3

 空気が冷たい。息を吐けば白く染まる。何も考えたくない。今の僕は魂が抜けた蝋人形のよう。どこかも知らない街を歩いている。学校からできる限り離れたかった。僕はなにも知らない。もしかしたら、白水さんだって無事かもしれないじゃないか……。気づけば、夜は明けて、日も昇っていた。ゾンビのように歩き進む。きっと僕は酷い顔をしているだろう。

白水さんは生きてて良かったんだろうか? 死んだ方が良かったんじゃないか。白水さんは家にも学校にも居場所は無かった。きっと、この世界に絶望してた。だから死ぬことにした。


それって僕が止めて良いことなの?


生きてた方が辛い少女にまだ生きろって言うの?


このままずっと生き地獄を味わわせるの?


死んだ方が幸せじゃないか。生きてるよりずっと。これで良かったんだ。僕が白水さんを助けたとして、その後、僕はどうしたらいい。僕には白水さんの居場所なんて作れない。自殺を止めて、その後は無責任に突き放す。そんなのが良い訳ない。

僕ってなんで白水さんの自殺を止めようとしてたんだろ? 白水さんを助けたいから? 違う。僕が助かりたいからだろ。ループする二月十四日の原因はきっと白水さんの自殺だ。白水さんの自殺を止めたら僕は二月十四日から脱せられる。だから助けようとしてたんだ。でも、もういい。永遠に二月十四日でいい。


白水さんのいない明日なんていらない。



 




 どれ程、歩いたのか。見知らぬ住宅地が広がっている。太陽はすっかり頭上まで昇っていた。寒く、乾いた空気が目を刺す。ふと足が止まった。知らない住宅街の中に一つ見覚えのある建物。白水さんの家だった。錆びたトタン屋根が冬にあっている。足が動いた。白水さんのことが忘れたくても忘れられない。昨日のノートの続きが見たい。この時間なら大柄の男だっていないだろう。昨日の記憶が一瞬蘇るけどすぐに消えた。もう怖くなかった。今の僕は感情が消えていた。


力無しにノックすると、昨日の通り弱々しい女の人が出てきた。


すいません、白水さんに用事があって……。


そう言って白水さんの部屋に入れさせてもらった。僕の予想した通り、この女の人は押しに弱い。そこに漬け込むのは申し訳ないけど、この際仕方がなかった。

昨日ぶりの白水さんのスペースは昨日よりもずっと淡く見えた。今すぐにでも崩れそうなほどもろい。あのノートは昨日と同じところに置かれていた。それから、すぐにノートを手に取って外に出た。長居はしたくない。昨日のここでの経験は僕の胸に恐怖としてしっかり刻まれている。再び僕の知らない街に迷い込み、白水さんの家を離れた。



 見覚えのない住宅街というのは人の恐怖を煽る。どこからか聞こえる小学生の笑い声にも肩を震わせた。歩き疲れた。今日、一日中歩いたのだから当然か。目の前に公園が見えた。少し休憩しよう。僕は東屋あずまやに座った。

ノートは手元にある。自分を少し落ちつかせてからノートを開いた。やっぱり、鉛筆で書かれてかすれた文字は意味を読み取るのに少し、時間がかかった。



『二月十四日

 これでこの街ともお別れ。友達に挨拶ができなかったのが悲しいです。ゆーくんにも会えませんでした。チョコを渡すから楽しみにしててねって約束したのに……チョコを渡せませんでした。ゆーくんに食べてほしかったチョコは私のかばんの中に入ったままです。私は泣いてしまいました。車を運転中のママは私を慰めてくれます。謝ってくれます。でもママ、違うんです。私はママとパパが喧嘩したから泣いてるんじゃないんです。ゆーくんにチョコを渡したいだけなんです。だからそんなに泣かないで?』


無駄に動悸が激しくなる。息が切れた。冬の冷たい空気が鼻を刺す。目は文を追った。


『二月十四日

 最近、ママが新しい男の人を連れてきました。新しいパパだそうです。少し喋りにくいけど頑張ります。パパと仲良くしないとママが悲しくなっちゃいます』


『二月十四日

 パパが怖いです。よく叩かれます。よく怒鳴られます。でも私は我慢します。ちょっと痛いけど最近は少し慣れてきました。だから私は平気です』


『二月十四日

 中学生です。今日はちょっと気持ち悪くて文が思いつきません。義父に無理やり飲まされたウイスキーが効いたようです。吐き気が止まらなくて、頭も痛みます。それでも、この日が好きです。いや……やっぱり少し嫌いかもしれません』


『二月十四日

 もう慣れてきたけどやっぱり辛いです。最近、生きてる意味が分からなくなってきます。ゆーくんに会いたいです。でもこんな私を見たら失望して嫌われるなんて思ったら怖いです』


『二月十四日

 最近よく血を見ます。今も咳が血の味がして気持ち悪いです。咳すれば血の塊が出てくるのでなにかの病気みたいです。そろそろ私も死に時ですかね』


『九月三日

 痛いです。腕が動きません。口の中は変な味が籠ってます。顔は多分、腫れてるんでしょう。視界がとてつもなく狭いです。少し動く度に全身に電気が走ったようです。服が足にかすった時の痛みは特に痛いです。熱が出ています。どんなにたちの悪い風邪よりも酷い熱だと思います。今も痛みに泣きながら、声を押し殺してこれを書いています。毎年、二月十四日にしかこのノートを開かないって決めてたんですけど……もう耐えられないです。いますぐ逃げ出したい。あれだけ嫌いだったウイスキーも今は自分から飲んでます。傷が痛むけど、気はいくらかマシになった気分です。でも、こんなの気休めにもならない。助けてください。今が凄く怖いです。義父が家にいない時もずっと恐怖が心臓を掴んで離しません。吐いて、吐いて、吐いて……物を食べないので最近は胃酸が出てきます。こんなの生きてるっていうんですか? 会いたいです。ゆーくん、どこにいるんですか? 私の前に不意に現れたりなんて……しないですか?』




『一月八日

 気が付けば高二でした。もう書かないつもりだったんですけど……転校した高校にゆーくんがいました。間違いありません。名前も雰囲気も顔も一緒です。小学校から使ってるキーホルダーもカバンについてました。やっと会えました。すごく泣きそうです。でも私は私だとゆーくんに言えませんでした。今の私はゆーくんの知ってる私じゃありません。私の現状は最悪です。ゆーくんを巻き込ませたくないです。最後の最後で嫌われたくないです』


『一月二十八日

 私の空気は取れないようで相変わらずクラスの人から虐められました。いつもみたいに悪口を言われたり、わたしの物になにかされたり……。そのはずなのに、なぜか私は胸が痛みます。すごく泣きそうになります。すごくつらいです。義父にも何度か殴られました。もう平気だったはずなのにダメになりました。殴られるところ一つ一つが痛いんです。ゆーくんに会えて幸せなはずなのに前よりずっと辛いです。どうしてくれるんですか』


『二月十四日

 これがきっと私の遺書になります。書くのは初めてなので緊張して文字が震えます。でも誰にも見られることはありません。私がいなくなったらきっとこのノートも無残に捨てられるはずです。だから、これはただ自分の本心を吐ける唯一の場所でただ本心を吐くだけです。これから私は学校に忍び込んでゆーくんの机にチョコを入れます。それから首を吊って死ぬんです。最近はもう耐えられません。一日一日が辛いんです。だから私は死にます。全てを投げ出します。ゆーくんとの約束は私の支えでした。いつか叶えたい夢でした。それをしないまま死ぬのは嫌なので、最後にチョコを渡しておきます。義父にバレないようにこっそり作ったのでそんなに凝った物じゃないですけど……初めてそういうのを作ったからおいしくできたか分からないけど……食べてくれますように』



それ以降は白紙だった。最後の文字はどの文字よりも掠れずに、はっきりしているが異常に震えている。

僕はもうすっかり前が見えなくなっていた。人目なんて気にせずに声を出して泣いた。僕は最低だ。なんで気付かなかったんだ。僕は半分、其ノ橋さんを忘れていた。本当にクズだと思う。なにが「間違えて入れたチョコ」だ。なにが「死んだ方が幸せ」だ。なにも知らずによく言えたな。気づくのが遅すぎた。この事を知っていれば僕はあの時、屋上で気の利いた言葉が言えただろうか? きっと、今日はもう一度来るだろう。また助ける機会はあるはずだ。でもそんなんで済ませられなかった。僕が白水……いや、其ノ橋を殺した事実は変わらない。何度、二月十四日がループしようとも関係ない。それに今日の今日まで其ノ橋を自殺に追い込むまで僕は何も気付かなかった。僕がもっと早くに気付いていたら、この一か月半近く、其ノ橋を少しは幸せにできたかもしれないんだ。

恥だとかは捨てて、ひたすらに泣いた。公園で遊んでいる子供は不思議そうな顔で僕を見てきた。どれくらい泣いたか分からない。人生で一番泣いたのは確かだろう。

泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れた。極端な眠気が僕を襲う。抗う体力は残っていなかった。次、目覚めたときは新しい二月十四日だろうか。





 ここが夢に近い場所であることはすぐに分かった。が、現実であることも分かった。目の前には血だらけの女の人が二人倒れている。大人と子供の二人だ。その内の子供のほうには大柄の男がまたがっていた。見覚えのある顔。僕の内に恐怖として刻まれた顔だった。倒れている子供は其ノ橋だろう。顔が無茶苦茶に腫れていて元の顔が分からなかった。遅れて血生臭い匂いが鼻に突き刺さる。それだけで吐き気を催す。男は執拗に其ノ橋の顔を殴り続けている。その度、赤黒いが鈍い音と共に飛び散る。男の服は元が何色なのか分からないくらいに黒く染まっている。

僕は全力で止めに入ろうとした。台所にある包丁でアイツの喉を掻き切ってやろうと。こういう時だと人は当たり前のように殺人を考える。明確な殺意が僕の中で湧いていた。恐怖なんてない。強い恨みだけが残っている。けれどそれは出来なかった。僕には体が無かった。意識だけがここに置かれているようだった。ただ見ている事しかできない。男を殺すことも、外に出て助けを呼ぶこともできない。ただの生き地獄だった。

男は殴ることを辞めない。其ノ橋が殴られたのはどうやら顔だけじゃないようだった。体の至る所が真っ赤に腫れあがり、血で染まっていた。足は皮膚が溶けたようにただれている。まるでそれが元々足だったのか疑われる程だ。近くには黒く血のこびり付いたアイロンが転がっていた。

どれだけ殴られても其ノ橋は声を出さなかった。失神している。男は不意にはさみを手にした。僕は出来る限りの怒号を飛ばしたつもりだ。男を殴ろうと全力で体を動かしたつもりだ。けれども意味なんて無かった。数秒後に振り下ろされた鋏の刃は其ノ橋の腕に刺さり込んだ。其ノ橋は腫れた目を見開き、人間とは思えない叫び声を上げて再び失神した。高いのか低いのか分からない叫び声は血の匂いが充満する部屋に永遠に響いた。僕はこの叫び声を一生忘れない。いつまでも耳に残り続ける。鋏が刺さった腕からは異常と言っていい程の血が流れ出ていた。ドクドクと床に流れる血は床の溝に流れてから全体に広がっていく。

男は容赦なく逆の腕も刺した。其ノ橋は叫び声を上げて、また失神する。血も同じように広がっていった。

目を瞑りたい。それが無理なら目を逸らしたかった。でもそれもできない。血の匂いが強くなる。男は鋏を投げ捨てるとキッチンに向かった。それから、なにも無かったようにコーヒーを淹れ始める。異様だった。とても人間のすることじゃなかった。途轍とてつもない殺意に僕は飲み込まれる。床に転がっている其ノ橋は其ノ橋だと分からない。

男はコーヒーを飲みながら朝刊を読み始める。今が二年前の八月三十一日という情報が目に入ってきた。でもそんなことはどうだっていい。


目の前の其ノ橋に駆け寄りたい。


男を殺してやりたい。


絶対に殺してやる。


ここで夢のような何かが終わった。






 冬の冷えた公園。すっかり暗くなっている。空気が異様に新鮮に感じた。二月十四日に戻って、家にも戻っていると思っていたので驚いた。腕時計は二月十四日、夜七時を指している。どうやらほとんど寝てなかったらしい。

今になって体が震え始めた。寒さのせいなんかじゃない。恐怖だとか憎悪だとか汚い感情からの震えだ。其ノ橋の過去。僕はそう確信を持った。案外、僕は冷静だった。腰が抜けていると思ったが普通に立てる。僕のやることは決まっていた。どうせ明日も二月十四日だ。何をしたって結局無かったことになる。僕はやらなければ抑えられない気がした。それに其ノ橋を助ける決意を固めるためにもなる。なんせんだ。


 ホームセンターに来ていた。幸い手持ちがいくつかある。買うものは決まっていた。トンカチと果物ナイフ。少し物騒な組み合わせだが問題はないだろう。何食わぬ顔でレジを通った。本当に冷静だ。これから人を殺すなんて自分でも思えなかった。嵐の前の静けさというものなのだろうか。


 其ノ橋のアパートに着いたのは夜の九時を回った頃。住宅街はすでに静かで月明かりもほとんどない。今から僕がすることを歓迎しているようだった。動きは頭の中で組み込んだ。あとは実践するだけ。ここまで来ても怖じ気のような感情は一切無かった。むしろ楽しみだと言っても良いかもしれない。とても僕が普通の人間だとは思えなかった。まるで殺し慣れているようだ。

ドアの前に立つ。中からかすかだが声が聞こえてきた。ドアの中に耳をすます。


「面倒なんじゃ! どうせ死ぬならもっと目立たんとこで死なんかい。こっちは迷惑なんや。ほんまに融通効かん奴やわ! 金が入ってくるなら良かったけど、入ってこなさそうやし、とんでもない役立たずや。死ぬ時くらい、役にたてや!」


男の罵声。其ノ橋の母親にでも言っているのだろうか。やっぱりコイツは死ぬべきだ。トンカチを握る手の力が強くなる。僕は決心に決心を重ねた。

堂々とドアをノックする。左袖の中にトンカチ、右袖の中にナイフを忍ばせた。いつでも刺せる。なんだろうか、この不可思議な感情は。心臓が高鳴る。足音が近づいてきた。音の重さから察するにあの男だろう。違ったらマズいので確認はするが。

して……出てきたのは例の男だった。間違いない。男が何かを言う前に僕は男に倒れ込んだ。


ナイフがズブリと男の腹に刺さる。


案外、簡単に刺さった。手元に思ったほどの感触が残らない。これでは本当に刺さったのか不安だったが、男の苦悶の表情を見るとそんな疑問も消え失せた。男は僕と一緒に玄関に倒れた。ドアが大きく音をたてて閉まる。手に温かくてドロドロしたものが流れてくる。錆びた鉄の匂いが男の酒臭さを塗り替えた。男は今にも叫びだしそうに口を開けた。しかし、僕の手がそれを許さない。冷静に果物ナイフを男の腹から抜くと、今度はそれを男の喉に突き立てた。ナイフは抵抗を見せることなく、喉に刺さる。食道だかどこだか知らんがそこまで射し込む。溢れ出す血は想像以上に多かった。人間の体の中には血しかないのかと思うほどだ。

ナイフを喉から抜き取る。グシャっという音。男は声が出せなくなっていた。これで叫ばれずに済む。出会い頭の二連撃は男に逆襲の時間を与えなかった。次は視界を奪う。目が見えている限り、いくらでも逆襲されてしまうだろう。僕は異常に冷静だった。血飛沫ちしぶきを浴びて、ナイフを振りかざしている状況だとは思えない。意識の半分は僕の体の外にあるような気分になった。

これから死ぬ男に慈悲はない。目を何かで覆うなんていう煩わしいことはしない。簡単だ。ナイフを右目に、続いて左目に振り落とす。頭蓋骨が引っ掛かって奥まで届かなかったが、目を奪うには充分だった。男は叫び声をあげようと必死に喉を震わせる。その度、喉の傷口からヒューヒューと空気が通る音がした。どれだけ叫ぼうとも無駄だ。目にナイフを突き刺したせいで顔も血に濡れている。表情が分かりにくいが、きっと恐怖に怯えた顔をしているだろう。その感情だ。お前がこれまで其ノ橋に植え付けてきた恐怖に比べたらむしろそんなのはマシと言っても良いだろう。

男はがむしゃらに手を振り回す。微かに口が動いているがなにを言っているのかは分からなかった。まぁ、大方おおかた助けを求めるようなやつだろ。安心しろ。明日になったらお前は生きてる。

僕は容赦なく頭をトンカチで殴った。グシャっと、なにかが潰れた音がした。トンカチの先が赤く染まる。こちらは案外、感触があった。手がジンジンとしびれている。何度もトンカチを振り下ろした。その度に鈍い音が狭い部屋に響く。最初は必死に手を振り回して抵抗していた男だったが、三回目辺りでそれも落ち着いた。五回目にはグッタリとし始めたけれど、それでも僕は殴り続けた。その内、ただの無機物を殴っている感覚におちいる。機械的に殴るようになった。もはや、顔が顔なのか分からない、顔だった何かになっている。右手が疲れたら左手、左手が疲れたらまた右手にトンカチを持ち変える。

今、僕はどんな顔をしているだろう。怯えながら人を殺す、腰抜け殺人者か。笑いながら人を殺す、サイコパス殺人鬼か。どちらも違う。きっと僕は無表情だ。あまりに必死だから表情に表す余裕なんて無かった。


時計から見るに一時間は経った頃。僕は殴る手を止めた。男はもう、すっかり動かない。息も脈も無かった。男は死んでいた。全身から力が抜ける。僕は僕が思っているよりも疲れてるらしかった。鼻がおかしくなりそうなにおい。なにかが腐ったような臭いだ。

罪悪感は湧かない。どうせコイツは明日になったら生きている。僕が殺したのは無かったことになる。なんなら僕は達成感に浸ってすらいた。衝動と言えばそれまでかもしれない。でもコイツは殺されても仕方が無かった。僕は其ノ橋が殴られているのを見た、あの不思議な空間が過去の事実なのだと確信していた。本能的に理解した。それ以外はありえない。あれが夢だとかそういう類のものでないのは明確だ。屋上で其ノ橋と喋った時からずっと其ノ橋が頭から離れない。もう一度喋りたい。くだらない話で笑って、星を語り合って……悪戯に唇を抑えられたりもしたい。


きっと僕は其ノ橋に恋をした。


遅すぎたんだと思う。この恋はいわば小学四年生からのぶり返しでしかない。其ノ橋が小学校から転校してからの七年間、僕は心のどこかでずっと其ノ橋を想い続けていた。半分忘れながらも、半分恋をしていた。男に対するあのどうしようもない憎しみも全部其ノ橋への恋心からだろう。生きてる価値なんてこの男にはない。それは新しい二月十四日が来ても変わらない。そこでこの男を殺すかどうかはまた考えよう。今は其ノ橋に会いたい。早く夜が明けてほしい。随分疲れてしまった。体が動かない。返り血で真っ赤に染まった僕は部屋の隅に座り込んで動かなかった。反対側に其ノ橋の母が見える。ただ呆然としていた。瞼が重くなってくる。血だとか消化液だとかが飛び散った部屋の中で眠ってしまいそうだ。この臭いにはもう慣れた。吐き気なんて気にならない。殺したやつの目の前で眠るなんて気が狂ってるとしか言えない。まぁ、それも一興なんじゃないだろうか。


二月十四日、午後十字二十分。僕は眠りに堕ちた。

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