第1話 憂う皇帝は特権を行使する

 史上最大にして世界最大の領土となったバルカタル帝国皇帝の執務室では、カリカリと万年筆の音が聞こえる。


 ジェラルドは山積みされた書類一枚一枚に翡翠色の目を走らせ、承諾時にはサインし、気になる点があれば一言書き加えて保留し、お粗末なものはペイっと床に捨てる。

 散らばっていく書類をかき集める側近のことなど意に介さない。またヒラヒラと紙が舞い、側近の背中に落ちた。


『あまりイジメてはいけませんぞ』


 皇帝の授印(契約した魔物)、クダラの苦言にふんと不満気な声を出す。


「こんな愚策まで回すのが悪い。やはり宰相がいなくては駄目だな」


 ウイディラが属国となって二ヶ月あまり。混乱は収まりつつあるものの課題は多い。

 シルヴァンとの約束通り、ユトレヒトという土地をサタールへ返還する必要もあるが、まさか理由がツバキとシルヴァンの婚約を取りやめるためなど言えるはずがなく、慎重にことを進めなければ他国を刺激しかねない。

 そのため調整力に長けた宰相を向かわせたのだが、彼の穴埋めは容易ではなかったようだ。要領を得ない意見書までがジェラルドに届き、時間を浪費していく。

 それもこれもカオウのせいだと、ジェラルドは腹いせに却下書類を遠くへ飛ばした。


『そろそろ時間ではないですかな』


 クダラに言われ時計を見上げる。


「そうだな。ああ、気が重い」


 ジェラルドは側近へ、次こそ書類を明確に判別するよう命じてから応接室へ向かった。




 応接室の扉を開けると、むわんと温かい空気が逃げ場を求めるように流れてきた。

 部屋の中は頭がぼんやりしそうなほど蒸されている。

 側に仕えていた従者へ目配せし、暖炉の火を弱めさせると、すかさず生意気な声が聞こえた。


「おい、寒いだろ」


 この国で皇帝へ横柄な態度をとる者は限られている。

 金髪金眼の青年、カオウだ。

 支給されたばかりの軍の黒い制服を着ているが前ボタンは全開で、椅子に浅く腰掛けだらしがない。

 臣下になりたいと懇願したくせにとジェラルドはうんざりしながら奥の席につく。


「制服はちゃんと着ろ」

「……いいだろ別に」


 ぷいっと顔を逸らすカオウくそがき

 もはや閉口するしかない。

 ジェラルドはじとりとした目を向けた。

 カオウではなく、隣にいるトキツへ。


「教育係に任じたのにできてないじゃないか」


 トキツの目が泳ぐ。


「しかしカオウですよ? 俺じゃ手に負えません」

「はて。ケデウムで皇女を守れなかった護衛の名前は何だったか」

「う」

「本来なら死罪なんだがな」

「おいカオウッ」


 青ざめたトキツはカオウの背筋を伸ばしてきちんと椅子に座らせ、せっせとボタンをとめ始めた。

 その間カオウはムスッとしてはいたが、大人しくトキツの手元を見ている。

 ジェラルドはふと思いつく。


「まさか、ボタンがとめられなかったのか?」

「違う」

「詰襟のホックか」


 ズバリ言うとカオウの顔が赤くなった。

 ちょうどホックをとめようとしていたトキツの手が止まる。

 ジェラルドとトキツは肩を震わせた。


「わ、笑うな!」

「まあまあ」


 トキツが口元を緩ませながらなだめる。


「新品の制服だからまだ硬いよな。しょうがないしょうがない」

「うっせー!」

「最近ボタンは一人でできるようになってたもんな。エライエライ」

「子ども扱いするな!」


 ホックができない事をごまかすためにボタンを全開にしていたカオウお子ちゃまが喚く。

 シャーと威嚇する猫のようだった。威風堂々たる姿で人間を圧倒した龍と同じとは思えない。

 龍体の時は一言も喋るなと命じたのは正解だったなと、ジェラルドは己の判断力を称えた。




 気を取り直して本題に入る。


「今日は要件が二つある。まずは、セイレティアがウイディラの森で遭遇したモノについてだ」


 ジェラルドはツバキとカオウから聞いた話をかいつまんでトキツにも伝えた。

 夜の森でツバキが襲われそうになり、カオウが斬ったという赤黒い物体。その特徴は以前クダラから聞いていたものと酷似していた。


「あれは、妖魔と考えていい」

「妖魔!?」


 トキツが目を見開く。


「よ、妖魔って……。建国記に出てくるやつ、ですよね」

「そう。六百年ほど前、始祖が戦ったとされる異形のものだな。カオウ、お前は昔も見たことがあるだろう」


 カオウは眉間にシワを寄せて考えながら、首を捻った。


「まだ小さかったしなー。あんまり覚えてないんだよ。覚えてるのは、親父が同じ大きさくらいの気味悪いもんと戦ってたとこだな」

「はあ!?」


 トキツが大声を出す。


「お前の親父ってことは龍だろ!? 同じ大きさって……。そんなのが戦ったら……」


 龍となったカオウを思い出す。

 ケデウムの城よりも大きく、あまりの迫力に卒倒した兵士が続出した。あれが二体も現れたらと考えるだけで恐ろしい。

 カオウはトキツの心境に気づいたのか、からかうように瞳孔を縦長にした。

 ゾクッとトキツの背筋が凍る。


「カオウ、やめてやれ」


 ジェラルドの一声で瞳孔が戻る。

 冗談だとわかっていても、トキツの手はしばらく震えが止まらなかった。


「その妖魔が、復活したってことですか」

「復活という言葉は適切ではない。そもそも妖魔というのは邪気の集まりだそうだ」

「邪気?」

「その辺りはクダラに説明してもらおう」


 ジェラルドのそばに寝そべっていたクダラがのっそり起き上がった。

 クダラ用に用意されていた、座面が人よりも広い椅子へ飛び乗る。

 好々爺らしい穏やかな口調で話し始めた。


『邪気とは生物の中に流れる"気"が穢れたもの。長くとどまると身も心も蝕んでいきます。病の元と言えばわかりやすいですかな。人や魔物なら、食事や休息をとることで邪気も消えていきます。

 厄介なのは、草木などの自然から発生した邪気です。人や魔物とは違い、なかなか消えません。

 そして蓄積された邪気に魔力が宿り、実体化すると妖魔となります。セイレティアが見た妖魔は、不完全な状態だったと思われる』


 戸惑ったトキツは額に手を当てた。


「建国記には妖魔は地底から現れたと書いてありましたが、違うんですか? それに、邪気ってやつが妖魔になるなら、なぜ今までいなかったんでしょうか」

『いい質問ですな』


 クダラの長いヒゲがふよふよ揺れる。


『通常は妖魔となる前に、精霊が浄化してくれるのですよ。そして地底にはすでに実体化した妖魔がおりますが、今は道は封じられている。

 しかし近年精霊の力が弱まっている。このままでは、邪気は浄化されず妖魔となり、地底との道が開かれれば大挙して押し寄せるでしょう。

 妖魔は同族を取り込み、より強大となります。カオウの父親が戦ったのも奴等の集合体。当時、世界は地も空も妖魔で赤黒く染まっておりました』


 トキツはごくりと唾を飲み込んだ。

 建国記に登場するクダラの話は、漠然と妖魔を想像の産物だと思っていたトキツに衝撃を与えた。

 その様子を見ていたジェラルドが口角を上げ、わざとらしいほど涼し気な笑みを浮かべる。


「早急に手を打たねばならないことがわかっただろう」


 ジェラルドの表情を見たカオウの口角が下がる。


「なんかやらせる気?」

「あからさまに嫌そうな顔をするな。実は、セイレティアが見た不完全な妖魔は他州の森でも目撃されている。カオウはそこへ行って、妖魔になる前に退治してこい」

「なんで俺が」

「嫌ならいいんだぞ。約束を途中で投げ出すような男に妹は託せないがな」

「やるよっ。やりゃいいんだろ!」


 見事に挑発に乗せられたカオウは興奮気味に言い放った。

 ツバキとのことを認めてもらいたいとはいえ、自分の矜持を曲げるのは容易ではないはずだ。

 そこまでして一緒になりたいのかと、ジェラルドは皇帝として兄として複雑な心境になる。

 そもそも龍であるカオウの本気の頼みを断ることなどできない。

 カオウの能力を知ってしまった今では尚更だ。

 眼力だけで人間の息を止め、咆哮だけで建物を破壊、雷まで落とす。さらに龍体は頑丈であり、剣も弓も効かない。人に転化した時は銃に撃たれてしまったが、おそらく龍体であればかすり傷程度だっただろう。


 ただ皇女の兄として考えれば、やはり相手がカオウでは不安だらけだ。

 人間と魔物という違いもさることながら、カオウは精神面で幼い部分がある。品行方正とも言い難い。

 サタール国のシルヴァン王子のようにとはいかないまでも、もう少し”人としての”常識を身に着けてほしいところだった。


「では二つ目の要件だ。セイレティアはまもなく十七になる。だがまだ、十七だ」


 ジェラルドは凛々しい顔を崩さぬまま、内心どう伝えようか悩む。

 妙な間が空き、カオウが怪訝な顔をした。


「そんなことわかってるよ」

「成人前だ」

「だから?」

「だから……不純異性交遊禁止だ」


 ゲホゲホッとトキツが咳き込んだ。

 カオウは、なにそれ美味しいの? という表情。


「フジューイセーなに?」

「不純異性交遊」

「どういう意味?」


 ジェラルドはトキツヘ"お前が説明しろ"と目配せした。

 ギョッとしたトキツは"なんで俺が。嫌っすよ"と目で訴え、ジェラルドは"いいからさっさとしろ"と無言の圧力をかける。

 皇帝に逆らえない護衛は観念して、カオウヘ耳打ちした。


 不純異性交遊とは何たるかを。


 カオウの顔がみるみるピンクに染まっていく。やがてそれが禁止だと聞いたのか、クワッと目を見開いた。


「したいだろ!」

「するな!」


 カオウはチッと舌打ちする。


「あんたは守ってたんだろうな」


 ジェラルドは過去を思い返す。

 皇后、ネフェルトゥラと出会ったのは十八歳の頃。相手は三つ年下。

 ジェラルド自身はとうに済ませていたが、相手はカルバル国の王女として大切に育てられていた。

 頑なだった王女の心を溶かしたのはいつだったか。


「…………私はいいんだ、私は」

「うわっ。サイテーだ!」

「ええい、うるさい! いいか、今更手も繋ぐなとは言わん。魔力を吸うのは仕方ない。だがそれ以上は許さんぞ」


 ジェラルドは一歩も引くものかと睨みつける。

 下手に出るしかないカオウは渋々承諾した。


「ツバキが成人するまでだな」

「不本意だが」

「婚約解消、絶対しろよ」

「善処している。だがカオウ、セイレティアを得るための難関は他にもあるだろう」

「うっ」

「あいつは私以上に手強いと思うぞ」

「…………わかってる」


 カオウは余計なお世話と言いたげにじとりとジェラルドを一瞥してから立ち上がった。


「シュン、来月の約束も忘れるなよ」

「こちらは問題ないが、間に合うのか?」

「間に合わ……せる」

「せいぜい励め」


 ジェラルドがヒラヒラと手を振ると、カオウはフンと勢いよく踵を返して部屋を出て行った。





 トキツもいなくなり、応接室に残ったジェラルドは気が抜けたように椅子の背もたれへ体を預けた。

 いつの間にか床に寝そべっていたクダラへ声をかける。


「始祖の龍もあんな生意気だったのか」

『ゲンオウはもっと血の気が多く制御に苦労しました。ですが、彼はカオウほど人の世に深入りもしなかった。どちらがいいかは、わかりかねますな』

「深入り、か」


 ジェラルドは茶色の天井を見上げてから、疲れた目を閉じる。


「先日セイレティアと話をしたんだがな。皇族から除籍してほしいと請われた」

『なんと』


 クダラが目を丸くする。


「皇族としての責務を果たせないからだそうだ。堂々と宣言されたよ、カオウが好きだって」

『おやおや。どう返答されたのですか』

「もちろんきつく叱った。まったく、あいつは皇族を何だと思っているのか。しかも龍を授印にしている事の重大さをわかっていない。自分の立場を少しは冷静に考えられるやつだと思っていたが、恋愛に現を抜かして判断力が低下しているらしい」

『考えようによっては、いいことだと思いますがな』

「どういう意味だ」

『セイレティアは貴方から皇帝の座を奪うことも出来るということですよ』


 ジェラルドは冷たい目でクダラを見下ろす。

 クダラは身を起こしてジェラルドの指先を鼻でつついた。


『意地悪を申しました。私は貴方以上に皇帝にふさわしい方はいないと確信しておりますよ。だから契約したのです』


 ジェラルドは無言でクダラの頭へ手を置いた。

 気持ちよさそうに撫でられながら、クダラは言葉を続ける。


『そういえば昔、他国の王女にご執心で頭がお花畑になっていたのは誰でしたかな』

「ぐっ」


 頭にあったジェラルドの手が止まり、クダラはほっほっほっと愉しそうに笑った。

 

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