第5話 恋愛にはまだ早い
「ただいま。あれ?」
高校から帰ってくると、いずみさんの靴がすでに玄関にあった。いずみさんはぼくの声を聞きつけて顔を出した。
「お帰りなさい、勇くん」
「めずらしいね。いずみさんのほうが先に帰っているなんて」
「今日は仕事なかったから。大学で講義を受けて、そのまま帰って来ちゃった」
いずみさんはにこやかに微笑む。どうやら久しぶりのオフで気持ちが安らいでいるようだ。
ぼくは部屋で制服を着がえ、リビングへと向かう。
いずみさんは勉強中だったらしく、難しそうな本やノートがテーブルの上に広がっていた。
「大学の勉強って、たいへん?」
「まあ、それなりにね。でも、楽しいよ。大学では演劇について学んでいるの。仕事にも役立つから、一石二鳥ね」
いずみさんは、たいして苦でもなさそうに笑う。
「すごいなあ、いずみさんは。アイドルと大学生活をちゃんと両立させているんだもの」
「『ちゃんと』かどうかはわからないけどね。去年落とした単位もあるし、四年で卒業できるか心配だよ。でも、今年のゼミの先生は、私のサインをあげたら代わりに単位をくれるって言ってくれたから、なんとかなるかも」
「大丈夫なの、その先生」
ぼくは苦笑した。どうやら大学という場所は案外融通がきくらしい。
もっとも、大学の先生だって、いずみさんみたいなアイドルが生徒だったら鼻が高いにちがいない。ぼくが先生の立場だったら、周囲に自慢げにふれまわっていたかもしれない。
「ねえ、大学ってどんなところ?」
「すごく自由なところよ。学業に打ちこむこともできれば、サークル活動に精を出すこともできる。アルバイトや芸能活動だって、もちろん可能。つまり、本人の意志次第でなんだってできる。それが大学かな」
「へえ、楽しそうだね」
「うん。それに、恋愛も自由だしね。私のクラスメイトはいつも恋バナに花を咲かせている」
いずみさんはそう言って、困ったように微笑をこぼす。
「時々ね、うらやましくなるの」
「いずみさんも恋愛したいの?」
「そうね。『ヴァルキュリア』は恋愛禁止をうたってはいないけれど、もっと売れるまで恋愛は控えよう、ってメンバーで決めたから」
いずみさんの瞳が切なげに揺れている。
「私だって、好きな人と気兼ねなくデートできたら楽しいだろうなって思うよ。でも、私たちアイドルは、人に夢を与えるのが仕事だから。アイドルをやらせてもらっている以上、恋愛はしばらく我慢する。それに……」
「それに?」
「幸い、私の『大切な人』はまだ恋愛にはうといみたいだから」
「えっ! いずみさん、好きな人がいるの!?」
ぼくは驚きの声を上げた。
「誰? ぼくが知っている芸能人? もしかしてアイドルとか?」
「ちがうよ。それに、『好きな人』ではなくて、あくまで『大切な人』だから。アイドルをやらせてもらっている今の私には、それが精いっぱいだよ」
「そっか、そうだよね」
いずみさんに好きな人がいたとしても、立場上、言えないよね。だから『大切な人』なんだ。
誰かに恋心を抱いたとしても打ち明けられないなんて、アイドルはたいへんだ。
「でもその人、私の気持ちにぜんっぜん気づいていないみたいだけどね」
「いずみさん、怒ってない?」
「別に。ぜーんぜんっ、怒っていないよ」
ツンとした顔で頬づえをつくいずみさん。怒っていないと言いながら、虫の居どころは悪そうだ。
「ところで、勇くんは学校に好きな子や気になる子はいないの? 学校にだってかわいい子はいるでしょう?」
「そりゃ、かわいい子はいるかもしれないけど」
いずみさんの頬がぷくっとふくれる。
「でも、ぼくは普段いずみさんと暮らしているんだよ? いずみさんよりきれいな人なんて、学校にはいないよ」
いずみさんの表情がにわかにぱあっと明るくなる。
「じゃあ、学校以外で好きな女の子は?」
「うーん。思い浮かばないや」
いずみさんが「むぅー」とむくれた。
「ふーん、そうなんだぁ。私は、勇くんの身近にも『大切な人』がいるんじゃないかなーって思うけどなー」
「『大切な人』? そんな人、いずみさんくらいしかいないよ」
いずみさんはにっこり目を細め、うんうん、と満面の笑顔でうなずいた。
「でも、好きな人と言われたら誰になるんだろう? いずみさんは家族みたいなものだし」
「…………」
眉をぴくりとつり上げるいずみさん。なぜだろう? いずみさんのにこやかな笑顔の頭上に怒りのマークが浮かび、背後でゴゴゴと炎が揺らめき出したような……。
ぼくは困惑ぎみに言った。
「とにかく、いずみさんが自由に恋愛できるようになるまで、その『大切な人』に好きな人ができなければいいね」
「そこまでは束縛できないよ。そりゃあ、その人が誰かと結ばれたら泣いちゃうかもしれないけど。でも、私はお姉さんだし。最後に私に微笑んでくれたら許しちゃうかな」
いずみさんはこの先の未来を想像してか、しみじみと感じ入っている。
いずみさんにとっての『大切な人』って、いったい誰なんだろう? 気にはなるけれど、しつこく聞いてもいけないよね?
ぼくにできるのは、いずみさんの恋を応援することだけだ。
「そうだ! いずみさん、その人に手紙を書いてみたら?」
「手紙? なんて書くの?」
「『私が自由に恋愛できるようになるまで、待っていてくれませんか?』とか」
「何年かかるかわからないよ? ずっと待たせたら悪いよ」
「でも、いずみさんが『好き』って言ったら、絶対待っていてくれると思うな。だっていずみさん、素敵だもの。ぼくだったらずっと待つな」
「はうっ!」
いずみさんは言葉にならない声をもらし、頬を赤く染めて恥ずかしそうに下を向く。
それから、恨めしそうな目を上げると、すねたように唇を尖らせた。
「……あのさぁ、勇くん」
「なに?」
「勇くんは、私の気持ちをすごく応援してくれているみたいだけど、私が誰かと結ばれてもいいの?」
「仕方ないよ。だって、いずみさんには幸せになってほしいもの」
「…………そっか」
いずみさんは悟り切ったような顔で、立ち上がった。
「さて、そろそろ夕飯の支度をしますかね」
そして、キッチンへと向かいながら、小声でぽつりと言った。
「はぁ、いとこは恋愛の対象にはならないか。私もまだまだだなー。アイドルとしても、女としても」
「ん? なにか言った?」
「いーえ、なにも」
いずみさんはツンとすました顔でエプロンを身につける。そして手際よく、黙々と料理をはじめた。
それから数分後。
「はい、できたよ。カレーライス」
それは見たこともないような真っ赤なカレーライスだった。
「うわあ、辛そう」
「そう? いつもと同じだよ」
テーブルにカレーを並べ、二人していただきます、と手を合わせる。
そして、ひと口ぱくり。
「辛っ! やっぱり、いつもとぜんぜんちがうよ!」
「やだなぁ、勇くん。いつもと同じだって」
「うそ! いずみさんだって、汗だらだら流してるじゃん。顔も赤いし、涙目になってるし」
「ぐすっ。これが恋の味だよ、勇くん」
こうして、ぼくたちは目に涙をためながら激辛カレーを一生懸命食べたのだった。
( 次回:「セクシー系アイドル写真集」)
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