吉屋信子の戦前長編小説について(27)ダブルスタンダードの生まれる要因(4)同時期の社会における同性心中

 なお、明治末~大正期の同性心中の原因と年齢における特徴を小峰茂之の昭和十七年頃の研究では以下の様にまとめられています。

 ちなみにその研究は、財団法人小峰研究所長が祖父の遺稿をまとめたもので調査データが昭和十六年までのものとなっていること、小峰自身が昭和十七年十月に亡くなっていることから、昭和十七年に執筆されたと推定されてます。



> 原因について見るに、普通情死者とその原因に異なることは、普通情死の多くは、色情関係から来たるものが多い。結婚ができない、あるいは金に詰るとか言う者であるに対し同性情死に至っては、色情から来るものがないではないが、その多くは純情から不幸不遇の友の犠牲になるものが多い。(……)

 同性情死者中には少年少女が比較的多数を占めている。これは普通情死と異っているところで、年齢も十六歳以上二十歳未満者が多い。

 十五歳未満 四人 十六歳以上二十歳 三十八人

 総人員百二十一人に対して四十二人が二十歳未満の少女、しかもその少女は雛妓、女工、女中等であってこれが原因も色情関係から来るもの至って少なくその殆どが情愛から起ったものである。ここに見過すことの出来得ないことはこれ等少女の同性情死者の全部が両親の膝下を遠く離れた会社、芸妓屋等の勤め先きにおいてその朋輩と共に決行したるものである。

小峰茂之『同性愛と同性心中の研究』(牧野出版 昭和六十年十二月 二百三十三頁)



 なおこの文中において「情死」は「心中」と同じ意味。その中でも「普通情死」は男女同士の心中を指し示しています。

 明治時代については「見るも記録蒐集困難のために」少ない、とされています。

これは新聞雑誌から蒐集したためであり、「実際にあっては相当の多数に上っているものと思われるが、ただ記録のない」ためとしています。

 もっとも、小峰氏の蒐集できた明治の範囲は狭く、毎月の様に女性同性心中者が出た明治四十一年(十一件)以降の資料が大半です。

 また大正年間は関東大震災のあった十二年より前には毎年二~三件というところなんですが、十二年と十三年の資料は無く。

 心中自体が震災後のありふれた光景の一つになっていて、わざわざ記事にする程のことではなかったとも考えられますな。

 よって十四年に六件、十五年に五件と記事が現れたこと自体、復興が進んできたとも言えるわけです。

 そして、この小峰氏の蒐集した時期において最も同性心中が多い明治四十一年辺りから、女性同性愛に対する言説が活字になって現れてくるわけです。



>​ (……)同性の中から一個を選んで異性に擬し、これに向つて燃える情と湧く血とを注ぎ、男女の間に成立つそれと斉しい相愛の関係を結ぶのが即ち是れである。(……)男女の関係を自然に随うことの出来るやうにし今日のやうに自然を求むるに熱心の余り、却つて不自然に陥ることなど、一切跡を絶たしめなければならぬのである。​

伊藤銀月「女学生間の悪傾向」(『女学世界』明治四十一年三月 九十三~八頁)


>(……)流行病と云つても猩紅熱やマラリヤの類ではなく、実は女学生同士の間に行はれる一種の空想的恋愛病なり(……)

 上は学習院女学部より、下は公立女学校、私立の各種女学校に至るまで、其の生徒達の間には恐ろしい勢力を以て流行して居るなり、ハイカラ熱や虚栄病は形に現れた疾患なれど、此の空想的同性間の恋愛病は、内に潜んで女学生の品性を堕落せしめる精神的疾患なり(……)此の点に就いて、深く憂ふる所ある某高等女学校長曰く、「(……)これは近頃流行し始めたことでは無く、十年以前から女学生の間に見た不良の現象ですが、此の二三年来は殊に激烈に流行してゐる様です。(……)何うにかして撲滅したいと努力して居ますが、何うも全滅する事が出来ません、真に悪い事が流行するものです」また曰く「(……)此病に罹つた生徒を調てみますと、大概雑誌や小説などを読む、雑誌では女学世界や女子文壇を読む生徒に多く、小説では主として恋愛を描いた物、たとへば金色夜叉とか不如帰などを読む者に多い様です(……)」

(松崎)天民「現代の女学生(三十一) ▼恐る可き恋愛病」

『東京朝日新聞』明治四十四年五月十一日


>​ (……)男子には斯う云ふ親友を得る機会が比較的多い様ですけれど、女子には交際の範囲と自由とに制限があるのと、従来の女子の習慣として孤独の自己を庇つて他から見透かされるのを厭ひ、人前を繕につて寡言になり、偶ま話し合つても皮相的なお世辞ばかりで、真実を好感しない所から、親友となり得る友もを唯平凡な普通の交際で済して仕舞ひ、従つて親友の味わひを知る機会が少いやうに思はれます。​

与謝野晶子「若き女どうしの友情」(『女子文壇』明治四十四年八月 十頁)



 この段階で伊藤氏の文章には「悪傾向」の文字が見られますな。異性愛へ向かうこと、「不自然」な同性愛を「一切跡を絶たしめなければならぬ」としてます。

 松崎天民は「撲滅したいと努力」「悪い事が流行」とこの現象自体を批判、否定してます。

 一方、与謝野晶子は肯定も否定もせず、ただ男子と女子との友情の現れ方の違いと環境の違いを説いてます。


 「糸魚川心中事件」後になると、『婦女新聞』明治四十四年八月十一日の社説では同性愛を二つのパターンに分け、警告してます。


 ①純然たる友情……「極度の仲好しといふに過ぎず」

 ②女夫婦 ……「今日の生理学心理学にては殆んど説明しがたし」


>「女子教育上特に注意すべきは、前者に属する同性の愛が女学生間に案外多かる状態なる事なり」


 だが次にこう付け加えられ、この感情を教育上に利用するという方法を提示してます。


>「女学生の熱情は決して是を殺すべからず。要はこれを善導し燃ゆべき適当の際に燃えしむるにあり」


 なおこの年の記事には「恐るべき同性の愛」(『新婦人』明治四十四年九月)、「戦慄す可き女性間の顚倒性欲」(『新公論』同年同月)と否定的なタイトルのものが見られる。



>​(……)▲ 同性の愛とは不思議千万だなどと狼狽へる教育者がある、男とは口も利くな顔も見るな、男から来た手紙は総て悪魔の誘ひである、斯んなことを教へるのだもの、同性の愛が起こるのは当り前だと思ふ、僕共は寧ろ同性相愛の甚だ少なきを怪しんで居る​

鼦庵「乾燥びた女子教育」『東京朝日新聞』明治四十四年十月九日



 新聞上に置いてはこの様な発言もあるが、珍しい部類だな。ただそれが同性愛肯定に即通じるとは限らない。むしろ教育現場非難の一環として悪例としているのだろう。翌年はまた「女学生」という連載においてこんな風に書かれてる。



>​ 女子相互の間に於ける相互の恋愛は、男子の美少年に於る如きもので今の女学生間に於ては是を「男女」と称し学習院女学部に於ては特に「オデヤ」と称して盛に流行してゐる 此厭ふ可き習慣が女学生間に行はれてゐるに至つては教育上実に憂ふべき現象である、其の最も盛んなるものは女学校寄宿舎内であるが勿論通学生中にも発見される、一度上級生が自己の劣情を満足せしめんが為めに下級の美しき少女を誘惑すると此相互の恋愛は極めて切なるものがあつて如何なる場合に於ても男子の美少年を携ふるが如く、常に相携へて其の交情の密なる事は殆ど想像以上に達し、夫の為には往々にして学友間の軋轢さへも惹起する事があるのは吾人の屡々目撃する処である(……)種々の原因を有してゐるが是又所謂女子の最も危険なる時期を通じつヽあるの際なると共に彼の新しい女なるものを生じた一原因たる堕落文学の影響も亦大に与つて力がある(……)​

無記名「女学生(九)」『東京朝日新聞』大正二年三月十三日



 「憂ふべき現象」の原因として、ここで「新しい女なるものを生じた一原因たる堕落文学」が登場するわけですな。

時代どす。

 で、確かに「新しい女」の発生源である『青鞜』及び『番紅花』誌上においても平塚らいてうと尾竹紅吉(一枝)の関係に関する当人達の一連の文章もあるわけです。


「或る夜と、或る朝」(尾竹、『青鞜』明治四十五年六月)

「円窓より」(平塚、『青鞜』大正元年八月)

「一年間」(平塚、『青鞜』大正二年二、三、十二月)

「自分の生活」(尾竹、『番紅花』大正三年三月)


 「新しい女」と「同性愛」は新聞においては同一平面上で攻撃すべきものだった様ですね。


 ちなみに赤枝香奈子の『近代日本における女同士の親密な関係』(角川学芸出版 平成二十三年三月)によるとこの時期『青鞜』及び平塚らいてうは「新しい女」の中核をエレン・ケイの思想により「母性を発現させる恋愛」に置く方向へ変貌しつつありました。

 それは「すなわちヘテロセクシャルの女であり、さらにらいてうにとってはそうした恋愛を通し『種族の進化』に貢献する者」ということで。

こう変わっていく過程で、『青鞜』の中でも​尾竹紅吉(一枝)と同性愛そのものが追放​され、「​異性愛を正常、レズビアニズムを異常とみなす視線の獲得​」が行われたというわけです。


 ちなみにこの大正二年にはクラフト=エビングのPsychopathia sexualisが『変態性欲心理』というタイトルで黒澤良臣によって訳されもしました。

 この本を発行したのは大日本文明協会。明治四十一年、大隈重信の提唱で創立され、世界の知識を吸収し、東西文明の調和渾一をはかり、国民の精神的開発をむねとする設立目的を持ちます。世界名著の翻訳出版を行い、『変態性欲心理』は大正元年の第二次四十八巻の一冊。大正四年には同訳者によりアウグスト・フォーレルの『性欲研究』は第三次二十四巻の内で刊行されてます。

(参考:項目執筆:榎本隆司『近代文学大事典 第四巻』二百七十五頁)

 この本では精神病的変態性欲を「サディズム」「マゾヒズム」「フェティズム」「同性愛」の四つに分類してまして、同性愛はサディズム等と同一平面上に捉えられる様になりました。


 ……まあ以前ワタシが好事枠で古書まつりで買った「変態辞典」だったかそういうタイトルの昭和3年の本でも同性愛はそのカテゴリでしたな。引越しの時に手放してしまったのは惜しい。


 んで、大正四年には澤田順次郎が以下の様に述べています。



>​(……)況して同性の間に行なわるゝ同性の恋が、如何に甘く、如何に愉快なるものであるといひながら、之れを露骨に、口にされては、真に人間の劣等な、不潔な性癖を顕はして、如何にも穢なく、忌はしくあると、大なる好色家にさへ嫌はれた其の同性の恋が、近来秘密の幕を切り落して、一切露骨に顕はさるゝ様になつたのである。(……)同性の恋に落ちた者は、異性の恋よりも一層深くなるのである。何故といふに同性の恋は病的で、常軌を逸して居る為に、自然さう向いて来るからである。​

澤田順次郎「男同志女同志の恋」(『女の世界』大正四年十月 四十七~五十五頁)


 

 澤田もまた同性愛を「性欲の一種として古くから特種の人間の行はれて来たもの」と位置づけつつ、「病的で、常軌を逸して居る」ものとしてます。

 要するに、明治末~大正初期の「女性間同性愛」は、


・教育界にとっては「排除すべきもの」良くて「利用すべきもの」

・新聞の一般読者には「新しい女」同様危険なもの

・学者にとっては病的な「変態性欲」の一種


と捉えられだしたものと言えますな。


 で。

 大正十年には吉屋信子も同性愛に関して口を開き始めましたわ。


 まず一月の『新小説』誌上には神近市子と並びで同性愛に関する意見が掲載。

 神近は社会との関係において同性愛を論じ、「精神的な同性愛」を含む生活は「大きな慰安であり刺戟である」としていました。だが「肉体的の行為を含んでゐる場合」は「個人の堕落」と断じ、性質を見極めて「善導すべきものは善導す」べきとしてます。

 一方吉屋は、あくまで幼い頃からの感傷の延長に関して述べ、現在その感情を女子教育により刈り取られることを嘆く。神近と違い、そこに現実的な発展性は無いんですな。


 翌年大正十一年二月の『婦女界』で『変態心理』主幹の中村古峡は「警戒を要する婦人の同性恋愛」において、同性愛を「対象を間違った変態性欲」としてます。


 一方、同年八月の『婦人公論』で古屋登代子は「同性愛の女子教育上における新意義」において「同性間の年長者に対する敬愛の情」「同輩間に於ける友情と呼ばれたるもの」を「新しき意義を発見されたる同性愛」としてます。ここではこの教育上の有効利用法が説かれ、奨励も禁止も格別するべきものではない、としてます。


 「変態性欲」の一つとしてカテゴライズはされたという違いはあるものの、「忌避するもの」「利用すべきもの」の二つの見方が明治末と変わらないことは興味深いですな。


 んで。

 翌大正十二年四月、吉屋の『憧れ知る頃』が交蘭社から出版されたんですわ。

 この中で吉屋は前述の文章も含、同性愛に対する賛美を強く強く強く! 打ち出してます。



> (……)そうした時、少女の学校時代に非常に親密な友愛が起きて、大きい勢力となつて成長する。たがひに思ひ合つて慕ひ恋する婉曲な、やさしい桃色のため息のやうな、その愛の思ひよ。それは、まあ何といふ純な可愛い人生のエピソードだらう。この少女時代に始めて生れた強い友愛は、どんなにその人の一生を貫いて、大いな影響を与へるものであらうか。

 (……)おゝ、これほど美しい人間性の真珠の泉のやうに湧きいづる純な友愛をさへ、世の女子教育者、同学者達は、背自然として、又堕落の初歩として非難する、そして少女同志の親密な熱い友愛は、何か卑しい暗黒面に沈むかの様に思いこんでしまふ。それは何といふ無鉄砲な人間として恥ずかしい想像だらう。実に、美しい少女の友愛は絶望的な状態に置かれてある。

 その結果として、可憐な少女達は自身の愛情に疑惑を挟み、折角神から恵まれた美しい優しい性格を圧殺してしまあふ。何といふ悲しい事だらう。このことは、その成長して人として社会に立つても、なほ「愛」といふ意義を真面目に理解しあたわず、調子のひくい安価な恋愛に迷はされる所以であらう。

 愛は、人生の行為として、一番大事な真面目な偉大な行ひであらねばならない。愛の芽生は命にかけても完全な成長をなしとげさせねば、ならない。人を愛することは恥かしい事ではない。人に愛さるゝことも、その愛は心霊に湧きし人間の聖い捧物である。

 思ふてこゝに至るなら、人間として大事な、社会を動かす大半の力を有する愛、そのものゝ教育を全く等閑に付して顧みやうともしない、大きな欠点が痛ましく感じられるのである。一個の人格を築く上に、愛の発達、愛の構成が、いかに要用な礎になるべきかは誰しも肯定することではあるまいか。

 あゝ、この聖く優しき少女――処女の世界に湧き出づる愛の泉の上に祝福あらんことを私達は心をこめて切に祈る。

「同性を愛する幸ひ」(『憧れ知る頃』交蘭社 大正十二年四月 十八~二十頁)



 これは翌々年の『黒薔薇』で思いっきり叫んでるもの変わるものじゃあないです。

吉屋にとって「愛」は「人生の行為として、一番大事な真面目な偉大な行ひ」である「べき」であり、それを形成するのは「少女の学校時代」の「美しい人間性の真珠の泉のやうに湧きいづる純な友愛」なのですね。

 けど「教育者達が」「何か卑しい暗黒面に沈むかの様に思いこんでしまふ」ことによって少女達をスポイルしてしまう。

 なので吉屋としてはただ彼女達の幸福を祈るばかりとなるわけで。

 ここでも彼女は現実的に何かを提案する訳ではないのですな。


 この姿勢が「片瀬心中」につながるわけです。

 吉屋の作り出す世界において、少女達は「結婚」という「現実」に対し、現実的に戦う術が見つからない/見つけようとしないまま、周囲の世界を拒否し「美しく」死を選ぶわけです。


 同時期に、恋愛への「現実的な」処し方を記したものとして戸塚松子の『恋愛教育の基本的研究』があるんですが、ここでは「正しき恋愛」を「霊肉ともに具備する完全な男女関係」とし、同性愛を「正しからざる恋愛」としてこう書いている。



> 同性愛はいたづらに彼等自身の魂と肉体とを疲労せしむるものである。もし、彼等の感情が高まるならば二人の輝かしい人生には、その反対に、恰も十二月の陰鬱な空のやうに暗い気持ちを生じ、二人の生活上に全く生気を失はしむるものである。これを更に一面から考へると、将来必ず恵まるべき正しき恋愛に対して、その神聖をけがし、将来の未知の愛人に対しては、愛の純潔を既に破るものといはねばならない。

 特に同性愛の人達が、愛の極致たる霊肉一致の体験を一種の模擬的方法によつて、行はんとする場合には、生理上の疾病を生ずる恐れがある。

戸塚松子『恋愛教育の基本的研究』

(盛林堂書店 婦人教育研究叢書第1編 大正十三年十二月 十六頁)



 この記述は「片瀬心中」の掲載における伏字箇所と合ってますね。


 つまり「同性愛の人達」が「接吻」などの男女恋愛における「霊肉一致の体験を一種の模擬的方法によつて行」うこと自体に「ダメーっ」とされるのです。

 少女達の肉体的な接触箇所の伏字処置は、少女雑誌/少女達の共同体以外の「現実的な」世間―――ここでは婦人雑誌で許されるところ、で現実を吉屋に突きつけていたと言えるんじゃないかな、と。


 なので伏字処置により、吉屋は婦人雑誌で表現出来うることの限界を知ったんじゃないかな、と。

 なので、それもまた内容の制約の無い個人雑誌『黒薔薇』を出した理由の一つだったかもしれません。


 けど『黒薔薇』において、やはり吉屋は女性間同性愛を直接描くことは非難・不評につながることに気付かされた、と。

 書きたい! と思った理想自体が、予想外なまでに受け入れられてなかったこと改めて気付かされたわけだな。書きたいことを書こうとする程、読者は減って行くというジレンマ。

 「一生書き続けること」を大正九年、「地の果まで」が賞を取った時に感じた吉屋には、他の職に就くのではなく、結婚するのでもなく、ただ一生書き続けることによって生きていくためには「現実的な」対応策に迫られることになるのです。



>​ もしこれが一位入選したら、私は生涯小説家になってゆこうと決心していた。(……)翌年(大正九年)を前の十二月二十二日に大阪朝日新聞社から私の一等当選を報じる電報が父の喪にいる私に来た。その瞬間、私は飛び上るほどうれしいかと思うとそうではなかった。(ああ、これで一生文学というものをやるのか)と重荷がどさりと背にのしかかったような、しいんとした気持になった。​

「懸賞小説に当選のころ」(『朝日新聞』昭和三十八年一月十九―二十日)



 ちなみに『黒薔薇』を出す前の吉屋と門馬のおてがみにはこんなことが。



>​私は千代子さん いよいよ決心しました 自分の書いてゆく仕事の本路を一つきめてまつしぐらに行きたいのです それは所謂通俗小説と或る人々の呼ぶもの 言ひかへれば民衆に贈る長篇創作です 私はそれによつて出来るだけ美しいもの正しいものをあざやかに描きぬいてゆきたい​

大正十三年十月 (引用『女人 吉屋信子』二十九~三十頁)


私は家庭小説のすぐれた美しいそして立派に芸術であり 残るものを生涯書いていきたいと思ひます

私はただ一つの路に仕事を求めて深く掘り下げてゆきたい――さう決心しました

「黒さうび」はいはばその第一歩です

同時期(引用『女人 吉屋信子』三十二頁)


​あなたが発表なさりたいと思へばいくらでも発表する事は出来ると思ふわ、おんなじ発表するならあなたの個人雑誌の限られた読者よりも、もつと広い方が好い。ね、然うでせう​

大正十三年十月十四日付 (引用『ゆめはるか吉屋信子』上巻 五百六頁)



 『黒薔薇』刊行以前から吉屋は 門馬あてのお手紙の中で「広い」相手対象のものとして、「所謂通俗小説」「民衆に送る長篇創作」「家庭小説」を書いて行きたい、としてます。

 けどこの時点の吉屋は『黒薔薇』が第一歩、としてまして。

 一方門馬は「現実的に」、限られたファンだけでなく広い読者に向けることを吉屋に勧めています。


 まあ見方を変えれば、そもそも『黒薔薇』自体、ここで言う「民衆に送る長篇創作」を載せる場ではなく、吉屋自らの文章の実験場だったかもしれません。読者の反応をこの自由にできる場で観察する目的もあったのかもしれない。

 その意味で言うなら、『黒薔薇』は吉屋のその後の創作活動にとっては有益であり、実験場として成功だったとも言えますな。

 で、『黒薔薇』で得た読者の反応を基に、吉屋は家庭小説の枠に「処女性崇拝」「生殖・男性性拒否」をこっそり盛り込むことにしたのではないかな、と。


つまりそれが、第二章で示した


 ①対外的メッセージ

  ――a『結婚相手の選定の重要性』

    b『妻として夫(決めた相手)への貞淑』

 ②本音のメッセージ

  ――a『適切な結婚相手がいなければ未婚のまま仕事(使命)に生きるべき』

     ……処女性崇拝

    b『自ら生んだ愛する人との子供とは幸せになれない』

     ……生殖・男性性拒否


へつながっていたのではないかな、と。

 これは『黒薔薇』№8「巻尾に」における以下の言葉へも対応してます。たぶん。



>一号に描いた感想「純潔の意義に就て――」が少し言はれて居りますが、今からかへり見ると、不備な一元的解釈に陥入り過ぎてゐるのです、それは只今私にもはつきりわかりました、その時たゞ一つの観念にしがみついて他をかへり見る余裕もなくかいたのでした――私はあれについて再び他日かくでせう、それは不得手な論文の形でなく小説に描き出し表現して見たいと心ひそかに願つて居ります



 「不備な一元的解釈」が吉屋にとって何を指すのかは何だかさっぱり判らないんですが、読者の反応を理解した上で中心思想を小説の中に盛り込んでいこうという意気込みは判る気がします。

 ではそれは具体的にはどういう形となるのか。


 それを『黒薔薇』と同時期に書きだし、時間をかけて「筋」を求めた「空の彼方へ」を例にとって見てみようかと思います。

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