光に包まれたものが天に向かって昇っていった。


 夜空が見えた。


 解き放たれた”抱擁するもの”は夜空に羽ばたいていた。


 自由を手に入れたファーヴニルは、鱗の一枚いちまいに風を感じていた。


 愉快な気分であった。


 五十年ぶりに自由を手に入れたことに、心が躍っていた。


 小さな町を見下ろすと、不愉快な存在がこちらに向かってくるのが見えた。


 己の力量も分からない愚かな吸血鬼は、巨大な蝙蝠に姿を変えて、古竜である神にも匹敵する存在に挑んできたのだ。


「命なき下等な存在よ。消滅を望むなら来るがよい」


 抱擁するものは、威圧的に言った。


 巨大な蝙蝠は羽を大きく羽ばたかせて、古竜の近くまで迫ってきた。


 ファーヴニルは大きな口を開けて、灼熱の炎を吐きかけた。


 サイラスは巨大な蝙蝠の足の爪で、古竜の体を切り裂き始めた。


 しかし、竜の強固な深紅の鱗に傷をつけることはできなかった。


 古竜は、古代語魔法の詠唱を始めた。


 満月の月光はたちまち灰色の暗雲に隠された。


 夜空に雷光が暗雲の中で燻るように輝いた。


 そして、雷鳴が轟き始める。


 巨大な蝙蝠の周りに幾筋もの雷が落ちた。


 サイラスはそれらを潜り抜けるように羽ばたいた。


 雷は地上に落ちると地面が砕け散り、巨大な岩や砂埃を上空に吹き上げた。


 地面には大きな窪みができ、雷の破壊力の凄まじさを物語っていた。


 巨大な蝙蝠は霧状になり、古竜の羽に纏わり付いて締め上げた。


 古竜は羽ばたきの制御を失い、町外れの荒地へと落下した。


 地べたに這い蹲っている、偉大なる古竜を侮蔑しながら、霧状のものは再び大司祭サイラスの人間の姿を成した。


 古竜は四肢で大地に立ち上がりながら、精霊魔法を詠唱し、雷を司る精霊ヴォルトを召喚した。


 無数の雷の精霊は、電光石火のごとく、大司祭サイラスに攻撃を開始した。


 吸血鬼は何度も繰り返し、雷撃を受けていた。


 サイラスの体は電撃に包まれ、青白く発光した。


 落雷した地面には幾つもの閃電岩ができあがった。


 地面の表面をガラスの殻のようにしたフルグライトは雷の光を受けて輝きを放っていた。


 雷を司る精霊ヴォルトは、サイラスの動きを止めることは出来ても、命なき存在を葬ることはできなかった。


 古竜と吸血鬼との戦いは長い間行われ続けた。


 お互いに魔法の力を極限まで使っていた。


「古竜というからには、神にも匹敵する存在かと思っていたが、ただの巨大な爬虫類でしかないな」


 サイラスは嘲笑うかのごとく言った。


 古竜は己の本来の力が半分も発揮できていないことを感じていた。


 少女の中に幽閉されている間に、力が弱まったのかと考えたが、それが違うことが直ぐに解った。


 少女がいまだにファーヴニルを拘束しているのだ。


 封印が解かれたのは一時的なものであり、封印が弱まっているのは確かだが、古竜を完全に開放するまでには至っていないのであった。


 古竜は己がこの物質界で実体化できる時間が残り僅かであることを理解していた。


 ここで、この吸血鬼に殺されることがあれば、完全に存在が消滅してしまうのも理解していた。


「時間が来た」


 古竜は下位古代語でそう呟き、咆哮した。


 竜の咆哮には、精神を乱す効果があるが、古竜の咆哮には、魂をも砕く効果がある。


 だが、魂なき存在である吸血鬼のサイラスには、何も効かなかった。


 吸血鬼は勝利を確信し、高らかに笑い声を上げた。


 その油断した吸血鬼の体を、古竜は前足の爪で地面まで達するほど深く貫いた。


 魔法の効力が薄れ始めたために、先程の暗雲は何処かへと消え去っていた。


 すでに夜が明けていた。


 陽光が闇の生物となった吸血鬼の肉体を照らした。


 サイラスは断末魔を上げて燃え上がり、皮膚が焼けた。


 煙と悪臭を放ちながら肉が焼けていた。


「死は始まりに過ぎない」


 不敵な笑みを湛えた大司祭の最期の言葉であった。


 その場には、サイラスであった姿の炭の塊と化したものだけが残っていた。


 生命なき存在であった吸血鬼は完全に滅んだ。


 限られた時間がやってきたために、古竜は光に包まれて一瞬のうちに消えたのだった。

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