第73話 くみちゃんおはよう
玖美さんが大学一年生になったばかりの春、眠っていると突然女の声で目が覚めた。
「くみちゃんおはよう」
抑揚のない声は確かにそう聞こえた。
玖美さんがまぶたを開けると、部屋の中はまだ暗かった。枕元の時計は午前5時少し前を示している。
(まだ全然寝れるのに……もっかい寝よ)
横向きになって布団をかぶったとき、目と鼻の先に人の顔があることに気づいた。
若い女性のものらしき顔が、枕のすぐ横のシーツの上にあった。まるでお面をそこに載せたような具合だったが、その顔は口を動かした。
「くみちゃんおはよう」
思わず叫び声を上げると、玖美さんはとっさに頭から布団をかぶって、必死に寝たふりをした。その時はそれが最上の手段だと思ったそうだ。
そのうち本当に眠ってしまったらしく、次に気が付くと部屋の中が明るくなっていた。
シーツの上にあった顔はなくなっていた。
明るくなった部屋で、改めて玖美さんは早朝のことを思い出してみた。ベッドには何の形跡もなく、あれは夢だったんじゃないかという気さえしてきた。ただ、あの顔はどこかで見たことがある、という気がした。
だけど、肝心の「誰なのか」が思い出せない。
モヤモヤとした気持ちで登校したその日の午前中、大学にいた玖美さんの携帯に、彼女の母親が電話をかけてきた。
「玖美の友達に、菊田るねさんって子、いたっけ?」
珍しい名前に聞き覚えがあった。高校の同級生で、一年生の時だけ同じクラスだった子だ。
大人しくて、いつも一人で本を読んでいる、という印象があるが、ほとんど話した覚えがないので、どんな子かよくわからない。
「友達っていうか、高校の同級生だと思うけど……菊田さんがどうかした?」
「その子って、あんたと仲良かったかしら?」
「ううん。一年の時同じクラスだったけど、話したことがあるかも微妙なくらい」
「あらそう……あのね、ちょっとゆっくり話せるかしら」
「ちょっと待って」
場所を移動してかけ直すと、母親はいつになく歯切れの悪い声で続きを話し始めた。
「実は菊田さん、今朝亡くなったそうなのね……」
「えっ!? あたしと同い年なのに」
「そうなの……で、それが、自殺だっていうのよ。そんで、遺書にあんたの名前があるからって、菊田さんのお母さんがうちにいらして……」
玖美さんは開いた口がふさがらなくなった。
それによると、どうも玖美さんと菊田さんは、一年の時の英語の授業で、ペアになったことがあるらしい(ただし、玖美さん自身は覚えていない)。
二人一組で簡単な英語の会話文を作って実演する、というものだったようだが、菊田さんが同級生とまともに話したのは、どうやらこれが初めてだったのだそうだ。
おそらく時間にすれば、10分ほどの会話だったはずなのだが、どうもこの時から菊田さんは、玖美さんを「友達」だと認識し始めたらしい。それもかなり重要な親友として、「高校生活唯一の心の支え」としてきたのだという。
「嘘ぉ! あたし、全然話した記憶ないんだけど。もちろん一緒に遊んだりもしてないし」
「お母さんだって、玖美が菊田さんのこと話すの聞いたことないわよ。でも何でかそういう……」
お母さんはそこで口ごもった。後で知ったことだが、菊田さんの自殺は「唯一の友達だった玖美さんが、自分のいる故郷を離れて東京に行ってしまったこと」が原因だと、そう彼女の遺書に書いてあったのだ。
「とにかくあたし、ほんとに菊田さんとは全然仲良くなかったんだから……」
「まぁ、そういうことだったのね……ええと、じゃ、また何かあったら連絡するから……」
母親との通話は尻切れトンボに終わってしまい、玖美さんは一人、モヤモヤとした気分のまま取り残された。
その時ふと、部屋で聞こえた声と、シーツの上の顔のことを思い出した。
(どこかで見たことがあるような気がしたけど、あれ、菊田さんの顔じゃなかった?)
暖かい春の日だというのに、背筋がぞっと寒くなった。
「亡くなった菊田さんには申し訳ないんだけど……はっきり言って迷惑。だってほんとに全然仲良くなかったし。なのに友達だと思われてたなんて、まともにあの子としゃべった人、ほんとにいなかったんだなって」
それから10年以上が経った今、玖美さんはそう言いながら、マドラーでウーロンハイを意味もなくかき混ぜている。
「友達がいなかったのはそりゃ、かわいそうだけどさ。菊田さんにも原因なくはないでしょ……。あたし達が一年のときのクラスって、わりと雰囲気よかったはずなのよ。荒れてる学年でもなかったし、普通にとっつきやすい子が多かったと思うんだよね。それでもあんなにずっと黙って、じーっと固まってたんじゃ、友達ができないのも無理ないっていうか……その、とにかくあたしは悪いことしてないでしょ? 授業でしゃべっただけでしょ?」
だんだん声が大きくなる。玖美さんはウーロンハイのグラスを威勢よく傾けると、ガチャンと音を立ててテーブルに戻した。
「だからほんっと迷惑……だいたいさ、死ぬときに出てくるなら、『さよなら』とかじゃない? それが『おはよう』なわけ。わかる?」
あれからシーツもベッドも買い替えたし、引っ越しも何度かしたけれど、いまだに年に一回、菊田さんの命日の早朝には、同じ声で起こされるという。
「くみちゃんおはよう」
そして枕元に少女の顔がある。
以前は顔面だけしか見えなかったはずのそれは、今では耳まで見えるという。だんだん上ってきているのだ。
「いっぺん説教してやりたいんだけど、気が付くと朝になってるんだよね。あれ不思議」
このままどんどん外に出て来たらさすがに怖いので、今度お祓いにいくとのこと。
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