第180話 お痒いところはございませんか?

 浴場の洗い場にやってきたクリムは、使い方を覚えたシャワー付きカランを使用してささっと手短に全身を洗うと、一歩引いた位置で仲良くぼーっとつっ立っていたクリムゾンとアクアの元へと赴いた。

「どうしたんですか2人とも?」

 少し前に述べた通り、成長したドラゴンは体に付着した汚れを分解吸収しまうので常に清潔であり、本来洗う必要もなければ入浴する意味もない。それゆえドラゴン母娘の2人はお湯を被る行為の意味を見出せずにいたのだった。

「2人とも洗ってあげますからこっちに来てください。まずはアクアからですね。」

 クリムは2人を呼び寄せると、まずはアクアを座らせてシャワーで髪を濡らし、洗髪用のシャンプーを用いてたっぷり泡を立たせて、優しく髪を洗い始めた。

「どうですかアクア?お痒いところはございませんか?」

 かつて聖女エコールが幼かった頃、姉達からそうしてもらったのと同じように、クリムは妹の髪を洗ったのだ。

「うん、大丈夫だよ。なんだか気持ちいかな?」

 繰り返しになるがドラゴンであるアクアは頭髪が汚れることが無く、洗髪するまでもなく初めからきれいな状態だったのだが、それはそれとして、たっぷりの泡に包まれて優しく頭皮をマッサージされるのは、それなりに気持ちがよかったのだ。

「よし、こんなものですかね。泡を流すので目を瞑ってください。」

「うん。」

 アクアの短い髪はあっという間に洗い終わったので、クリムは再びシャワーを手に取るとアクアの泡を洗い流した。

「はい、次は体ですね。」

 クリムは続けてボディソープを手に取ると、両手で念入りに泡立ててからアクアの体を洗い始めた。幼い少女の姿をしたアクアの体は小さく、起伏の少ない体型もあって人体部分を洗うのは容易であったが、複雑な形状のドラゴンの翼や、長い尻尾は洗い難く、少々手間取っていた。

「ちょっとくすぐったいかも。」

 翼の付け根辺りを洗われていたアクアが不意に翼を広げたので、翼に纏わりついていた泡は勢いよく吹き飛ばされて、隣で体を洗っていたシュリの顔に直撃した。

「うわっぷ。ぺっぺっ、口に入ったっす。」

 シュリは一瞬驚いていたが特に気にせずそのまま体を洗い続けていた。

「ほら、動いちゃだめですよアクア。」

「わかった。」

 クリムに注意されたアクアは翼を折りたたんで大人しく洗われ始めた。

 間もなくして、アクアの全身をくまなく洗い終えたクリムは再度シャワーを取り、泡だらけで雪だるまのようになっていたアクアの全身を洗い流した。

「はい、これでおしまいです。もう動いていいですよアクア。」

 クリムの言葉に従いじっとしていたアクアにクリムが声を掛けると、アクアは翼を開きながら両手を組んでグッと背を反らして伸びをした。

「んー。」

 少しの間だが動きを制限されてわずかにストレスを受けたため、文字通り羽を伸ばしてリラックスしたのだ。

「どうでしたかアクア?」

 クリムは手ずからの全身洗浄に対する感想を求めた。

「ちょっと窮屈だったけど、気持ちよかった・・・かな?」

 一日の汚れを洗い落とす人間とは異なり、アクアは汚れを落としてさっぱりすると言った解放感は得られていなかったのだが、それでも泡に包まれてマッサージされる事をそれなりに心地よく感じていたのだった。

「それならよかったです。では次はクリムゾンですね。こちらに来てください。」

 クリムはアクアの言葉に満足げな表情を浮かべると、続けて母クリムゾンも洗おうと手招きした。

「いや、ぼくは自分で洗ってみるよ。やり方はわかったし。」

 しかしクリムゾンはクリムの誘いを断り、自らシャワーに手を掛けたのだった。

 強い相手と戦い、自身の技を高めることを至上命題としているアクアにとって、種族として戦闘能力が低い傾向にある人間は、ほとんど興味がない存在である。それに対して、クリムゾンにとっての人間とは、彼女が同族のドラゴン達からすら疎まれていた在りし日に、最後まで彼女と戦い続けてくれた一番の遊び相手であり、絡まれる人間からすればたまったものではないが、気の合う友人に対する様な思いを抱いていたのだ。かつては暴虐の限りを尽くし、結局人間達からも相手にされなくなってしまったクリムゾンだったが、同じ轍を踏まないためにも人間に対する理解を深めたいと考えていたので、彼女なりにクリムの提案の意図を読み取り、積極的に人間の習慣に挑戦しようと意気込んでいたのである。

「わかりました。では何かあったら声を掛けてください。」

 そしてクリムはそんなクリムゾンの意思を汲み取ったので、せっかくやる気を出している所に水を差すのもよろしくないだろうと、彼女の自主性に任せて手は出さない事にしたのだった。


 ところで、クリムが2人に入浴体験を促したのは、彼女達の人間への理解を深めてもらうと言う主目的があったのは事実だが、実はそこにはもう一つ裏の目的が隠されていた。妹を欲しがっていた聖女エコールの願望に引っ張られて、アクアに対して姉らしい事をしたいという、クリム自身でさえも自覚していない願望を彼女は持っていたので、その願望を満たすと言う裏の目的があったのである。


 クリムゾンがシャワーを浴び始めたところで、一度脱衣所に戻っていたサテラとスフィーが裸になって再び浴場へとやってきた。湯舟にはようやく半分ほどお湯が溜まったかと言った頃合いで、さすがにまだ入浴に適した湯量とは言えない状態だったので、既に体を洗い終えたクリムとアクア、そしてシュリの3人はひとまず残りの者達が体を洗うのを待つことにしたのだった。

「おや?みなさんお揃いで体を洗っていたんですか?」

 ドラゴンが体を洗う必要がないと知っているサテラは不思議そうな顔をして聞いたが、考えてみればクリム達はドラゴンにとっては不要な食事も摂っていたことを思い起こした。そして人間の生活習慣に合わせて活動し、目立たない様にしているというセイランの言葉を思い出し、クリム達にも同様の思惑があるのだろうと、1人で勝手に納得したのだった。

「それではスフィーさん、私達も体を洗いましょう。ところで、スフィーさんは人間の国に来るのは初めてなんですよね?シャワーの使い方が分からないと思いますし、お教えましょうか?」

 サテラはクリム達のことはひとまず気にしないことにして、共に行動していたスフィーに視線を向けた。

「いえ、クリムさん達のやり取りを見ていたので使い方は大体把握していますし、説明は不要ですよ。でもたしか、人間の親しい友人同士は、お互いに洗いっこしたりするんでしたかね?そういう事であれば、いつでも受けて立つ所存ですが。」

 スフィーはどこで覚えたのか、妙な知識を披露しつつサテラに応えた。

「いえ、それはちょっと特別な関係を持った相手とする行為と言うか、幼い子供同士であればともかく、私くらいの年齢だとなかなか洗いっこはしないと思いますよ。」

 サテラは恋仲の相手であればそんな事もするかもしれないと思ったが、その辺の詳細を口に出して説明するのもなんだか気恥ずかしかったので、適当に誤魔化しつつやんわりと断った。

「なるほど。私ではまだ親密度が足りない様ですね。もっと仲良くなれる様に努力します。」

 スフィーにはサテラの意図がまるで伝わっていなかったが、ひとまずサテラの要望通り洗いっこは回避されたのだった。

 ここで一つ、2人のやり取りを聞いていたクリムが疑問を感じていた。

「スフィーはさっき私達のやり取りを見ていたと言っていましたが、どうやったんですか?魔力感知の類は使っていませんよね?」

 魔力波を飛ばして周囲を観測する技術、魔導反響定位法マジカル☆エコーロケーションをスフィーが用いたのであれば、その魔力波をクリムも感じるはずなのだが、特に何も感じていなかったので彼女は不思議に思ったのだ。また、魔力感知では何をしているのかは分かっても、話している内容までは分からないため、会話内容まで把握しているらしいスフィーの言葉が引っかかったのである。

「魔力感知がどういったものかは知りませんが、私がクリムさん達のやり取りを見た方法は、船上で話した植物との感覚共有リンクによるものですよ。さっき種を撒いておいたので、浴場でのやり取りはそれを使って見ていたのです。」

 スフィーは何のことは無いと言った表情で、シュリの脱皮した抜け殻近くにいつの間にか生えていた植物の芽を指さして答えた。

 一応おさらいしておくと、感覚共有リンクとは生命樹スフィロートが世界中に根を伸ばし、さらに根の先から魔力の糸を伸ばして近場の植物や菌糸類に接続し、感覚器官を間借りすることで、光の加減や空気の振動から周囲の状況を把握する能力である。スフィロートの分身体であるスフィーは世界中に根を張る様な巨大樹ではないので広範囲は観測できないし、動き回る体を手に入れた関係で能力を使用する際には動きを止めて改めて根を伸ばす必要があるのだが、概ね本体と同じことができるのだ。

「おお、いつの間にこんなものを。でもこれで合点がいきました。あなたにとってはその辺に生えてるなんの変哲もない植物が、目であり耳でもあるんですね。」

「そういうことですね。ちなみに匂いや触感、温度、それに周囲の魔力だってわかりますよ。」

 クリムが納得すると、スフィーはそれに同意するとともにさらに補足したのだった。

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