2.

 声をかけても裸足の両足はピクリともしなかった。多分女性だ。僕は急速に緊張した。なんでこんなところに人間が? 倒れたまま、死んでいるんだろうか? 


「ちょっとそのまま、動かないで」


 コンテナにそう言うと、彼は大人しくうずくまるようにした。


 壁際に寝かせてあった梯子を出してきた。それを立てかけると、心が鎮まるよう努力しながら段を登った。人間なんてもう何年も会っていない。僕は喋り方を忘れてしまったとは思わないけど、流暢に話せる自信もなかった。いや、それよりも。僕は事件性のある出来事のせいで身の回りに乱暴な意志が大勢集まってくるのを恐れた。


 コンテナの天蓋の上に首を突き出す。次に登り上がってしまう。天蓋は頑丈だから立って歩いても平気だ。そうして仰向けに横たわる姿を見た。


 艶のないホワイトの清潔そうな生地で作られた、頭から被るようなシンプルな緩めのワンピース。横たえられた両手は、長い袖を肘まで捲っている。女性らしい柔らかな起伏のある姿が、僕をドギマギさせた。その胸はゆっくりと上下している。生きている。


「ねえ、君、どうしたの」


 閉じられた目。広がる髪は肩のあたりくらいの長さで、どこか几帳面に管理された印象を覚えた。それから、見たところ健康そうな肌。額に汗が浮いている。つんと上を向いた鼻。微かに開いた口。声に反応しない。


 肩に手を置いて軽く揺すぶる。しっとりと優しく手を押し返す感触。その細さと壊れそうな柔らかさに、僕は一層不安になる。


人間って、こんな感触だったっけ?


「君、ねえ、大丈夫かい?」


 何度か揺すぶると、ようやく唇が開いた。ヘナヘナした声が聞こえた。


「………暑くて死んじゃいそう」


 彼女は死体じゃない。僕はやっと安心して、それからぐったりしたままの彼女を苦労してコンテナから下ろした。


・・・


 僕の暮らす部屋は、この巨大な倉庫の隅、スチールの階段を何階分も折り返して上がった天井近くにある。倉庫の内側にポコンと飛び出た箱型の部屋。倉庫の壁の内と外それぞれをぐるりと囲むキャットウォークがつながっていて、外窓を開ければ海が広く見える。内窓はもちろん倉庫の中に向いていて、働く機械を眺め下ろすことができる。階段は最初の折り返しまでは可動式で、それを引き上げてしまえば、それより上に立て篭もることができる。暴徒から身を守るために備えられた設計。しかし世界から人間はいなくなって、今はこうして僕が暮らしている。夏は暑くて冬は寒い。けれども冷暖房は完備していて、小さいけれどキッチンと風呂もある。


 重い背中の荷物を、はあはあ言いながら担ぎ上げた。それから彼女をひとりがけのソファーに横たえると、急いで浴槽に水を張った。おそらく熱中症だから冷やさないといけない。全開の蛇口からほとばしる水は最初熱湯だったけど、すぐにほどほどにヒンヤリした温度になった。腰がつかるくらいまで溜まったところで、彼女に声をかけた。


「ねえ、すぐに水に浸かった方がいい、起きれるかい」

「・・・」


 結局担いで浴槽まで行った。悪いけど多分急を要する。脱がせたワンピースの下は何も着ていなかった。彼女はぐったりとして、僕にされるがままだった。裸の彼女を浴槽にしゃがむように座らせると、肩や頭にシャワーの水をザアザアかけた。健康そうではあるけれど細い背中、やっぱりそれはどこか管理された暮らしを連想させた。


 ヒンヤリとした水が胸元くらいまで溜まったところで、膝を抱えていた彼女の体はふんわりと解けた。後ろ向きに水の中に倒れ込んでいくところを慌てて支え、浴槽の壁に仰向けにもたれさせるようにした。自然と、滑らかな姿が目に入った。胸の丸みと、その先の色。すべすべとしたおなか。キュッとした腰。力なく、けれど健やかに伸ばされた太ももと足。


 彼女が薄く目を開いて、「もう大丈夫だから」と言った。


 僕は立ち上がると浴室を出て、ようやく部屋に冷房を入れた。それから時々浴室を覗いて、彼女の白い腕が物憂げに浴槽のヘリの上を動くのを確かめた。


・・・


「合法的な貨物、天地無用、コワレモノ」と彼女は自己紹介した。「だから丁寧に扱ってほしい」


 それからソファにもたれると、ゆるく足を組んだ。着ているシャツは僕が貸した。


「冷たい甘い飲み物と、お腹に溜まるもの、炭水化物」

「急にあれこれ食べると後で疲れるよ」


 すると彼女は僕をまっすぐに見て、仕方ない、小さなキッチンの椅子に腰掛けていた僕は、立ち上がると冷蔵庫を開けた。食料を持ってくる輸送機械が来るのは明後日だから、あんまり種類は入ってない。スポーツドリンクをグラスに注ぎ、朝食用に残していた食パンにブルーベリージャムを塗り、チーズを薄く切って並べたものを作った。


 彼女はまずスポーツドリンクをクンクンしてからゴクリと大きく一口飲んで、それから食パンをじいっと眺めた。


「…やっぱり胃が受け付けないかい」

「…いや、頂きます」


 それから時折スポーツドリンクで喉を潤しながら、もくもくと食べた。


「あなた、変わってる」

「そうかな」


 いささか傷つきながら、僕はテーブルの彼女を眺めた。僕と同じくらいか、ちょっと年下か。しかしその横顔には、少女というには大人びた雰囲気があった。エネルギーを注入されて力が戻ってきたのか、椅子に座る背すじがスッと伸びた。彼女は僕の視線に気づき、また僕を真っ直ぐに見た。


「さっき全部見たでしょう」

「うん、ごめん」

「抱きたいの?」


 いきなりの言葉に僕は驚いて、座る椅子の足がガタガタ音を立てた。


「いや、その」

「襲わないのは、踏ん切るくらいの魅力が私にないから?」


 どっと汗をかいた僕は、ようやく息を整えて座り直した。そうして、「そうじゃなくて、貨物には手を出さないよ」とだけ言った。彼女は表情を全然変えずに、「ふうん」と言って、再び食パンをもくもく食べ始めた。その態度に僕はまたいささか傷ついて、すると目の裏に、浴槽の水に浮いた彼女の白い姿がチラチラした。実際、それは目が離せなくなるような強い輝きを僕に放っていたから。


「人間が珍しいんだ。動いている姿を、どうしても目で追ってしまう」


 彼女は再び僕を見たけど、その目にさっきのような鋭さはもうなくて、ああ、そういう人もいるかもね今時、と納得したような顔になった。


 食パンを全部食べた彼女は、「ふぅ」と満ち足りた息を吐くと、「まあ美味しかった」と言った。それから僕に全身を見せるように立つと、「抱きたくならない?」と言って、ふわりと両手を広げた。丈の短いシャツは彼女を魅力的に見せた。僕が普段着ているシャツは彼女の胸の隆起を包んで誇らしげに膨らんだ。彼女は僕にニッコリと微笑みかけ、しかし瞳は僕の一部始終を観察していた。


「魅力ない?」

「・・・」


「ちょっとも?」

「いや、そんなことはないよ」


「少しは抱きたい?」

「・・・」


「ね、どうなの?」

「・・・」


 彼女はしつこく食い下がり、結局僕から「抱きたい」という言葉を引き出した。すると彼女はようやく安心したように笑い、その目から張り詰めていたものが消えた。彼女は椅子に腰掛け直して、ずり上がってしまったシャツの裾を直した。


「ああホッとした」


 そうしてグラスに残っていたスポーツドリンクを、喉を鳴らして飲んだ。


「私は商品だからね、顧客に魅力的に感じてもらえないと、困ったことになっちゃう」


 普段気にも留めない遠い波の音が、いやに響いて聞こえた。僕は彼女の喉がごくんごくんと動くのを黙って見ていた。


(3に続く)

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