第62話 獺の歌

 ハルが5歳のとき、彼女の父親が他界した。

 母親と二人きりになった彼女は、東京から、母方の祖父母が暮らす田舎の村へと引っ越した。

 母親の実家は、山間の静かな土地に立つ、古くて大きな日本家屋だった。その家で、彼女は中学卒業までの子供時代を過ごすことになった。

 家の近くには、きれいな小川が流れていた。ハルはそこで近所の子供と小さな魚の影を追ったり、葉っぱで作った船を流したりして遊んだ。小さな村だったが、子供はハルの他にも何人かいて、歩いて1時間ほどかかる小学校まで、皆で登下校するのが常だった。

 最初にその話をしてきたのは、その子供のうちの一人、一番の仲良しだったエミちゃんだった。

「はぁちゃん、あたし獺が歌うの聞いちゃった」

「かわうそ?」

「うん。おばあちゃんがね、ありゃ獺の歌だって。きれいな歌だったよ」

 エミちゃんは小柄で真面目で、優しくて絵が上手で、そしてちょっと変わった子だった。その日も獺が歌うなどと言いながら、雛菊のように笑っていた。

 その表情は無垢で無邪気で、とても「嘘でしょ」などと言えるような顔ではなかった。

「でもさエミちゃん、獺なんてこの辺にいるの? 私、見たことないよ」

「私もないけど、おばあちゃんが小さい頃はいたんだって。だからきっと、今もこっそり住んでるんじゃないかって」

 ハルはつぶらな目をした生き物が、家の近くの小川に潜んでこっそり歌っている様を想像して、少し楽しくなった。

「どんな歌だったの?」

 そう尋ねると、エミちゃんは困ったように笑った。

「うーん、おばあちゃんがね、人間は歌っちゃ駄目っていうから、教えてあげられないの」

「駄目なの? なんで?」

「教えてもらわなかったからわかんない。でもすごくきれいな歌だったよ」

「ふーん。あたしも聞いてみたいな」

「じゃあ今度歌ってたら、はぁちゃんに教えたげる!」

 エミちゃんはそう言って指切りしてくれたが、その約束が果たされることはなかった。

 その半年ほど後、エミちゃんの年の離れたお兄さんが、村にやってきて間もない、よその家の若いお嫁さんに何か「けしからんこと」をはたらいたという。それで村にいられなくなった一家は、どこかに引っ越していったのだった。

 次の年に年賀状が1通だけ届いたが、それ以降は音信不通になってしまった。今もどこでどうしているのかわからない。


 エミちゃん一家がいなくなった年の夏休み、ある大学の教授とその生徒数人のグループが村を訪れた。

 ハルは初めて「フィールドワーク」という言葉を耳にした。何でも彼らは、あちこちの町や村を訪れては、そこのお年寄りに昔話を聞き、収集しているのだという。

 彼らは何日かに渡り、別れて村に滞在した。ハルの家にも、大学生が二人泊まりに来た。二人ともきれいなお姉さんで、ハルはとても嬉しかった。

 二人はテープレコーダーを持っていて、それでお年寄りの話を録音していた。

 何度も聞かされてすっかり飽きてしまったような昔話を、大学教授や垢抜けた(少なくとも当時のハルにはそう見えた)学生たちが、興味深そうに頷きながら聞き、熱心にメモまでとっていることについて、村の子供たちは少なからず衝撃を受けた。

 多くの年寄りは、学生たちの真剣な態度に喜んで、進んで彼らに昔話を聞かせた。

「この辺りじゃ、獺が歌うって言われててね……」

 客間で祖母がそんな話をしているのを、ハルは小耳に挟んだ。エミちゃんは本当のことを言っていたんだ、と思った。

 明日には学生たちが都会に戻るという日、ハルが客間の前を通りかかると、襖越しに小さな歌声が聞こえた。

 不思議な、聞いたことのない旋律だった。

 聞き入っていると、気配を察したのか中で立ち上がる音がして、襖が開けられた。滞在している二人の学生のうちの一人だった。

「ハルちゃん、今の聞こえちゃった?」

 きれいなお姉さんは、はにかむような顔をして言った。

「うん」

「そっかぁ」

「今の、お姉さんが歌ってたの?」

「うん。廊下じゃなんだから、ちょっとおいで」

 お姉さんはハルに向かって手招きをした。彼女が部屋に入ると、お姉さんは襖を閉めてこう言った。

「あのね、ハルちゃん、獺が歌うのって知ってる?」

「うん! エミちゃんに聞いたの」

「そう。あのね、私さっきその歌を聞いたの」

「えっ、今の獺の歌なの!? ほんと?」

 ハルが驚くと、お姉さんは嬉しそうに笑って彼女の頭を撫でた。

「うん。すごくきれいな歌だったから、どんな歌だったか、忘れないうちに録音しておこうと思ったの」

 お姉さんは小型のテープレコーダーを持って、軽く左右に振ってみせた。

「でも……」

 お姉さんは嬉しそうに微笑んでいたが、ハルはすぐに、エミちゃんの話を思い出した。

「ハルちゃん、どうしたの?」

「あのね、エミちゃんが、獺の歌は歌っちゃ駄目だって言ってたよ?」

「そうね。ハルちゃんのおばあさんもそう言ってたわ」

 知っていて歌ったのかと、ハルはまた驚いた。お姉さんはにっこり笑ったままで、何を考えているのかよくわからなかった。

「でもちょっとだけだから、きっと大丈夫よ。獺さんも許してくれるでしょ」

 そう言われてもハルは納得が行かない。何か悪いことが起こるのではないかという恐れが、黒雲のように胸の奥から湧き上がってくる感じがした。彼女の経験上、禁止されている事柄には、大抵それ相応の理由があるものだった。

 ハルの様子を見て、そんな気持ちを悟ったのだろうか、お姉さんは殊更明るい声を出した。

「大丈夫大丈夫! ほんとにちょっぴりだもの。それにお姉さん音痴だから、もしかすると獺さん、私が歌ったのが自分の歌だって気づかなかったかもよ?」

 そうおどけたような口調で言った。それでようやく、ハルも笑顔を返す気になれた。

「そうだね、ちょっとだけならきっと大丈夫だね」

 それに、もしも獺さんが怒ったところで、小さな可愛い動物に何ができるだろう。

 何も心配することなんかない。そう思った。


 お姉さんから獺の歌を聞いたその日は、雨が降る、夏にしては涼しい日だったことを、ハルは未だに覚えている。

 薄明かりが差し込む殺風景な六畳間で、見慣れないきれいな女性と秘密の話をして笑いあったことを、彼女は不思議なメロディーと共に思い出すことができる。その光景はまるで、楽しい夢の中であったことのように、現実離れして見えた。

 その日の夜、夕食の席にそのお姉さんは来なかった。家の中にその姿はなく、家族ともう一人のお姉さんとが、だんだん不安そうな口調になっていった。

 やがて隣近所に連絡が回り、村人総出でお姉さんを探すことになった。


 お姉さんが見つからないまま、夜が明けた。

 次の日も雨が降っていた。

 村はものものしい雰囲気に包まれていた。

 もう一人のお姉さんは泣きそうな顔をしていた。大人たちは集まって何やら話し合い、大学教授はしきりに村の大人たちに謝っていた。

 ハルは一人で、家の近くの小川に向かった。

 お姉さんがいなくなったことと、獺の歌とは関係があるのではないだろうか。

 彼女がいなくなる直前に、獺の歌の話を聞いたことが、ハルにそう思わせていた。

 獺を見たことはないけれど、もしいるとしたら川にいるのではないだろうか。

 聞く限り、大人たちは山の方を探すつもりのようだが、それではいつまで経ってもお姉さんを見つけられないんじゃないか。そう思うといてもたってもいられず、ハルは一人で川辺にやってきたのだった。

 子供がよく遊ぶ川である。元々深さはさほどでもなく、流れも穏やかだった。雨のために、少し水嵩が増しているような気はするものの、この川で大人が溺れたり、流されたりすることはあまりなさそうに思えた。

 それでもハルは川辺に立って、試しに呼びかけてみた。

「お姉さーん」

 返事はなかった。さわさわと川の流れる音が聞こえるだけだった。

 もう一度、今度はもう少しだけ大きな声で呼んでみた。やはり応えるものはなかった。

「いないよね……」

 そう呟いて、彼女は家に戻ろうとした。回れ右をしようとして回転した爪先の下で、小さな石が音を立てた。

 その時、何か声を聞いたような気がして、ハルは動きを止めた。

 細く、長く、震えるような声が聞こえていた。

 歌を歌っているようだった。

 聞き覚えのある旋律だった。昨日お姉さんがテープに吹き込んでいた歌と似ているような気がした。

 聞いているだけで悲しくなるような、しかし美しい響きだった。

 辺りを見渡すと、いつの間にか10メートルほど上流に人影が立っている。

 どんなに目を凝らしても、それは真っ黒な影のように見えるばかりだった。

 歌はそこから聞こえている。

 ハルは何もかも忘れて、しばらくそれに聞き惚れていた。

 黒い影は歌いながら川辺に近付くと、いきなり飛び込んだ。

「あっ!」

 思わず大きな声が出た。歌声は消えていた。

 子供でも背が立つような浅い川のはずなのに、飛び込んだ人影の姿はもう見えなくなっていた。まるで水に溶けて消えてしまったようだった。

 ハルは慌てて踵を返すと、今度こそ走って家に帰った。


 小川に行ったことを、ハルは誰にも言わなかった。

 お姉さんはその次の日に見つかった。

 あの小川の下流、他の川と合流して深く、広くなった辺りに、草に隠れるようにして浮いていたらしい。

 警察で遺体を解剖したら、お腹の中からぐしゃぐしゃになったテープが、丸々カセット1本分出てきた、らしい。

 らしい、らしいというのは、ハルが実際の現場を見たわけではなく、大人たちの話の端々から聞いただけだからだ。それでも彼女は(やっぱり)と思った。

(やっぱり獺の歌は歌っちゃいけないんだ)

 そう思って目を閉じると、ハルの頭の中にはあの哀切なメロディーが流れた。


 それから月日が経ち、ハルは進学のために村を出た。

 そのまま就職・結婚し、村へはもう数年に一度帰るだけになっている。いつの間にか彼女も、中高年と呼ばれる年頃になった。

 それでも、あの歌は今も覚えている。

 かつて日本全国に生息していたというニホンカワウソは、2012年、絶滅危惧種に指定された。

 エミちゃんは音信不通になって久しい。お姉さんはとっくに亡くなっている。

 ハルにもあの歌を誰かに伝えるすべはない。何しろ、歌ってはいけない歌なのだから。

 やがて自分が死んだ時、獺の歌を知っている者は、この世からまったくいなくなってしまうのかもしれない。

 自分がこの先老いていくことをふと思うとき、ハルはいつもあの歌を思い出す。

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