第9話

 先日の大地震により、大地が裂けていた。


 夜の帳が下りると、漆黒の闇が辺りに満ちている。


 深い裂け目の底から燃えるような赤いマグマが、渓谷を流れる川のように流れていた。


 顔を背けたくなるような熱気が、裂け目から噴き上げている。


 生き物のように蠢く灼熱のマグマを、虚ろな目で狼の王は眺めていた。


「どうなさいましたか? 殿下」


 真っ赤な祭服を纏った女司祭は、狼の王の背中に抱きつくように己の体を密着させた。


 昨夜も炎の神の女司祭は、狼の王と夜を共にした。


 毎晩のように女司祭である紅い女は、王の寝室へ訪問していたのだった。


 大地の裂け目を眺め終わると、王ユアンは仮住まいとしている領主の館へと戻った。


 王が寝室へ入ると間もなくして、紅い女は王の寝室へ訪れた。


 二人は身体が火照るほどの熱い夜を過ごしていた。


 ところが、王都から狼の王の妃である王妃が、王ユアンの寝室へとやって来たのだった。


 狼の紋章の王国は、紅い女の妖術のような炎の神の奇跡で、国民全てが神の僕となる”聖隷”という魔法をかけられていた。


 全ての国民は魂が抜かれたように、神の声が命じるまま虚ろな世界で生活していた。


 やがて、その神聖魔法の効力は失われた。


 国民は夢でも見ていたかのような、曖昧な感覚から醒めていった。


 虚ろな現実から醒めてからは、いつも通りの生活が送られていた。


 薬草の行商人から薬草を買い付けていた宮廷お抱えの薬師は色々な他国の情報を聞いていた。


 その情報の中に、信じられないようなものが含まれていた。


 宮廷薬師は直ぐに王妃へとその事を伝えた。


 王妃は狼の王ユアンが獅子の紋章の国を滅ぼしたと伝え聞き、いても立ってもいられず、王ユアンが滞在しているこの館まで押し掛けて来たのだった。


「奥様いけません!」


 侍女が慌ててその後に続いて、駆け寄ってきた。


「ユアンあなたという人は……」


 王妃アリスンは本来の用件とは別のことで、怒りのあまりわなわなと震えていた。


 王ユアンはそんなことは気にもしないで、目の前の紅い女のしなやかな体を味わい続けた。


 紅い女も王妃に見せつけるように、挑発的に振る舞った。


 王妃アリスンは考え得るあらゆる罵声を、目の前の男女の二人へ浴びせ続けた。


 しかし、この場に王妃はいないかのように、男女の二人は王妃の目の前で甘美な交わり続けていた。


 王妃アリスンは苦痛を伴う怒りのあまり、言葉すら出せずに目を真っ赤に充血させて立っていた。


 やがて王妃の顔は激怒のために形相になり、髪を振り乱して護身用短剣を鞘から抜き放った。


 王ユアンの腰の上に跨がっている紅い女の後ろ髪を掴み、首を後ろに頭部を後屈した。


 天井を見つめるように髪を力強く引かれた女司祭は、勝ち誇ったように微笑んでいた。


 王妃アリスンは手に握った短剣を、紅い女の首や胸部や乳房、腹部を刺し続けた。


 そのたびに鮮血が飛び散り、仰向けでベッドの上に横になっていた王ユアンの顔や胸部、腹部と血飛沫を浴びた。


 狼の王は表情一つ変えずに、女司祭の体を味わい続けた。


 それでも王妃は怒りが収まらず、女司祭を滅多刺しし続けたのだった。


 紅い女は狼の王との交わりに、高声で歓喜の叫びをあげた。


 王ユアンも女の中で果てた。


 王妃アリスンは突然、身体中に異変を感じた。


 そして、苦痛の表情を浮かべた。


 ドレスから滴る血で、床に血溜まりができ広がっていた。


 短剣を握っていられない程に、握力が急速に力が抜けていった。


 血が失われる程に命が失われ生命力は削られていた。


 王妃アリスンは、両手で己の体をさぐってみる。


 身体中、刺傷だられであった。


「ど、どうして!? ……」


 確かに目の前の女司祭に突き刺した短剣の刺傷がないのだ。


 紅い女は血塗れではあるが、何処にも傷を負っていなかった。


 傷を負って生命を奪われるのは自分自身だということを、血塗れの両手を見ながら痛感した。


 次第に視野もぼやけていき、苦痛も感じなかった。


 高笑いしているあの忌まわしい紅い女の声も、聞こえなくなっていた。


 沈み込むような感覚に身を任せると、一気に暗い闇に包まれた。


 炎の神の女司祭である紅い女は、神の奇跡である神聖魔法を行使したのだった。


 それは、己が受けた傷を、傷つけた相手に戻すというものだった。


 紅い女は王のベッドから離れ、床の上に落ちている短剣を拾い上げた。


 王妃の侍女はその場から一歩も動けずにいた。


 目の前の床には王妃が横たわっていた。


 呼吸をするのも忘れて時が止まったように、身動き一つせずに固まっていた。


 侍女の切り裂かれた喉の裂け間から真っ赤な血が溢れ出て、胸元を伝い床へと流れていた。


 口をパクパクと動かしているが、声がまったく出ていなかった。


 侍女は自分の喉を切り裂かれたことで、これから死ぬのだということを自覚した。


 その日の夜、狼の王の寝室では王妃と侍女の二人が冷たい骸となった。


 狼の王は紅い女を伴い、寝室から出て行った。


「崇高な炎の神はどうしておるのだ?」


 突然の質問に、女司祭は一瞬目を見開き驚いた。


「炎の神は、いまだ眠りに就いておられます。器が馴染むまでには時間がかかるのです」


「そうか……」


 狼の王ユアンは紅い女の絡ませた腕を振りほどき、暗く冷たい石の床の廊下を歩き出した。

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