吉屋信子の戦前長編小説について(26)ダブルスタンダードの生まれる要因(3)初期短編「片瀬心中」に描かれる同性心中

 さて、『黒薔薇』発行の前々年、大正十二年一月の『婦人倶楽部』に吉屋信子は「片瀬心中」という短篇を載せています。


 ちなみにこの時点では門馬千代とはまだ巡り合ってません。

 彼女らが出会うのは、この年の一月十二日。金子しげりの仲立ちによります。

 吉武輝子と田辺聖子の伝記によると、この時期は「屋根裏の二処女」における自分の分身「章子」の相手である「環」のモデルである女性との関係が無惨な結果に終わって、女性を愛すること自体に疑問を持っていた時期であるとしてます。

 「女同士の友情などない」と言う吉屋に金子しげりが門馬を「刎頸の友」として紹介し、そこから二人の関係が始まるわけです。


 まあその直前なんで、自分の性癖とか、同性愛、女性というものに疑問を感じている頃でもありました。


 で、ここでは初出時の伏字に注目したいんですな。

 これは後に収録された『憧れ知る頃』では一ヶ所を除き明らかになっておりまして。

 ちなみに( )内は『憧れ知る頃』における頁数ですね。



>​​​つと二つの唇は顫ふ葩の朝露に濡れておのゝくごとくに相寄るあはれ少女のあえかな、その唇よ、今し強くも――ふれあふて、ふたりの胸もそのまゝに、溶けて消ゆれと、息のけはひも今は覚え知れぬ不思議な陶酔よ――……

 ふ熱い接吻に――(百四十頁)

――ふたり又もひそやかに唇を合せ――(百四十三頁)

もの狂しいばかりのやるせなき思慕の焔……(百五十一頁)​​​



 『憧れ知る頃』における百五十一頁の例は誌上と字数が合わないことから、吉屋が単行本収録時に修正したと思われます。

 まあともかく、ここで『婦人倶楽部』編集部が伏字にしたのは同性愛描写が「接吻」という好意が肉体的接触に至っている場面なんですね。

 『花物語』における「黄薔薇」や「日蔭の花」でも吉屋はそれと匂わす描写をしているんですよ。

 だけどさすがに「おもしろくてためになる」講談社の婦人雑誌上では、直接的に描写されることはできなかったと思われますな。

 で、気付くんですが、吉屋自身からすると唇への「接吻」は性的肉体的な関係と見なしてなかったってことですな。前回であれだけ霊的にどうの、と言ってる彼女が!

この人の肉体的接触は何処からなんでしょうかね。


 んで、「片瀬心中」は、「貧しい一女学生」緑が令嬢満寿子に対し積極的な話どす。

 ちなみに「緑」はデビュー作「地の果まで」におけるヒロインかつ吉屋の分身的存在の名でもあります。奨学金で英学塾に通い、やはり自身に「貧しい」という意識が存在してます。なお吉屋は懸賞小説投稿時、公正な評価のための名前を伏せるという取り決めにおいて、このヒロインの名を使ってます。……ということで、「章子」とはまた違った形の自分のメアリ・スーなんではないかと。

 もう片方の満寿子ますこという名も複数使われてるんですが。

 『花物語』の「燃ゆる花」(ここでは「おますさん」)の夫から逃げた女性、「屋根裏の二処女」で章子の愛する女性・秋津あきつたまきに対し心中を持ちかける、結婚に失望した女性の名です。

 前者は夫に連れ戻されそうになった時に放火による火事が起き、慕われている少女と共に心中してしまう。後者は環が拒むことから生死不明。

 いずれにせよ「心中」に縁深い名ですな。


 そんな令嬢満寿子さまの結婚話を聞いた緑さんの様子が以下の様に描写されるわけですね。



> 皆まで言はせず言ひもせず――運命的な或る恐ろしい暗い予感に襲はれて――緑は暗然として、しかも身体中の血といふ血が俄に逆流するかと思はれた――一種の殺気立つて来たのである。

「結婚――あゝ、まあちやん、いつかいつか――とその問題が若い美しい貴女の上に落ちかゝるのを私はおどおどした気持で思ひ煩ひながらかうしてゐたのよ、けれど今ほんとに今こそ、まさしく現実の問題になつてしまつたねえ――絶望的のものねえ……」

 われと我が髪をいきなり掻きむしり度い苛立しさに緑は身ぶるひした、声も乱れて息もせはしい胸は破れるばかりに苦しいにちがひない。(……)

「けれど――あら、いくら満ちやんがさう思つて居ても、周囲が――満ちやんの家の方達が許さない――もう絶望、絶望――。」

 緑は、吐き度す様に烈しい語気で――

(百四十七~八頁)



 ここで満寿子が「結婚なんて――どうしてしませう――死んでも――」といったことから、緑がその言葉に飛びつき、二人は死に傾いて行く。



>​ この二人にとつては、まさしく悪魔の化身のやうな結婚問題を踏み越えて勝利者になるには、地に生くる人間にとつて絶対のもの――死――最後の一線に到着するより外術なしと思ひつめたのである。​

(百五十四頁)



 このとき緑の残される者への責任感や未練はこれから訪れる死に比べ、薄い。



「緑さん、かんにんして下さいな、私のためにあの――お気毒なお母様に……私ほんとに切なくつて――。」

 満寿子は術なさそうに――うなだれて力なく吐息をもらした。

「満ちやん、ちつとも気にかけないで――貴女を失なつて身は空蝉の徒に生き長らへて始末におへない絶望的な人間になつちまつてあの母さんを苦しめ通すよりは、いつそ貴女と手をとつて幸福の刹那を感じつゝ、天に昇つた方がどんなにましでせう――母さんだつてその方が不幸中の幸福に思つて呉れる――。」(百五十五~六頁)



 地の文もまた二人の死については肯定的にこう続ける。



> ――地にはゆるされぬ二人の処女同志のあえかに清らかな恋を其のまゝにかい乗せて沓永遠の彼方――空のかなたの極みまで――彼女等のめでにし恋のゆるさるゝ、しぼまぬ花永久に咲き匂ふ天の領土――。(……)

 など処女同志にかくばかり熱く清く美しい愛情の炎を与え給ふか神のみこゝろははかり知るべくあまりに高いゆゑか?

(百五十九~六十頁)



で、気付くのが、この作品には大きな三つのキーワードが存在するんだな。


「結婚拒否」

​​「同情」

「心中」


の3つ。


 ちなみに興味深いのは、同じ緑の名を持つ「地の果まで」のヒロイン緑もまた、 「異性愛」に向き合う段になるとアタマに血が上って、卒倒してしまう程に拒否反応を示す人物なんだな。


 ちなみに繰り返し出しますが、竹田志保氏は以下の様に指摘してます。



>​​ 緑は自分が描いた構図が危機に面した場合、あるいは自分たちに異性愛的な<成長>の課題が浮上してきたときには、相手を「悪魔」として強烈に攻撃し、失神などの過剰な身体反応を示すのである。このことは、彼女がその自己規定を失っては自分を保つことができないという危うさを示している。​​

竹田志保「吉屋信子『地の果まで』論――<大正教養主義>との関係から」

(『日本文学』平成二十五年十一月 ひつじ書房)



 ちょっと逸れて。

 「地の果まで」という作品においては、同性愛に直接向かう描写は無いんですね。

 ただ梅原敏子という友人と寄り添って生きて行く、ということで暗示はされているんですわ。

 ある意味、「片瀬心中」は「地の果まで」の未来においてあり得る場面なのかもしれないし、生きてく方向で考えた話なのかもしれないですな。


 ところで。この物語と似た構図の心中事件が明治四十四年に起こっているんですね。

 「糸魚川心中事件」と言いまして。

 七月二十六日、工学博士曾根達蔵の三女貞子と専売局主事岡村玉蔵の二女玉江が新潟県親不知海岸に投身しています。

 貞子の父・曾根達蔵は中條百合子の父・精一郎と連名で建築事務所を構える著名な建築士であり、また玉江の父も官吏です。

 いいご身分の「二令嬢」の起こした事件の波紋は大きかったようです。


 事件の顛末としては、


​ 貞子に縁談→結婚拒否→母に責められる→玉江が同情→貞子、玉江との交際を制限される→貞子、家出→玉江、手紙を残し探しに家出→心中​


 「結婚拒否」「同情」「心中」という三つのキーワードがこの事件にも存在します。


 また、心中する二人の経済的落差も見逃せない。結婚を厭う方はブルジョワ、もう片方は「貧しい一女学生」(ただし女学校後に英学塾に通える程度)です。

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