第3話 あなたのために

 千隼ちはやは柔らかく微笑んで、ゆっくりと口を開いた。


克己かつみくんは、お姉さんが大好きなんだね」


 すると克己くんはにかっと歯を見せる。


「うん! お姉ちゃんはおれのためになんでもしてくれるからね。怒らないし」


「なんでもしてくれて怒らないから好きなの?」


 千隼が穏やかに聞くと、克己くんは「え?」ときょとんと首をかしげる。


「そうだよ。でも彼氏ができたり結婚したりしたら、お姉ちゃん取られちゃうだろ。そんなのだめだし」


「お姉さんが結婚してもお祝いできない?」


 すると克己くんは「ん〜」と唸る。子どもの克己くんなりに考えている様だ。


「おれ以外にお姉ちゃんとママを幸せにできるやつなんていないしな〜」


 本気なのか冗談なのか判らない様なせりふだが、恐らく克己くんは真剣だ。ただただ純粋に梅田うめださんとお母さまが好きで、そう思っているだけなのだ。


「でもね、それを決めるのは克己くんじゃ無いんだよ」


 千隼は優しく、だがきっぱりと言った。


 克己くんはショックを受けた様に「え……」と声を漏らす。千隼は微笑を崩さない。


「お母さんはまず、お父さんと幸せになろうとしたんだよ。そして生まれたのがお姉さんと克己くんだね。克己くんの存在は確かにお母さんの幸せなはずだけど、幸せの種類が違うんだ」


「どういうこと……?」


 克己くんは半ば呆然としている。


「お母さんにとってはお父さんもお姉さんも克己くんも、誰ひとり欠けても幸せじゃ無いんだ。でもね、梅田さんと克己くんは、お母さんがお父さんともっと幸せになろうとしている過程なんだよ。克己くんはいるだけでお母さんを幸せにできる。でもその前にお父さんと幸せになれたから、お姉さんと克己くんが生まれたんだ。それは分かる?」


 克己くんは目を白黒させながら千隼の話を聞いている。「えっと、えっと」と焦りながら話を理解しようとしていた。


「ママを幸せにするのはお父さんってこと?」


「ちょっと違うかな。克己くんもお母さんを幸せにしているんだよ。でもお母さんとお父さんは夫婦なんだ。お父さんは克己くんとは違う思いと方法で、お母さんを幸せにしているんだよ。だからお母さんを取ろうとしているんじゃ無いんだよ。お母さんは克己くんと同じぐらい、お父さんと一緒にいたいんだよ。それは分かってあげてね」


「そうなの?」


「そうだと思うよ。夫婦は一緒に幸せになろうってするんだよ。梅田さん、お姉さんにも将来そういう人が出て来るかも知れない。その時に克己くんがお祝いしてあげたら、お姉さん凄く嬉しいと思うなぁ」


 克己くんが不安げに梅田さんを見る。梅田さんはおろおろしながら千隼と克己くんの会話を聞いていたが、克己くんに「うんうん」と言う様に何度も頷いた。


「お姉さんにそういう相手ができるまで、克己くんが守ってあげるのは良いと思うな。でもね、だからこそ」


 それまで浮かんでいた千隼の笑みがすっと消え失せる。


「克己くんは甘やかされてちゃ駄目だと思うよ」


 すると克己くんは少しひるんだ様にびくりと肩を震わす。千隼は怒っているわけでは無い。だが克己くんは叱られ慣れていないのだろう。こんなわずかな変化でもおびえてしまう。


 梅田さんとご両親も、克己くんが悪いことをすれば注意ぐらいはするだろう。だが先ほどから梅田さんが克己くんを叱っているところを見ていても、その口調は柔らかで、怒鳴るようなことはこれまで無かったのだろう。


 もちろん怒鳴って叱ることはあまり良く無い。だが言うことを聞かない、改めない場合、その時々で多少強く言うことは必要になって来ると思うのだ。


 多少のわがままも、子どもだからこそ許される部分もあるだろう。だがそのまま大人になってしまえばただのろくでなしだ。それは本人にとって、特に周りにとっては不愉快の種だ。


「お姉さんやお母さんを守りたい、幸せにしたいと思ってるんだったら、ちゃんと言うことを聞かなきゃ駄目だし、わがままも良いことじゃ無いと思うよ。甘やかされてそのまま大人になってしまうのはあまり良く無いことだよ。自分が駄目な人になるし、周りもしんどいと思うからね。それに家の中では通じるわがままは、外では通用しない。今はまだ子どもだから周りが許してくれているだけなんだよ」


「……お、おれ、わがまま言ったことないよ。だってママもお姉ちゃんも怒らないもん」


 克己くんはおずおずとそんなことを言う。千隼に苦手意識を持ってしまったかも知れない。


 叱ることは嫌われる覚悟がいる。千隼はただ淡々と話をしているだけなのだが、そんなことすらも克己くんはされていなかったのだろう。


「それはね、お姉さんとお母さんが克己くんを甘やかしているからだよ」


 そうはっきり言うと、克己くんの顔が不安に揺れる。横にいる梅田さんにすがる様に視線を向けると、困った様に小さく笑う梅田さんは克己くんの頭をそっと撫でた。


「ごめんね克己。お母さんもお姉ちゃんもすっかり克己を甘やかしちゃったね。良く無いって解ってても強く言えなくて。本当はお父さんとお母さんと私がちゃんと言わなきゃいけなかったんだよね。私たちは家族だから許せることでも、他人にとってはそうじゃ無いんだよね。確かに今はまだ子どもだから、済ませてもらっているだけなんだよね」


 梅田さんはきゅっと唇を引き結ぶと、顔を上げる。


「ハヤさんに言ってもらって、私も、私たちも悪かったんだなって思い知らされました。注意とかしているつもりでも、それが克己に届かなかったら意味が無いですよね。私ももっと克己に厳しくしなきゃ」


「程度はあるかと思いますけどね。克己くんはやんちゃの様ですから、良いことは良い、悪いことは悪いって少しぐらいは強めに言わないと、聞いてくれない様な気がします」


「はい。言うことは確かにあまり聞いてくれなくて。謝るのは謝るんですけど、ただ言葉にしているだけで、反省とか、本当に悪いって思っていないなっていつも思います」


「大きくなるにつれていろいろなものに触れて、考え方とか人間性も変わって来るとは思います。でも根本は子どもの時の教育とか躾に現れてくるものだと思います。将来どんな人間になるのかが大きく関わってくるものだと思うんです。そこをきちんとしてあげるのが家族の役目じゃ無いかなって僕は思います」


「ええ、ええ。本当に、本当にそうだと思います」


 梅田さんは何度も何度も首を小さく縦に振る。克己くんは横で呆然を通り越して、少し不機嫌そうに唇を尖らせていた。梅田さんはそんな克己くんに向き直る。


「克己、お姉ちゃん、これから克己にもっと厳しくする。それでもしかしたら克己に嫌われちゃうかも知れない。克己が不機嫌になるかも知れない。でもね、全部克己のためなんだよ。このままだと克己が駄目な大人になっちゃう。そうだよね、もう小学生なのに、家の中でもわがままばかりじゃ駄目なんだよ」


 そう言い聞かせる様に梅田さんは言う。しかし克己くんはぶすくれたままだ。


「おれわがままじゃ無いもん。怒るお姉ちゃんはいや。怖いのきらい」


「克己、それがわがままって言うんだよ。怖いのは誰でも嫌いだよ。でも悪いことは悪いって言わなきゃ駄目なんだよ」


「おれ悪くないもん」


 克己くんはすっかりと機嫌を損ねてぷぅと膨れてしまう。すると。


「克己!」


 梅田さんが声を荒げた。克己くんは驚いて目を丸くする。そんな言われ方をするのは多分初めてのことだろう。


 梅田さんは辛そうに顔を歪めてしまう。慣れていないのだろう。もともと強く言うのが苦手で、だから克己くんにも厳しくできなかったのだろう。


 梅田さんはそっと克己くんの両手を取った。


「悪いことは悪いって素直に受け入れないのはいけないことだよ。そうして機嫌を悪くするのもいけないことなの。このままじゃ克己は良い大人になれない。それは私たちが悪かったの。私、嫌われても良い。克己がちゃんと大きくなれる様に、頑張って厳しくする。悪いことは悪いって言う。だから克己、初めは嫌かも知れないけど、自分のためにちゃんと聞いて。お姉ちゃんも間違わない様に頑張るから」


 克己くんは普段とは違うだろう梅田さんに驚いた様子を見せつつ、だが言葉がちゃんと心に届いたのか、素直に「うん」と呟く様に言った。


 梅田さんはほっとした様に口元を綻ばせる。そして克己くんをぎゅっと抱きしめて、小さな背中をぽんぽんと叩く。


 克己くんは機嫌を直した様で、梅田さんの胸の中で「へへ」と笑みを浮かべた。

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