2

 その後も全部、僕の知っている未来だった。今は間違いなく昨日だ。それでも僕は信じられなかった。きっとこの世界は夢だ。こんなことが現実で起こるはずがない。

必死で否定するけど、この感触はどう考えても現実でしかなかった。その後の授業はほとんど聞けていない。どうせ、昨日聞いたことだ。僕の中の肥大化した疑問は恐怖になり、僕を押しつぶしてくる。

二月十四日がループしているのは認めざるを得なかった。だってそれ以外にありえない。しかも、ループしてるのは僕だけのようだ。他のクラスの奴らは皆、昨日と同じ動きをしている。僕みたいに戸惑ってるやつなんていなかった。原因なんて分からない。きっと、どうしたって求められないだろう。でも……二月十四日は普段と同じとはとても言えなかった。白水さんの自殺が頭に走る。机の中のチョコに目を落とした。



放課後。僕は先生のもとに走った。白水さんが見つかる前に行かないと色々と面倒臭くなってしまう。僕は白水さんの家に行くことにした。なにかが分かるかもしれない。けれど、僕は白水さんの住所を知らない。先生から聞き出すしかなかった。

先生は普段と変わらぬ顔で職員室に入ろうとしていた。どうやら、まだ白水さんのことは伝わってないようだ。とりあえず一安心。躊躇ためらうことなく先生に声をかける。


「先生」

「おぉ栗山。どうした?」

「今日の化学のプリントが結構重要らしくて……白水さんに渡しにいくので、住所を教えてくれませんか?」

「突然だな。栗山が白水と喋ってるのを見たこと無いぞ」

「実は仲が良いんですよ。昨日も一足先にチョコをもらっちゃって……」

「そうか……まぁ、待ってろ」


先生は職員室の奥に小走りしていった。案外、上手く行くものだな。まぁ嘘ではないし。実際、貰ったわけだし……。僕からしたら昨日なわけだし……。

しばらくして先生は戻ってきた。無事に住所をゲットして言われた場所に向かう。校門前にたむろしている生徒たちの言葉には聞く耳も持たなかった。どうせ白水さんのことだ。無駄なのに、知っているのに、知らないフリをしたかった。僕はなにも聞いてない。白水さんは死んでなんかないんだ。


久しぶりに電車に乗った。数年越しだから切符を買うのに戸惑ってしまったのは恥ずかしい話だ。車窓からの景色が勢いよく流れていく。この時間、電車にほとんど人はいなかった。一駅先で降りてから改札を通る。住宅に囲まれた小さな駅は、住宅街に飲み込まれそうに感じた。

スマホを駆使して、たどたどしく白水さんの家に向かう。それらしい場所に着いたのは十分程経ってからだ。少しボロいアパート。アパートの共用廊下には所々が錆びたトタン屋根が備え付けられている。一階の一番奥の扉に白水とペンで雑に書かれた表札があった。インターホンはついていない。ドアをコンコンと二回、ノックをする。暫くの沈黙の後にガチャッと鍵の開く音が扉の向こうから聞こえてきた。扉が開いて中から出てきたのは、かなり痩せ細った女の人だ。顔色から見るにかなり疲労が溜まっている。白水さんとは似ても似つかない。女の人は僕よりも大分年上で、ちょうど僕の母と同じくらいだろう。それなのに、僕はその人がとても小さく見えた。


「白水さんのクラスメートの栗山です。プリントを持ってきました」

「……わざわざ、ありがとね」

「いえいえ。……少し、白水さんの部屋にお邪魔してもよろしいですか?」

「…………大丈夫よ。遠慮なく……」

「ありがとうございます」


白水さんの母らしきその人は僕を不思議そうな顔で見たが、すぐに僕を通してくれた。

家の中は普通だった。特別、汚いわけでも、整頓されてるわけでもない。部屋は二つあった。一つは居間、もう一つは寝室だ。寝室の隅に白水さんのスペースがある。と言っても、控えめに机が置かれているだけだ。白水さんの物なんてほとんど置いてなかった。机の上に何冊かノートが立て掛けられているのみ。一冊、古びたノートが目をひいた。もう、背表紙の部分が剥がれかけていてボロボロだ。なんだろう? 気づけば手に取っていた。女子の部屋の物を勝手に漁るとか……。変な背徳感を感じながらノートを開く。

ノートは七年前の二月十四日から始まっていた。日記のようだ。少し薄れて、消えかけている鉛筆で書かれた文字。微かに懐かしい匂いが流れてきた気がした。読もうと、文字を目で追い始める。


その時だった。


ドアが激しく開く音がした。怒号が部屋中に鳴り響く。次に、玄関先で迎えてくれた女の人の悲鳴が聞こえてきた。なんだよ……。反射的にノートから目を離し、後ろを振り返る。そこにはガラの悪い大柄の男が立っていた。女の人は床に倒れ込んでいる。押し倒されたようだった。ヤクザのような大柄の男は僕に近づいてくる。思わず僕は後退りした。できるなら今すぐ、ここを逃げ出したい。けれど足が棒になってしまったみたいに動かせなかった。


変な汗が全身から吹き出る。


ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい……。


怖かった。人生で一番と言ってもいいだろう。男は遂に、僕の目の前まで来た。酒くさい。匂いだけで酔ってしまいそうだ。男はギラリと目を光らせて僕を睨む。全身に悪寒が走った。それから、男はドスの効いた声を僕に向ける。


「おい、お前誰や!」

「…………」

「誰か聞いとんねん! 答えんかい!」

「……く、栗山です……」

「なにしに来たんや!!」

「そ、その……学校のプリントを渡しに……」

「なら、用が済んだならさっさと出てかんかい!! 邪魔なんじゃ!」


手が震える。足が震える。視界が絞まっていく。かばんが妙に重たい。腰がガクンと落ちた。壁をつたってなんとか立ち上がる。できる限りの力を振り絞って玄関に向かった。ドアを倒れるように押し開けて外に転がり込んだ。ドアがガチャリと閉まる。ドアの中から男の叫び声やなにかが壊れる音が聞こえてきた。体が震える。気持ち悪いくらいに鳥肌が立った。吐きそうだ。どうしようもない恐怖に襲われた。恐怖が僕の体を蝕んでいく。男の睨み顔が目から離れない。男の怒号が耳から離れない。

ノートは机に置いてきてしまった。気になるけれど、取りにいけるわけがなかった。怯える足を必死に動かして家に向かう。斜陽が街を刺した。



家。安全なはずなのに怖い。アイツは……白水さんの父親? なんなんだよ。アイツが死ねばいいのに! 白水さんなんかより……アイツが死んだらいいんだ。あんなクズがいなくなった所で誰も嘆かないだろう。いっそのこと僕が殺してやろうか。……想像しただけで手が震える。僕にはとても出来そうにない。情けねぇな、ホント。

部屋は昨日と同じだ。当たり前だけど。冷たい街灯の光が部屋を染める。僕は今日も部屋に閉じこもったままだ。時間が経つのが遅い。一分が何時間にも感じる。それでも、やっと日が変わった頃、僕は眠りに堕ちた。おぼろげな意識の中で僕は思う。明日は来るのだろうか? 僕は……明日が来てほしいのだろうか?





目が覚めた。外はまだ薄暗い。時計は三時を表示している。ってことは……もしかして! スマホを開いた。二月十四日。戻ってこれた! 声に出せない喜びが爆発する。でも、のんびりはできない。フード服を雑に掴み取り、外に出た。さすがは二月、寝間着だけだと凍え死んでしまうかと思うほど寒い。フード服を上にかぶり、自転車を必死に漕いだ。夜中の三時の街は眠っている。車道に車が通ることはなく、人影一つも見かけない。街灯が寂しく冷たいアスファルトを照らし、信号が機械的に変わるだけだ。冷たい風が頬を切る。鼻がツンとした。目に涙が溜まった。


夜の学校は一段と暗い。街灯が一つもない学校は夜の闇に抗うことは出来ないらしい。もちろん、門は閉まっていた。自転車を門の近くに目立たないように止めておく。それから、たっぷり助走を付けて門を駆け上る。腕に精一杯の力を込めて、足で壁を蹴って、なんとか登りきった。バレないようにさっさと門の上から学校側に降りたつ。ドサッという低い音が鳴る。少しドキッとした。低い音は自分の着地音だった。少し悪いことをしている気分になる。まぁ実際悪いんだけど……。先生に見つかったら大変だ。ゆっくりと立ちあがる。今度は自分の影にびっくりした。コソコソと足音をたてないように学校に入り込んだ。


怪談の舞台によく夜の学校が選ばれることがある。でも実際に来てみたらそれは間違いだと感じるかもしれない。夜の学校は想像以上に澄んでいた。幽霊が出そうな、どす黒い空気なんて感じられない。廊下から校庭を望む。街の灯りが少し入り込んできていた。ほのかに光っている。前に新聞で光るキノコがあるというのを見た。校庭を照らす光もきっとそんな幻想的な雰囲気だろう。本当に白水さんはここで自殺したのか……。この学校に僕以外の誰かがいる。それがとても信じられなかった。白水さんが首を吊ったのは三階東の女子トイレ。暗い廊下を小走りして向かう。先が見えない。永遠に続くようにも感じる。それでも突き当りに出た時、右手にトイレが佇んでいた。火災ベルの赤い光が異常に目立つ。全身が真っ赤に染まった。暫く、体が固まった。

白水さんはまだ生きているだろうか。もし、死んでたら……そんな恐怖が僕を襲う。でも……一足一足、恐る恐る足を動かす。もちろん躊躇はする。白水さんが首を吊っているのを見たくなんてない。それに、真夜中といえど女子トイレということに変わりはないんだ。流石に中に人はいないだろ……。いないと思いたい。

震える手でトイレのドアを引く。ギーっという重たい音が校舎棟に響いた。緊張が強く張る。頬に力を入れる。固唾を飲んだ。バタンと大きく音が鳴り、扉が閉まる。闇に沈んだトイレには小さい窓から微かに差し込む光が浮かんでいた。夜のトイレはどことなく不気味だ。特に女子トイレは個室がその恐怖を倍増させる。不協和音が耳の中で爆裂したように気持ち悪い。個室を一つ一つノックしていく。二月の冷えた空気に甲高い音が響いた。音は寂しく落ちるだけ。なにも返ってこない。個室の中には空気が感触なしにあるだけだ。強張っていた体から突然力が抜けた。白水さんはまだ生きている。そう思うだけで頬の力が緩む。良かった、良かった、とただ繰り返した。


廊下の壁にもたれて、ここに来るであろう白水さんを待っていた。なんて声をかけよう? 生きてて良かった? それはおかしいか。死ぬな、とか。いや、僕が白水さんが死ににきたのを知ってるだけで変な話。白水さんと会えたのは運命だ。これはイタイか。

白水さんにかける言葉を思い出しては消えてを繰り返す。ちょっと楽しい。ろくに喋ったこともないのに、こんなに想像がはかどるもんなんだな。

どれくらい経ったか分からない。夜の学校では時間が忘れられる。外は暗いままで黎明はまだ差さなかった。


ふと、廊下の奥からなにかが歩いてくるような音がした。普通なら怖くて逃げ出すかもしれない。でも、むしろ僕は高揚した。僕はその音の主が白水さんだと信じてやまなかった。ずっと待っていた。ずっと話しかった。ずっと会えなかった。僕は堪らずに音の方に走る。少し蒼に染まった視界の先に人影が見えた。拍動が跳ねる。静かな校舎で心臓の波打つ音だけが僕の聴覚を支配した。遂に人影まで数メートルに迫ったとき、その顔がしっかり目に飛び込んだ。驚いたような顔をしている。白水さんは少し後退りをした。互いに声が出せない。校舎の真ん中で二人の高校生が暫く固まる。先に声を出したのは白水さんだった。


「えと……栗山君? なんで、ここにいるの?」

「そ、そっちこそ……」


理由は知っているのに、知らないふりをした。顔を見られたら嘘だとバレるような顔をしているかもしれない。暗いのが助かった。


「わ、私は時々、夜の学校に来るの」

「そうなんだ。偶然だね。僕もだよ」


もちろん嘘。夜の学校なんて初めて来た。案外、気に入ったから今後は来ることになるかもしれないけど……。


「夜の学校は安心できるんだよね。私はこの時間が大好き」

「……せっかくだから、ちょっと話する?」

「……いいよ。それなら私のお気に入りの場所に行きたいな」

「お気に入り? どこ?」

「え〜、夜の学校の常連な栗山君だったら分かるんじゃない? 屋上だよ?」

「屋上……」


学校に死ににきた少女が屋上に行きたいなんて言ったら、嫌でも想像してしまう。投身自殺。『お気に入り』なんて言葉も変に深読みし始めたり……。


「屋上はやめとこ? ほら……寒いし」

「それなら私だけで行くよ。じゃあ、またね」


白水さんは僕に手を降ってから階段を登り始めた。一人はマズイ。でも、ここで無理に止めるのもおかしい。僕がいたら大丈夫だよな……。きっと、止められるよな……。頼んだぞ、僕。僕は覚悟を決めた。


「待てって! 僕も行く!」

「うん!」



 屋上は昼にも行ったことが無かった。夜なんて尚更なおさらだ。そもそも屋上があることを知らない。踊り場に段ボールが積まれたさびれ気味の階段を登る。白水さんは見た目が少し重厚な鉄製のドアを押し開けた。その瞬間に冷え切った風が流れ込む。一気に頬が冷える。薄めのズボンは風を通して、足が震えた。

目の前には本当になにも無く、ただ、だだっ広いだけの空間が広がっている。風を遮るものがない。寂しくベンチが一つ置かれているだけだ。ガチャンと重そうな音が鳴ってドアが閉じる。僕らはまるで異世界のような屋上にただ二人、取り残された。


「ほら、星がきれいでしょ?」

「え?」


白水さんにならって上を見る。無数の星が空にきらめいていた。山奥程、きれいだとは言わない。でも、ここが街の真ん中だとは思えないほどの夜空だ。よくある表現だけど、『星が降ってきそう』っていうのは良く言ったものだと思う。


「あれはオリオン座で……あっちがふたご座」

「詳しいんだね」

「別に詳しくないよ……。ただ……好きなだけ……」

「ホントにキレイだな……」

「今日は新月だから特にね。月明かりが無いから星が映えるの」

「好きな星とかあるの?」

「……ベテルギウスとかかな?」

「べてるぎうす……?」

「嘘……知らないの?」

「うん……」

「ホントに?」


怪訝そうな顔で言われた。そんな風に言われても困るんですけど……。知らないんだから仕方ないじゃない。昔は星が好きで、色んなことは知ってたけど……忘れちゃったな。


「……冬の大三角の一つの星だよ。他の二つはシリウスとプロキオン……かな? オリオン座の星でもあるよ」

「へ〜、なんでベテルギウスなの?」

「……消えるんだ」

「え?」

「消えるの。ここ最近、ベテルギウスの光が急速に弱くなっててね。超新星爆発……つまり星が爆発して消える予兆なんだって」

「そうなんだ……。なんか寂しいな」

「確かにそうだけど……でも、一千万年も生きてきた星がなくなるってなんか凄いじゃん。全部、忘れて消える時ってどんなのかなって」

「白水さん……」

「変だよね……ごめん、忘れて!」


白水さんは僕に首を傾けて笑いかけてくる。無理に笑うことなんか……。なにも言えない僕が悔しかった。ほのかな光が白水さんを照らす。傾けた首元になにかが見える。それがなにか分かった瞬間、息が詰まりそうになった。思わず目を背ける。それって……


「白水さん……首元……」

「え? なに?」

「それ、痣だよね……」

「…………違うよ、って言っても無駄だよね……。バレちゃったか〜。夜中だからって油断しすぎたよ」

「…………僕ならなんにだって相談に乗る。……だから、だから……」

「相談することなんて……いや……だしいっか……」


白水さんは話し始めた。薄く見える彼女の顔はどこか清らかで、まるで別の人のことを言っているようだ。


「私のお母さんは私が小四の時に離婚したの。別にそれはよかった。でも再婚相手がダメだった。きっと仕方無かったんだと思う。私たちにはお金が無かったし……」


白水さんは一息吐く。息は白くなって消えていった。


「会社で上手くいかない度に私たちは殴られた。最初は平手打ちとかだけだったけど、それもエスカレートしてね。……あの男は頭だけ良かったよ。何も考えずに私たちを殴ってくれたら良かったんだけど、服に隠れて見えないところばかりを殴って……」

「…………誰かに相談だとか……」

「してないよ。……一回、凄く機嫌が悪い時があったの。会社をクビにされたって。その時は私は所かまわず殴られた。顔だろうが腕だろうが、無茶苦茶にされてね……。何日後かに痣だらけで学校に行ったら、流石に先生も青ざめて児童施設かどっかに連絡したらしくて……でも結果は保留。それから義父は私に激しく当たるようになった」

「………………」

「でも私は別に良かった。なんでもなくなってきたんだよ。私は殴られることに慣れた。だからクラスの皆からどう虐められようと何とも思わなかったの。あれだけやられたら悪口言われるくらいどうってこと無くなっちゃって……」

「虐めって……」

「人ってすごいんだよ? 会っただけでその人の空気がすぐ分かっちゃう。私は家がずっとそんなだから、そういう空気が私の周りを包んでるの。おまけに義父はDVがバレそうになったら直ぐに引っ越しするから、転校の繰り返しで学校に馴染めないんだよね」

「………………」


何も返せなかった。相談してくれと頼んだのは僕だ。それなのに僕は答えが出せなかった。彼女を慰める言葉が見つからない。そもそも慰めることが正解なのかすら分からない。あいにく、この場に合う魔法の言葉はこの世には存在していない。僕はただ黙った。白水さんの言っていることが本当かすら僕には判断できない。内容のわりに目の前の少女はあまりに淡々としゃべっている。それが話の現実性を否定していた。


「栗山君はさ、大切な人っている?」


白水さんは唐突に聞いてくる。遠い街の灯が白水さんの髪をつややかに光らせた。僕は訳も分からずに答える。


「……特には……」

「そっか……私はいるんだ。その人はいつも私の心を支えてくれたの。どれだけ辛くても、いつか、いつか、会えるまでって。だからここまで生きてこれたの」

「…………」

「栗山君、私はね……ちょっと幸せかもしれないな……」

「それって、どういう……」


白水さんは僕の唇を指で抑えた。少し冷たい感触が柔らかく走る。僕は思わず黙ってしまった。ただ、白水さんの顔を見る。初めてしっかりと白水さんの顔を見た。やっぱり、かわいいな……。白水さんはその顔を静かに降ろす。


「ゆ……ん……。………と。さよなら……」


白水さんは蚊の羽音程に小さい声で呟いた。何を言っているか聞き取れない。僕がもう一度聞こうとしたとき、白水さんは突然走り出した。一瞬、なにが起こったのか理解が出来なかった。危険を察したのはそれからすぐだ。引き留めようと全力を込めて足で床を蹴る。手を伸ばして白水さんを掴もうとした。かするだけで、なにも掴めない。僕は白水さんに生きてほしかった。消えてほしくない。何故だか白水さんが僕にとって、とてつもなく大切に感じたから。待ってくれ! こんな無責任な僕だけど、もっと話がしたいから、もっと頼ってほしいから、笑顔を見たいから……。


世界は残酷だった。


あと数センチという所で白水さんは柵を飛び越えた。


たっぷり空白の時間をおいて、下から何かが潰れるような音がする。


全身から力が抜けた。


冷たい床が僕を圧迫する。


今はなにも考えたくない。


下を見る気になんてなれなかった。


どうせ赤黒く染まったがあるだけだ。


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