第85話 誰ですか
朝の出勤時、パンプスを履き終えた坂井さんは、目線を足元から上げた。
いつのまにかトイレのドアが開いていて、若い女がそこから顔を出していた。
坂井さんはワンルームのアパートで一人暮らしをしている。同居人などはいない。第一、見たこともない顔である。あまりのことに彼女は玄関で硬直し、まばたきを3回ほどする間、両者はじっと見つめあった。
女はやけに灰色っぽい顔色をしていた。坂井さんは悪夢を見ているような気分だった。そのとき、アパートのベランダが面している大通りから、パァン! とクラクションの音がした。
それではっと我に返った彼女は、慌てて家を飛び出した。
転げるように階段を駆け降りると、一階に住んでいる大家のおばさんとばったり出くわした。
「あら、坂井さんたらどうしたの? そんなに慌てて」
「おっ、大家さん! 家に知らない人がいたんです!」
涙目で訴えると、大家さんも驚いて、すぐ近くの交番に電話をかけてくれた。ほどなく警官がやってきた。
大家さんも含めた3人で家の中を改めた。しかしトイレはおろか、部屋中を探しても、女の姿はどこにもなかった。
アパートから出るための階段は1ヵ所だけで、そこから逃げたとしたら目に留まったはずだ。窓にもすべて内側から鍵がかかっていた。
「見間違いではありませんか?」
と、警官に困ったような顔で問われて、
「絶対に違います!」
と必死で返した坂井さんだったが、時間が経って落ち着いてくるにつれ、だんだん(やっぱり夢でも見たのかな)と不安になってきた。
「まぁ女性の一人暮らしでもありますし、周辺のパトロールを強化しますので。何かあったらすぐにご連絡ください」
警官はそう言って帰っていった。
大家さんも家に引っ込んでしまい、一人になった坂井さんは、はたと大事なことを思い出した。
本来出勤するはずの時間を大幅に過ぎている。遅刻はすでに確定的だった。
彼女は慌てて勤務先に電話をかけた。
「もしもし、坂井です」
『あら、坂井さん?』と、上司の声が応えた。
『なぁに? わざわざ外線かけてきて』
「あのっ、実は出がけに不審者が出て、今さっきお巡りさんが帰ったところで、申し訳ないんですけどこれから出社しますので……」
必死で謝ると、上司は笑った。
『何の冗談なの? 坂井さん、ちゃんと出社してるじゃないのー』
「えっ?」
『だって、始業前からちゃんと机に……あら、いない』
上司の声を聞きながら、彼女は気が遠くなりかけた。
『変ねぇ。ねぇ星野くん。坂井さん、普通に来てたよねぇ?』
「い、いませんいません! 出社してません! 誰ですかそれ!?」
アパート前の道端で、思わず大声を出してしまった坂井さんを、集団登校中の小学生が不審そうに眺めながら通り過ぎた。
その朝出社していたという坂井さんは、何人もの人々に目撃されていながら、オフィスから煙のように消え失せてしまったという。
彼女を見たという人は皆一様に、
「そういえば、ものすごく顔色が悪かった」
と口を揃えた。
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