テンプレ小説談義(1)悪口と批判
2021年4月9日
どうも、あじさいです。
新年度のご
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
深夜アニメ
筆者は以前から深夜アニメは最終話が終わった後でまとめて見るようにしていましたし、動画配信サイトに加入してからは気が向いたときに気が向いたものしか見なくなりましたが、そのように
きちんと調べた訳ではありませんが、近年はいかにもWeb小説原作っぽいアニメが増えてきているような気がします。
「異世界転生」「チート(無双)」「ハーレム」がWeb小説の「テンプレ」と呼ばれて
ただ、その一方で、この
世間的には、「異世界転生してチートな能力を得て無双してハーレムを築く」といったWeb小説やそれらを原作とした作品は「なろう小説」「なろう系」と呼ばれることが多いと思いますが、このエッセイでは「テンプレ小説」「テンプレ系」と呼ばせていただきます。
もちろん、テンプレ(お決まりのパターン)自体は、少年漫画や恋愛ドラマ、アメリカ映画などにもあるのですが、ここではWeb小説の話を中心に
「系」という
仮に主人公が最初は弱々しくても、途中から作中世界最強になるなら、その作品は「チート小説」「チート系」と呼ばせていただきます。
筆者自身、テンプレ系が好きかと言われると別に好きではない、というかむしろ苦手です。
とはいえ、今回の目的はテンプレ系を批判することそれ自体ではありません。
ここで筆者が考えたいのは、「テンプレ系を批判することに意味はあるのか」、意味があるとすれば「どのような批判が可能なのか」、そして、それらに先立つ形で、「テンプレ小説とはそもそもどんな文芸なのか」といったことです。
それらを考える中で、再三言っている「文芸とは何か」という問いについても、考えを深めることができると思っています。
さて、まずはWeb小説に限らない一般論の話から始めます。
一般的に言って、「批判」というものは「全体の一部を取り出した上で批判している」
Web小説を例にした場合、たとえば
この場合、作品という全体から「設定」という一部(部分)を取り出した上で批判が提出されていて、同じく「設定」という部分について反論が行われている訳です。
「設定」を同じ土俵とした上で論争が展開される、これが、議論が
その一方、たとえば「設定」について批判されているときに「でもヒロインはかわいいでしょ」という応答が飛んでくることがあるかもしれませんが、これは作品の魅力の主張ではあっても、批判に対する反論にはなっていません。
「設定」について批判されたのに、「設定」という共通の土俵では反論できていない、つまり、議論が噛み合っていないからです。
議論が噛み合わないと決着のつけようがありませんから、議論をするなら話がきちんと噛み合っている必要があります。
ただ、テンプレ小説をめぐる議論を土俵ごとに整理していく前に、注意しておかなければならないことがあります。
それは、「そもそも客観的な評価よりも読み手それぞれの主観が重要になる文芸作品について、批判したり反論したりすることに意味はあるのか」という点です。
早い話、主観的な好き/嫌いについて「議論」しても仕方なくないか? ということです。
この点は意外と忘れられがちという気がするんですよ。
たとえば「チート小説の俺TUEEEEなんて『陰キャの妄想』丸出しで気持ち悪い」という声がある一方、「主人公がチートな能力で無双する姿は
同じ土俵で話をしているにしても、これらが「議論として噛み合っている」とは言えません。
なぜなら、主人公によるチートな無双を見て「気持ち悪い」と思うか「気持ちいい」と思うかは、究極的には読み手や視聴者それぞれの主観的な問題であって、そもそも「批判」とか「反論」とかの言葉で
端的に言って、平行線をたどることが最初から分かり切っており、「議論」したところで不毛な訳です。
仮に、主観的な領域について「議論」が行われるなら、それは批判と反論ではなく、「新たな読み方の提案」や「共感の
このように、文芸作品について議論することは必ずしも一筋縄ではいきません。
ただ、とりあえず、文芸作品について考える際には「主観的な領域」と「客観的な領域」とを分けてみることが妥当、ということは言えそうです。
もちろん主観と客観の区別が難しいのはよくある話です。
実際、たとえば、「○○な人物として描かれてきたキャラクターがこの状況でこんなことを言い出すなんておかしい」という指摘が主観的な領域についての違和感の表明なのか、それとも客観的な領域に関する批判なのかはグレーゾーンでしょう。
ただ、議論が難しいからと言って、その議論が無意味あるいは不必要だという話にはなりません。
そのことは、小説を書いている皆さんにはご理解いただけると思います。
ともかく、主観的な領域については不毛な言い争いを避けるべきである一方、客観的な領域については噛み合った議論を
では、客観的な領域には具体的にどんなものが含まれるのか。
ここで筆者が提案したいのは、客観的な領域を、「作品の内在的な性質」と「その作品や
ここで言う「作品の内在的な性質」とは、たとえば設定に矛盾があるとか、差別的な要素が含まれているといった、作品それ自体が持つ特徴のことです。
作品の内在的な性質と、その作品が社会や文芸界隈、出版業界などに対して持つ存在意義や影響は、別物と考えて良いと思いますし、別物と考えた方が今後、考察を進めやすいように思います。
というか、テンプレ小説をめぐる議論はそれらがごちゃごちゃにされがちなので、区別することを心掛けないと収拾がつかなくなりそうな気がします。
ところで、テンプレ小説についての議論にはもうひとつ、歴史的な観点からのアプローチ、とでも呼びうるものがあります。
つまり、「テンプレ小説が今のような形になるまでには、小説投稿サイトにおいて、これこれの事情で、流行がああしたりこうしたりしてきたという歴史があるのだから、それを踏まえずにテンプレ系を非難するのは
筆者としてはそういう話も興味深いとは思うのですが、最初に言っておくと、このエッセイでそれを扱うつもりはありません。
それはなぜかと言えば、仮にどんな歴史や背景があるにしても、読者に「面白くない」と思わせてしまう物語や、無視しがたい矛盾がある作品、社会にとって害や悪である作品などを、高く評価する理由にはならないからです。
厳しい言い方になりますし、筆者も
読んで魅力を感じられない作品は投げ出されても仕方ありませんし、差別や憎悪を助長する作品は批判されてしかるべきなんです。
この点を無視して、テンプレ小説に対する批判そのものをあらかじめ
長々と話してしまったので、今回はこの辺りで一区切りとさせていただきます。
次回は、噛み合った議論が可能なテンプレ小説の「客観的な領域」について、どういう批判があるのか、どういう批判が考えられるのか、それらの批判にどのような意義があるのか、と言ったことを考えていきたいと思います。
何となく抽象的で理屈っぽい話が続いていますが、お付き合いいただけると嬉しいです。
また、分かりにくいところや疑問点、質問、批判などがあればご指摘いただけると、今後、より分かりやすい文章を書くときの助けになるので、遠慮なくおっしゃっていただけると幸いです。
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