彼女の道~吉屋信子流「母性愛」

​​​​>「左様です、自分の愛する子のために一身を犠牲にするほどの強い母の愛情、それが婦人にとつて何よりも立派なものではありませんか――」

「まあ、自分の子を烈しく愛すことが立派なんでございますつて、そんなことは、犬だつて猫だつて持つてゐる、動物本能の利己主義の現れぢやありませんの。そんなことが何故そんなに高く評価されますの?」(……)

「もし母性愛といふものを貴く認めて行きたいなら、その血肉の本能愛に閉ぢ込められ過ぎる利己主義から解放された新な広い(母性愛)でなければいけないと存じますわ。」(……)

「それは、自分の子であらうとなからうと、自分達人類の後継者としての幼い者達への深い愛情の心づかひでございます。その愛の感情こそ、ただ万物の霊長たる人間のみ持ち得る洗練された母性愛なのでございませう。」

「ふーむ、するとあなたはかうおつしやるのですな、つまり自分の腹を痛めた子であるないにかかはらず、第二の国民たる子供、我々の後継者には、すべて母性愛的愛情をそそいでやるべきだと――」



 「彼女の道」。引用は『吉屋信子全集』新潮社刊昭和10年7月のものから。

 この昭和10年の全集ってのは非常に当時として「全集」していて楽しいです。装丁ファンではないワタシでも「あー凝ってるなあ」と思える程度に。

 この話は洋行帰りのインテリ女性が鉱山主の後妻に入って、そこで夫に幻滅したり夫の娘達と仲良くなったりそうでなかったり、鉱山事故が起こったり、まあ波瀾万丈の上、「全て失ったけど家族が残って幸せ」話です。

 まあそう書いてしまうと普通にメロドラマなんですが。

 この話ではそもそもヒロイン潮さんの結婚するきっかけが彼女の提唱する「母性愛」なんですね。

 まあはっきり言えば吉屋信子の母性愛観です。

 正直、一般女性に受け入れられるとは……


 で。22年後も同じことをこれでもかと言います。

 吉田茂と対談したことがあってですねえ…… 

 この中でまあちょろっと、「軍隊にはそれなりの覚悟がある兵士でないとつとまらない」的な発言をした訳ですよ。その時に母親も「子供を喜んで送り出してやるような」心構え、という意味ですね。

 そのくらいでないと国防はできねえぞ、という流れのはずなんですが。


 朝日新聞が、「天声人語」で「一主婦」の投書として、彼女の発言一つを拾って非難するということやったんですよ。

 ホントにそういう投書した「一主婦」が居たかどうかは判りません。まあ今となっては「捏造じゃねえのー」と言いたくなりますが。朝日ですし。


 ですがまあ新聞がメインの情報源な当時ですし、再軍備の件でぴりぴりしていた頃だし、ということで「吉屋信子の本不買運動」を和歌山の婦人会有志が起こしちゃったんですねー。

 で、朝日では投書の形、毎日にはコラム欄とって言い返しました。流れの中の一つを取って弾劾するのはどうよ、という内容です。


 ただ吉屋信子、ここで言わなくていいこと言ってしまうんですよ。

 世の母親達の神経に障るようなこと。



> (……)私はむしろ母の心を重んじたから、その母の心が動かない以上、精神のある軍隊は出来ないと断言したまでである。

 またこの一主婦は子を持たぬ女は、人の子など何も思わぬと考えておられるようだが、それはあの座談会の言葉を読みちがえていられる以上に狭隘な解釈である。

  広義の母性愛とは、人類愛に根ざした深く高いもの、それは女性の心の底にたれも持っているものだと思う。(……)社会には昔から今に至るまで、実の子は愛 しても生さぬ仲の子を愛し得ぬ家庭悲劇が跡を絶たぬ。あまりに狭隘な母性愛が、そういう悲劇を生ずるのではなかろうか。もうそろそろ近代の日本の女性はわ が子だけを愛する母性愛よりも、もう一つの人類愛に通う母性愛のあることを知っていい時だと私は思う。

「母性愛とは あなたがたは誤解している」(『毎日新聞』昭和28年2月14日)



 無論更に「どうよ?」という投書がまた読売でこんなのが。



> (……)母性愛とはそんなありふれたものでしょうか。

 ▽子をもってこそはじめてわが子の可愛さがわかり、ひいてはそれが大きな人間愛にまで発展するのだと思います。吉屋さんはわが子だけを愛すのはせまい考えで、もうひとつの大きな人類愛に通う母性愛のある事を知ってほしいと強調、いえ、強要しておりました。どんな大きなことにもその元は小さく、それが発展してはじめて立派なものが出来上がるというのに。――子を持たぬ人になんで真の母性愛がわかるでしょうか。真正面からそのような理論だけを強要するのは、やはり実情に会わぬのそしりをまぬがれないでしょう。

(横浜市・朝子)(『読売新聞』昭和28年2月19日)



 だからこのひとは、体感できる「母性愛」を否定したいがために、理論武装しているように見えるんですね。

 別に「子供を生まないから皆のような母性愛はわからない、だが自分はこういう人類愛も知っている」くらいにしておけば、バッシングもなかったんでしょうが。

 結局これは『改造』誌上で「日本はどこへ行く」という文章で吐き捨てて勝負を投げる感じになります。

 ちなみに、このひとが この「母性愛」に「気付いた」のはパリでのようです。



>(……)又憎まれ口を利くやうだけど日本みたいに七人も八人も一人の母さんが子供を連れてゐるやうであつたら、こんな場合背中の赤ん坊はおされてヒーヒー泣き叫び左右の手にぶらさがつて居る子供はわんわんわめき、気の荒い職人風の男は「おい、やかましいぞッ、泣かねい子と取り替へて来いよ」なぞ人の母の心も知らで一杯機嫌で叫ぶであらう――しかし巴里には又仰山に言へば私の廻つて来た世界の国では支那を除く他、そんなに子供が大人の感情に険しく扱はれる場合は夢にもなかつた。子供を連れた母親がそんな行列の中で一寸子供を扱ひかねて居る場合なぞには、その側に居る紳士か或は子供を連れぬ女性は直ぐ手を貸し、その母親を助ける、誰でも子供のわきに立つ者はその子の保護者になつてやる、どこの誰の子か見知らぬ幼児に対して大人は常に到る処で保護者となるのだ、もうさういふ光景を見るとまつたく子供は社会人類の共有物の感じだ、社会人全体が母性愛を持つて居るのだ、日本で盛んにひと頃宣伝されたあの利己主義的な島国根性な自分の子供だけむやみと愛して母を犠牲にするやうなケチ臭い母性愛とは品と質がちがふやうである、この様に社会人に愛されて育つ子はやがて己れの社会の一員であることを自覚し社会に役立つ者とならう、子供が単に父母にのみ属してゐる時、彼は家名をあげ孝行をすること位までは考へても他人の為や世の為なんて愛情の意識はゼロとなり果て、冷たい冷たい利己主義家族主義のうき世が生じる所以――

「巴里の子供」(『異国点景』民友社 昭和5年6月)



 だーかーらーこの時期の吉屋信子の散文は(りゃ

 たぶんこれで子供を持たない~以前に結婚する気も男とつき合う気も無い自分の「言い訳が立った」んではないか、とワタシは思う訳です。


 しかし、彼女は周囲にそんなに「あの利己主義的な島国根性な自分の子供だけむやみと愛して母を犠牲にするやうなケチ臭い母性愛」しか見当たらなかったんですかねえ。「冷たい冷たい利己主義家族主義」って。

 まあ確かに伝記によると彼女にとって母親は毒親だったようですが。​​​​

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