4

 目が覚めた。鼻を刺す血の臭いが消えている。澄んだ空気が肺に供給された。見慣れた屋根が目の前に広がる。戻ってきたみたいだった。あの男を殺したこともすべてが無かったことになった。でもあの感触は僕の中に確かに残っている。確かにこの手で殴り殺した。鈍い音も腐ったような臭いも簡単に蘇える。スマホを開く。今は二月十四日の午前三時だ。コートを手に取って、急いで高校に向かった。


 高校はやっぱり真っ暗だ。昨日と同じ手際で門を超えて、中に入る。ちょっとは慣れたけど、やっぱり誰かに見られてないかビクビクした。こっそりと校舎に忍び入る僕は、第三者から見たら完全に不審者だろう。


向かう先はトイレではなく、教室。2-3という看板が曖昧ながら見えてきた。多分、まだ其ノ橋はここに来ていないはずだ。僕は変にロマンを求めたりする人間だ。夜の学校、教室で其ノ橋と出会うっていうシチュエーションは僕の好きな展開だった。まぁ一番は出来るだけ早く其ノ橋に会いたかっただけだ。ここで待っていた方が早く其ノ橋に会える。

教室のドアはすんなりと開いた。青く静かで誰もいない教室は昼とは別世界のようだ。机がきれいに並べらているのが、余計に寂しさを引きたてた。教室はほとんど暗かったが窓からの微かな街の光が僕の頬を照らす。

僕の机の中に手を入れた。続いて、スマホの光で照らしながら中を覗き込む。なにも無い。まだ、其ノ橋はここに来ていないようだった。そのままガラッと椅子を引いて座る。いつもならクラスの喧騒に消される椅子を引く音も、今は堂々と響き渡った。机に顔を突っ伏す。

今の僕は其ノ橋に会ったら泣いてしまうかもしれない。それに色んな問題点がある。多すぎて頭の処理が追い付かない。第一に僕は其ノ橋のことをなんて呼んだら良いんだろう? 心中では其ノ橋と呼んではいる。でも実際にそう呼ぶわけにはいかないだろうからな。僕が白水の旧姓を知っているのはおかしな話だ。でも、白水っていうのは違うんだな。となったら下の名前しか残ってない訳だけれど……下の名前なんだっけ? 思い出せない。其ノ橋との短い記憶を辿っていく。どうやって自殺を止める、だとか、正直に二月十四日ループ現象を言うのか、とか、問題は山ほどあるのに僕は記憶を辿るのに夢中だった。そういや、小三の冬休みに二人で星を見たな。まだ星に詳しかったあの頃は僕が其ノ橋に星の色々を教えたっけ。星に目を輝かせていた君の横顔が途轍もなく可愛かったのをよく覚えている。


 其ノ橋との記憶を辿っていっていると、ふと足音が廊下から聞こえた。いつの間にか二時間も経っている。僕は思わず教卓の裏に隠れた。数秒遅れてドアが開く。今、思ったけれど隠れる必要あったかな? いや、やっぱしあるか。入ってきたのは恐らく其ノ橋だろうけど、違う人の可能性もある。事務の人とかだったら僕は一発で御用だろう。ところが入ってきたのは其ノ橋だった。教卓からバレない程度にのぞき込む。

其ノ橋は大事そうになにかを持っている。しばらく僕の席の周りをグルグルと周った後で其ノ橋は自分の席から何かを取り出した。カッカっと高い音が人のいない校舎に響く。なにかを書いているようだった。単なる予想だけど多分当たってる。『白水より』っていう紙を書いてるんだろう。

紙に何かを書き終わると、其ノ橋は一息吐いた。それから、普通は誰もいない教室だというのに、コソコソと僕の机の中にチョコを入れた。逃げるように其ノ橋は席を立って、ドアに向かおうとする。声をかけるなら今しかない。これは大チャンスだ。大丈夫。僕ならできる。心に決めて、僕は立ち上がる。一度、深呼吸してから其ノ橋を呼び止めた。


「待って!」


其ノ橋は反射的に僕に顔を向ける。それから床に座り込んでしまった。凄く驚かせてしまったのは申し訳ない。


「驚かせてごめん……」

「栗山、君……?」

「うん」

「なんで……?」

「たまたまというか……色々あって……」


本当に色々あった。僕は其ノ橋の前にしゃがみこむ。


「もしかして……見た?」

「……ごめん」

「ううん……。こっちこそなんかごめんね……」


薄い明かりが其ノ橋の赤くなった頬を照らす。照れた顔も可愛いな……。その顔を見た瞬間に今までのことが全部溢れてきた。嗚呼、ヤバいな……泣きそう。ここで泣いても引かれるだけだぞ。でも、もう抗えなかった。気づいたら僕はバカみたいに泣いている。


「栗山君⁉ 泣いてる? ご、ごめん……そんなに嫌だった?」

「違う! すごい嬉しくて……。目の前に居てくれてるって……」

「どういうこと?」

「僕は……自殺なんかしてほしくない……」

「……そんなのしないよ? だから安心して?」


其ノ橋は僕の背中をさすってくれた。どこまでも優しいよな。其ノ橋の方がよっぽど辛いのに……。そう思うと、また涙が止まらなかった。言いたい言葉は次々、脳内に浮かんでくるのに口が開かない。僕はただ泣いていた。背中の其ノ橋の手がどうしようもなく暖かい。

大分経って、ようやく僕は口を開くことが出来た。


「僕は二月十四日を繰り返してるんだ」

「…………」

「だから、自殺するのも知ってる。僕は君が誰なのかも思い出すことができた」

「自殺なんて……しないよ」

「ホントに?」

「……私は幸せだから……」

「それも嘘。無理なんかしなくていい」

「……無理なんかしてないよ。私は……平気」

「…………僕はどんな其ノ橋でも其ノ橋なら大好きだよ。ずっと二人で笑いたい。やりたいことだってたくさんある」

「……栗山君は優しいね。でも私はその言葉だけで充分。私は今、ホントに嬉しいよ?」

「そんなわけない。……義父にも会った。過去のことも知ってる。だから……」

「……全部知ってるの? 私が其ノ橋だっていうのも、義父のことも……」

「嫌なほど知ってる」

「それでも私のこと嫌いじゃないの……?」

「当たり前だよ。優しくて、かわいくて、笑ったらもっとかわいくて、ちょっと不器用で……、七年前の約束を覚えてて、守ってくれるくらい一途で……。字はきれいだし、星に詳しいし……全部含めて君が好きだよ」

「ホントに?」

「うん、本当」

「ホントのホント?」

「本当の本当」


其ノ橋の頬に涙が光る。僕は其ノ橋を抱き寄せた。普段の僕ならこんなことはできない。すべてを知っているからこそできたことだ。自分ってずるいよな。其ノ橋は僕の胸に体を預けて声を抑えて泣いている。僕はさっきの其ノ橋と同じように其ノ橋の背中をさすった。


「怖かった……ずっと怖かった! こんな私、嫌われるんじゃないかなって。ゆーくんに嫌われたくなかった」

「そんな思いさせて、ごめん……」

「栗山君は悪くない。悪いのは私だよ。ありがと、栗山君!」

「僕は絶対に其ノ橋を守るから……辛いことがあったらなんでも言って?」

「ゆーくんの優しいのは変わらないね。でも私は今が世界一幸せだよ?」

「ホントに?」

「当たり前だよ。好きな人に抱かれて幸せじゃない人なんかいるわけないじゃん」


其ノ橋は泣きながら笑う。僕は恥ずかしくて言葉が返せなかったけれど、其ノ橋の抱く力を少し強めた。其ノ橋の優しい香りが僕を覆う。幸せだった。他に誰もいない教室、二人でただ抱き合った。




三十分以上は経っただろう。其ノ橋の鼓動までもが感じられるようになってきた。僕は呟くように口を開く。


「其ノ橋の下の名前ってなんだっけ?」

かや……だよ」

「茅か……いい名前」

「ありがと」


其ノ橋は笑う。僕もつられて少し笑った。


「茅さんって呼んだらいいかな?」

「呼び捨ての方が嬉しいな」

「じゃあ、茅」

「うん、ゆーくん」


其ノ橋はまた笑った。僕もまた笑う。これじゃ、どこかのバカップルみたいじゃないか。


「そういや……義父に会ったって言ってたけど大丈夫だった?」

「…………まぁね」

「ホントに? 怪我とかしてない?」

「…………僕さ、義父を殺したんだ。ループしてるから、今はもちろん義父は生きてるんだけどさ」

「……そっか。もう次はしないよね?」

「分からない。もしかしたら……」

「それはダメ。私のせいでゆーくんの人生を台無しになんて、したくないよ」

「でも……」

「なにも、殺さなくても大丈夫だよ。私はゆーくんのおかげで覚悟だって出来たから」

「そっか……」

「でも……ありがとね。一回殺されたって考えたら、少しいい気味だよ」

「え?」

「意外だった?」

「いや……ありがと……」

「なんで、ゆーくんがお礼を言うのかな……。言うのは私の方なのに……」


其ノ橋は僕から手を離すと、窓の方に歩いていく。僕もそれについていった。


「もう夜も明けそうだね」

「うん」


空の低いところはもう赤く染まってきていた。街が影になって、少し幻想的だ。優しい朝の時間が僕らを飲み込む。ふと、其ノ橋が僕の腕をつついた。


「知ってるかもしれないけど……」


そう言って、其ノ橋は僕の机からチョコを取り出す。それから僕にそれを差し出した。


「チョコを作ったので受け取ってほしいです」

「ありがと。女子からチョコ貰うのは初めてだよ」

「じゃあ私が初めてだね。嬉しい」

「そっか……」


少し頬が赤くなる。丁寧にリボンをほどいて、箱を開ける。その瞬間に柔らかい香りが鼻に広がった。食べるのが勿体ないくらいにかわいいチョコが入っている。


「食べてもいい?」

「もちろんだよ」

「じゃあ……」


口にチョコを入れる。優しい味が口中に広がっていく。溶けていく甘さが僕を包み込む。二月十四日を思い返す。本当に色々あった。辛いことだって沢山あった。でもそれも全部吹き飛んだ。人生の中で一番おいしかった。僕はこの味をずっと忘れない。これ以上に美味しいものなんてきっと世界のどこにだってない。僕は幸せです。


「泣きそうな程、美味しい……」

「泣いちゃダメ。泣き虫になっちゃうよ?」

「それでもいいよ」


僕は目を潤ませる。それは其ノ橋も同じだった。瞳が純粋に光る。こうして二人でいる奇跡を僕は噛み締めた。そして僕は言った。これが今の僕の全部だ。


「茅のことが大好きです」


そしたら其ノ橋は弾けたように微笑ほほえんだ。涙をこらえながら其ノ橋も言う。


「私もゆーくんのことが大好きです!」

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2/14 みんみん @minnminn

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