第3話 身体にも心にもやさしく

 雨は夜になってもしとしとと降り続き、煮物屋さんも客足が遠のくだろうとそれに合わせた量の仕込みをする。


 今日は日曜日なので、仕事帰りのお客さまが少ないのだ。雨の日にわざわざ食事のために家を出ようとする人はどうしても減ってしまう。


 それでも風が穏やかなのが救いである。傘さえさせば比較的歩きやすい。


 そうして開店した煮物屋さんのカウンタは、7割ほどがお客さまで埋まっている。


 青木あおきさん(18章)はウイスキーの水割りを傾けながら、美味しそうに料理を頬張る。


「あー今日も美味しいわ! いつもありがとう、扇木おうぎさん、ハヤさん」


「こちらこそ贔屓にしてくれてありがとうね、青木さん」


 青木さんが勤める小料理屋の定休日は日曜日で、月曜日もシフトが入っていないので、こうして日曜日にちょくちょく来てくれるのだ。


 今日のメインは豚肉と里芋の治部煮風。椎茸も入れて、彩りに塩茹でした絹さやを散らしている。


 豚肉には小麦粉をまぶして煮込んでいるので、膜ができることで旨味を逃さず、つるっとした歯ごたえが良い。煮汁にほのかなとろみが付くので、里芋や椎茸にもふくよかな煮汁がしっかりと絡むのだ。


 小鉢ひとつ目はわかめと青ねぎの酢味噌和えだ。生のわかめが買えたので、さっと茹でてしっかりと水気を搾った青ねぎと合わせて酢味噌で和えた。優しい酸味の酢味噌の中から、青ねぎのほのかな辛みとわかめの爽やかさが引き立つ一品だ。


 もうひとつはおじゃこと万願寺とうがらしのおかか炒めだ。種ごとぶつ切りにした万願寺とうがらしをごま油で炒め、おじゃこを加えたら日本酒などで調味をし、仕上げに削り節をたっぷりと混ぜ合わせた。


 万願寺とうがらしのざくっとした歯ごたえと、かりっとしたおじゃこの歯ごたえが面白く、おじゃこの塩気と削り節の旨味でちょうど良い味付けになっている。


 青木さんの横は、こちらも今日はお仕事がお休みだった葛原くずはらさんだ。葛原さんも「おいしいですよねぇ〜」と言いながら口をもりもりと動かしている。今日も大盛りだ。


 隣り合ったおふたりは「雨嫌ですよね〜」なんて世間話をされている。そんな時、青木さんの口からこんな質問が飛び出した。


「あの、私、低気圧で時々頭が痛くなるんです。頭痛薬を飲んでもあまり効かなくて。そしたらこの前ドラッグストアに行ったら気圧痛に効くお薬っていうのを見つけたんです。効くんでしょうか、あれ」


 それはまさに、今日佳鳴が思ったことだ。つい話に加わってしまう。


「青木さん、それ青いパッケージのお薬?」


「そうそう。あれ、扇木さんも気圧痛あるの?」


「うん。私は鎮痛剤が効いてくれるからどうにかなってるけど、効きにくいんだったら大変だねぇ」


「そうなのよ〜。仕事休むほどの痛みじゃなくなるのは助かるけど〜」


 青木さんはそう嘆息する。葛原さんは「うんうん」と笑顔で頷いている。


「青木さん、店長さん、気圧痛のメカニズムはご存知ですか〜?」


「あ、はい。確か気圧の影響で自律神経が乱れてしまうんですよね? 血行不良にもなるって見ました」


 佳鳴が言うと、葛原さんは「はい〜」と応える。


「気象病のひとつですね〜。自律神経と血流が乱れるのもそうなんですけど、どちらも水分バランスの乱れから来るものなんですね〜。人間の身体の大部分は水分ですからね〜。それが乱れたら不調にもなりますよね〜」


 佳鳴も青木さんも「ふんふん」と話に聞き入る。葛原さんの穏やかな話し方はすうっと耳に入りやすいのだ。つい心地よくなってしまう。


「うちの患者さんにも気圧痛でお悩みの方たくさんおられますよ〜。そういう患者さんには五苓散ごれいさんっていう漢方を処方しているんです〜」


「ごれいさん、ですか? 初めて聞きました」


 青木さんが言い、佳鳴も「はい」と頷く。佳鳴は今まで漢方薬のお世話になったことが無いので、余計に馴染みが無い。


「こう書くんですよ〜」


 葛原さんはスマートフォンを出し、メモアプリに五苓散の文字を打ってくれる。青木さん、佳鳴の順に見せてくれた。


「今だとスマホでもパソコンでも変換できますからね〜。この五苓散は、体内の水分代謝の乱れを整えてくれる漢方なんですよ〜。なので気圧痛が和らぐんですね〜。めまいやむくみ、吐き気や宿酔ふつかよいにも効くんですよ〜」


「凄いお薬なんですね、五苓散って」


 佳鳴が驚いて言うと、葛原さんは「そうなんです〜」と微笑む。


「漢方、東洋医学の概念では、体内で気と血と水の要素がうまく巡ることで健康が維持されてるとされているんですね〜。低気圧でそのひとつの水が偏ってしまって、気象病は起こるんですね〜。水分量が増えてしまうんですよ〜。リンパ液や汗などのことですね〜。五苓散はそれを正常に戻してくれるんですね〜」


「じゃあそのお薬を出してもらうには、病院に行かないといけないんですか?」


 青木さんが聞くと、葛原さんは「大丈夫ですよ〜」と笑顔のまま首を振る。


「漢方薬は薬局でも買えますよ〜。かかりつけのお医者がおられたら、相談して出してもらったら良いと思うんですけどね〜。お安く済みますからね〜。でも、さっきおっしゃってた青いパッケージのお薬」


「はい」


「あれも五苓散の成分がしっかり入っているので、気圧痛に効くんですね〜。もちろんそれぞれの身体に合う合わないはありますけど、鎮痛剤が効きにくいんだったら試してみたらどうでしょう〜」


「そうなんですね。今度試してみますね。ありがとうございます」


 青木さんは救われた様な笑顔になる。


「店長さんも、もし気圧痛が頻発するんでしたら、お薬変えてみても良いかも知れませんね〜。鎮痛剤は強いお薬なので、胃を荒らしてしまったりしますからね〜。胃薬は一緒に飲んでますか〜?」


「飲んで無いです。胃薬そのものを飲むこともそう無くて」


「鎮痛剤はできたら胃薬と一緒に飲んで欲しいです〜。で、何か食べた後にして欲しいですねぇ〜」


「はい。私も今度青いお薬試してみます。ありがとうございます」


 佳鳴はほっとして笑みを浮かべる。やはり葛原さんにお話を聞けて良かったと思う。


 今はインターネットで大概の情報を引き出すことができる。だが例え同じ内容であっても、お医者さまの口から直接聞けるのは大きい。安心感が違う。


 気圧痛は数人にひとりが悩んでいることだとも聞いたので、きっと前から相談される患者さんも多かったのだろう。


「頭痛がましになったら仕事も楽になりますもんね。助かります」


「体調良い方がご飯も美味しいですからね〜。今日は大丈夫でしたか〜?」


「はい。今日は大丈夫でした。なのでここにも来れたんです。本当に頭痛いとご飯を味わう余裕も無くて。食べる気すら起こらなくて。本当に健康って大事ですよね〜。扇木さんは大丈夫だった?」


「私は今日は鎮痛剤飲んだよ。だから大丈夫」


「それは大変だったわね。お互いにあのお薬効いたら良いわね」


「そうだね」


 青木さんの笑顔に、佳鳴も笑みで返した。




 数週間後、また朝から雨の日がやって来た。そして嫌な頭痛もじわじわと。


「よし。これを試してみよう」


 佳鳴は葛原さんからお話を聞いた翌日、散歩がてらドラッグストアで気圧痛のお薬を買って来ていた。煮物屋さんの定休日だったので、のんびりとした1日を過ごしたのである。雨もすっかり上がって、気持ちの良い日だった。


 薬は錠剤になっていた。それを規定数口に入れて、水で飲み下す。


 効いてくれるかな? と佳鳴は思うが、すぐに「効くはずだ」と思い直す。プラシーボ効果というものがある。疑っていては効くものも効かなくなる様な気がしたのだ。


 さて、効くまでじっとしている時間は無い。佳鳴は家事をすべく洗面所に向かった。




 そして家事を終えるころには、佳鳴の頭痛はすっかりとなりを潜めていた。良かったと佳鳴は心底ほっとする。


 次に葛原さんが来られたら、あらためてお礼を言おう。身体の負担が少ないお薬で気圧痛が治まるのなら、その方が良いに決まっている。葛原さんの丁寧なお話が無ければ、佳鳴はきっと今でも鎮痛剤に頼っていた。


 鎮痛剤が悪いわけでは無い。だが胃への影響が大きいと聞けば、やはり飲まないに越したことは無いのだろう。


 葛原さんへのお礼は何が良いだろうか。お酒は瓶ビール1本と決めておられる葛原さんだから、その一部でビアカクテルなどを作らせていただけるだろうか。ジンジャーエールかコーラかサイダーか。それともお医者さまだったらトマトジュースが良いだろうか。


 青木さんはどうだろう。今日気圧痛が起こっているなら試してみただろうか。効いてくれていると良いのだが。


「姉ちゃん、昼飯ー」


「はーい。ありがとう」


 佳鳴は千隼ちはやが作ってくれた海鮮塩焼きそばを食べながらしみじみ思う。美味しさというものは、健康から生み出されるものなのだなと。


 お客さまにもお元気にお酒とお料理を楽しんでいただきたい。


 佳鳴は気圧痛のお薬を1シート、お客さま用の薬箱にそっと忍ばせた。

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