第52話 ぼくんち

 もう三十年近く前の夏、当時小学生の駒田さんが、父方の実家のある海沿いの小さな町に帰省していたときのこと。


 海岸で従兄と遊んでいると、「何やってんのー?」と言いながら、同い年くらいの男の子が近づいてきた。

 地元に住む従兄も知らない子だったが、岩場を探険したりして、しばらく一緒に遊んだ。

 よく晴れた暑い日の午後だったので、遊んでいるうちに駒田さんは喉が渇いてきた。と、それを見計らったかのように、男の子が「僕んちでおやつ食べようよ」と誘ってきた。

「いいの?」と聞くと、

「大丈夫だよ」

 と強い口調で言うので、従兄とお邪魔することにした。

 男の子について海岸沿いの道を歩いていくと、なかなか洒落た洋風の一軒家にたどり着いた。表札は文字が掠れてよく読めないが、何やら漢字の難しい、長い名字のように思われた。

「ただいまー」

「おじゃましまーす」

 家の中に声をかけると、奥から「はーい、いらっしゃい」という女性の声がした。優しそうな声だったので、駒田さんはほっとした。

 二人はテレビとガラステーブルのある洋間に通された。男の子は「ちょっと待ってて」と言って部屋を出ていき、少しして麦茶と心太の入ったガラスの器を、人数分持ってきた。

 男の子は「これ食べたらファミコンやろうよ」と提案してきた。当時、駒田さんの家にも従兄の家にもゲーム機はなく、二人は大喜びで賛成した。三人で交代しながら遊んでいると、ふいに男の子が「ちょっと待ってて!」と部屋を出ていった。

 トイレかな? などと思いつつ、駒田さんたちはゲームをしながら待っていた。しかししばらく経っても、男の子が戻ってこない。何となく不安になってきて、駒田さんは従兄と何度も顔を見合わせた。

「なぁ、今何時?」

 突然、思い出したように従兄が呟いた。部屋には時計がなかった。一旦ゲームを止めてテレビのチャンネルを回してみたが、どの局も砂嵐が流れていた。

 空は明るかったが、六時には帰らないと母親に叱られてしまう。感覚的にはもうかなりの時間、この家にいるような気がしていた。

「俺、ちょっと見てくるよ」

 そう言って駒田さんは部屋を出た。とはいえ、むやみに知らない家の中をうろうろするのは気が引ける。

(そうだ、台所に行けば、あの子のお母さんがいるかもしれない)

 そう見当をつけた。

 部屋を出て、廊下を右に進んだところに曇りガラスの入った引き戸があり、駒田さんは雰囲気から、この向こうが台所かなと考えた。

「すいませーん」

「はーい、いらっしゃい」

 この家に入ってきたときと同じ、女の人の声がした。

「今何時ですか?」

「はーい、いらっしゃい」

 駒田さんの問いに構わず、声はそう繰り返した。声色もしゃべり方も、さっきと少しも違わなかった。

 気がつくと、曇りガラスの向こうに人影が見えた。しかし、中から出てくる様子はない。

「あの……」

「はーい、いらっしゃい。はーい、いらっしゃい。はーい」

 声は壊れた機械のように繰り返している。駒田さんは、自分の手足が小刻みに震えているのに気がついた。そのまま凍りついたように、そこから動くことができない。

「おい!」

 突然肩を掴まれた。びっくりして後ろを振り返ると、従兄が立っていた。顔色が真っ青だ。

「帰るぞ!」

 そう怒鳴ると、従兄は駒田さんの腕を引っ張り、玄関に向かって走り出した。とても焦った様子で、手が汗で冷たく濡れている。

「はーい、いらっしゃい」

 背後から声と共に、ガタガタと音がした。台所にいた何かが引き戸を開けている! その考えに至った瞬間、恐怖が頭の中に充満した。駒田さんは思わず絶叫した。

 二人は靴も履かずにその家を飛び出した。

 そのまま脇目もふらずに海岸沿いの道を辿って家に帰ると、明るかったはずの空はいつの間にか暗く、夜の八時近くになっていた。


 帰宅が遅くなった上に、靴までなくしてきたので、駒田さんと従兄はそれぞれの母親から大目玉を食らった。

 その時尋ねられて初めて、男の子の名前がどうしても思い出せないことに気づいた。おまけに「あんな方にそんな家はない」とまで言われてしまった。

 駒田さんは従兄に、どうしてあんなに急いであの家を逃げ出したのかと尋ねたが、従兄は断固として口を割らず、現在に至るまでその理由は謎のままになっている。

 なお翌朝、あの家に忘れてきたはずの駒田さんの靴が、祖父母の家の前にきちんと揃えて置かれていた。

 彼の名前が書かれたそのスニーカーは、なぜか海水でぐっしょり濡れていた。

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