第15話 逃した機会
昼食後、といっても食欲のないツバキはスープしか飲めなかったが、ナナは仕事場へ案内してくれた。
そこはレオの商会だった。販売店ではなく、仕入の総括と新商品の企画のみを行っているらしい。
個人用の木製の机が六つ並ぶかたまりが四つ、打合せ用なのか丸い大きな白い机が一つ、部屋の奥には薬品が置かれた棚や、ツバキには何に使うのか想像すらできない道具類があった。
従業員は誰もいない。
休みなのかと思ったが、机上には物が散乱したまま。床に散らばった紙には足跡までついており、まるで急遽逃げ出したかのようだった。
「今は休業中なの。あんたが来たから」
ツバキの前を歩くナナが落ちていた設計図を拾いながら言った。
「私?」
「そう。重要人物が来たからってレオが突然追い出した」
「ナナは残ってるのね」
「世話を頼まれたから。言葉通じるし、歳も同じだし。あとはさっきの男と、他に二人いる」
「そんなに急だったの?」
「わたしは前々から聞いていたんだけどね、大事な人を連れてくるって。だから、てっきり恋人なのかと思っていたんだけど……」
恐る恐る振り向く。
「……恋人じゃあ、ないよね?」
「違います!」
ツバキがはっきり否定すると、はあ~と安堵というより疲れたため息を漏らす。
「だよねえ。レオの今までの女ってもっと巨乳で色っぽい人たちだったもん。突然趣味が変わったのかと思ってびっくりしちゃった」
「…………それは貶されているのかしら?」
努めて菩薩のような微笑みをするツバキ。
不穏な雰囲気を察したナナは慌てて手を横に振った。
「いや、顔
「それは慰められているのかしら?」
「まさか皇女を誘拐してくるなんて夢にも思わないからさあ。慌てちゃったよ」
菩薩の微笑を維持していたツバキが真剣な顔に戻る。
「誘拐した目的は、ウイディラへ売るため?」
「…………と、思う」
ナナがひどく申し訳なさそうに俯き、ツバキはひどく落胆した。兄の足を引っ張ることになってしまった自分の不甲斐なさと、そしてもう一つ。
「レオはお金になるなら何でもするっていう噂は、本当だったのね」
そうつぶやくと、ナナはツバキを睨んだ。
「本当はそんなヤツじゃないっ!」
力強く言った後、悔しそうに顔を歪ませて項垂れる。
「そんな奴じゃなかった。何にも知らないくせに、勝手なこと言わないで」
ナナは肩を震わせた。小さな体に耐えがたい感情を押し込めているようだった。
ツバキが肩に手を置こうとすると、咄嗟に体を引いて避ける。
「優しくしないで。わたしたちはあんたを捕まえてるんだよ。わかってる?」
「ナナが望んでるわけではないのでしょう?」
「同じことだよ。レオが決めたなら、わたしは止められない」
ナナが口を閉じると部屋がしんと静まり、冷たい空気が二人の頬を撫でた。
ツバキの足につけられた赤い石に目を止めたナナは再び口を開く。
「あんたはどうしてそんなに冷静なの?怖くないの?」
問われたツバキは目を伏せ、左手首をギュッと握る。
「怖いけど。今はまだ怖くないかな」
「どういうこと?」
「知らない場所で目覚めたときは、さすがに不安だったわ。でも、足に変なものを付けられた以外はひどいことされていない。ちゃんとした部屋も、服も、食事も用意されてる。ナナも優しいし」
「へ?わたし?」
間の抜けた顔をされ、ツバキはくすりと笑った。
「私を一人にしないでくれたでしょう」
「あ、あれはただ、意地悪しようとしただけで」
「そうだとしても、私はそれで元気が出た。だからナナには感謝してる」
にこっと笑いかけられたナナは少しばかり頬を染めて視線を外した。
だがすぐに、苦悶の表情を浮かべる。
「あんたが嫌なヤツだったらよかったのに」
そうぼそりと言って近くの椅子に腰を下ろした。
隣の椅子にツバキが座ると、写真立ての中にある世界地図をぼんやり眺めながら、話し始める。
「レオはさ、恩人なんだよ」
「恩人?」
「わたしはケデウムの生まれなんだけど、家はリロイとの国境付近にあったんだ。十年前まで」
十年前と聞き、ツバキはドキリとした。
ナナはそれを察して苦笑する。
「戦で家を失って、どうにも生活が苦しかったから奉公に出ようとしたんだけど、奴隷商人に捕まっちゃってさ」
「奴隷商人!?」
「魔力のある人はウイディラで高く売れるらしいんだよね。わたしの魔力なんてたかが知れてるのに。でも、リロイで捕まったユーゴって男の子が機転の利く子で、売られる直前で脱走できたんだ。それからは二人で宿無しの生活」
「家族のところへ帰らなかったの?」
「……うん」
ナナは一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐ元に戻った。
「なかなか面白かったよ。言葉もユーゴが根気よく教えてくれた。なんかね、元々そういう生活してたみたいで他にも色々教わったんだ。生きるために、皇女様には聞かせらんないことも、たくさん」
ツバキを揶揄うようにニヤリと笑う。
「レオと出会ったのはそっから三年後くらいかな。ちょっとヘマしちゃってさ。厄介な奴らに酷く殴られて死にそうになってたところを、拾ってくれたんだ」
「助けてくれたの?」
「そうそう。捨て猫みたいにひょいってわたしたち二人を担いで、家で看病してくれた。あ、ここじゃないよ。商会が軌道に乗る前だから、もっと小さいとこ」
「そのとき何歳だったの?」
「わたしが十で、ユーゴが十三。レオは十七」
「レオってそんな若いときから商売してたの?」
「色々教えてくれる人がいたみたい。東の国の日用品を入手するルートも持ってた。で、一人でやるの大変だっていうから、手伝うことにした。だけどさ!」
もたれかかっていた体をいきなり起こし、バン! と机を叩いた。
「すっごく人使い荒いの、アイツ! わたし学校行ってないから読み書きすらできなかったのに、会計やらせるっつってスパルタで教えてきた!!」
しばらく朝から晩まで勉強漬けだったとキーッといきり立つ。その後も口から出るのはレオの悪口ばかりだったが、口ぶりはツバキがジェラルドの愚痴を言うときのようで、ツバキは自然と笑みがこぼれた。
「そのうち仲間も増えて、すごく楽しかった。レオを中心に皆が家族って感じで。ユーゴなんてレオに心酔しちゃって金魚のふんみたいに毎日くっついてた。本当の兄弟みたいだった。……けど」
一度口を閉ざして俯く。
「あるとき、ウイディラの偉い人に呼ばれたんだ。商品開発を始めたせいでちょっと赤字が続いてたから、支援頼めるかもって皆喜んでたのに、レオは行きたくなさそうだった」
「どうして?」
「わかんない。結局行かざるを得なくなったみたいで、数週間ユーゴと一緒に王都へ行った。でも帰ってきたのは、レオだけ」
「どういうこと?」
「…………殺されたんだって」
「え!?」
ナナは俯いたまま膝に置いた手を固く握った。
ツバキの位置から彼女の表情は見えない。かける言葉が見つからず、ツバキは黙っていた。
「それからレオは変わっちゃった。いつもと同じように振舞ってるけど、たまに怖い顔するようになった。客も平民だけだったのに王族貴族も相手するようになって、商会もどんどん大きくなった。でもその分、レオの悪い噂も耳にするようになった。見たこともない金額が動くようになったから、ただの日用品売ってるんじゃないってことは、すぐわかったよ。……そのうち、わたしが知らない店も持つようになって……今はもう、レオが何してるか、まったくわからない……」
淡々と言い終わってもナナは顔を上げなかった。泣いているのかもと思ったが、肩は震えておらず、鼻をすする音も聞こえない。
その代わりのように、窓を叩く雨音が耳に届く。
「それでもナナは、レオを慕っているのね」
そう呟くと、ナナの頭が僅かに動いた。
「望んでやってるわけじゃないってわかってるから」
ぱっと頭を上げた。苦しみを滲ませた表情でツバキに訴えかける。
「ツバキのことだってそう。アイツ、本当は渡したくないはずなんだ。だってあんたのこと話すとき、すごく優しい顔してた。あんな顔、他の女にしたことない。レオはツバキが好きなんだよ」
堪えていたものが溢れたように、ナナの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ始めた。
「わたし、レオに危険なことしてほしくない。売りたくもない物売ってほしくない。だから、ツバキ…………」
ナナはそれ以上何も言わず、膝に置いた手に突っ伏した。
風に吹かれた雨が何度も窓を叩いていた。
ナナはぐずっぐずっとすすり泣いており、扉は開かれたままで、見張りもいない。足環は取れなくとも、玄関の近くに飛馬車が停まっているのは部屋にいたときからわかっている。
雨で視界の悪い今なら見つかっても簡単には追って来られないはずだ。
今が逃げ出す絶好の機会に違いなかった。
「…………」
ツバキはナナと扉を交互に見た。
ナナはとても強くて優しい子だ。
国が起こした戦で家を失い、見知らぬ土地へ無理やり連れてこられた。それでも彼女は卑屈になることもなく、皇女を罵りもせず、気遣ってくれる。
レオの悪い噂を聞きながら、それでも彼を信じている。何も知らされず信じて待ち続けることがどれほど不安なことなのか、ツバキは知らないわけではない。
そんな彼女を無視して逃げてしまっていいのだろうか。
押し込めていた感情の扉をこじ開けたまま、見なかったことにして。
だがツバキは敵国に捕まるわけにはいかない。皇女が拉致されたとなれば帝国は兵を出さなければならず、多くの者が犠牲になるおそれがある。今も捜索に如何程の人数が割かれているのか。
バルカタルに与える影響を考えれば、早く逃げるべきなのだ。
ナナもツバキに何も言わず、自由にさせている。逃げることは彼女の望みでもあるはず。
たとえそれが、レオを裏切らせる行為であろうとも。この後ナナがどんな目にあおうとも。
(私は皇女だから。これからはちゃんと皇女として生きるって、決めたんだから)
黙ったまま立ち上がり、ナナに背を向ける。
一歩踏み出す。
もう一歩。さらにもう一歩。
ピタリと、足が止まる。
(私がすべきこと。それを、間違えちゃいけない)
パッと振り返った。
ナナのそばへ戻って床に膝をつき、そっと抱きしめる。
驚いたナナに優しく微笑みかけ、トントンと背中を軽くたたく。
それが今やるべきことなのだと、ツバキはそう思えてならなかった。
「せっかくのチャンスだったのにな」
突然男性の声がした。
「レオ!」
いつの間にかレオが扉にもたれかかっていた。厚い外包に身を包み、黒いブーツを履いている。後ろにはいつも彼に付き従っている分厚い眼鏡の男。
レオが顎をしゃくって指示すると、男はツバキを見もせずにナナの腕を掴んで立たせた。ナナも抵抗せず、泣きながら男にもたれかかるように出て行った。
レオはその間目を伏せていたが、二人が横を通り過ぎる瞬間だけナナを一瞥した。勝手にツバキを連れ出したことに怒っているわけでも呆れているようでもなかった。
そして一度目を閉じてから、ツバキに視線を向ける。
「大人しくしてるとは思っていなかったが、ナナを手懐けるとはな」
小さく、自嘲のような苦笑を漏らす。
「お前も来い」
コツコツとブーツの底を鳴らせて近づいてきた。
ツバキが身構えると、差し出そうとしていた手を止める。
「部屋へ送るだけだ。今日はな」
そう言ってくるりと踵を返す。
「…………あいつの涙は、一番
呟いたレオの背中は、以前よりも小さく見えた気がした。
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