19章 受け継がれるもの

第1話 髪を綺麗に整えて

 多くの美容院や理容室の定休日は月曜日である。その理由は遡れば第二次世界大戦時の休電日なるものに由来されるそうだが、細かいことは佳鳴も千隼も知らない。しかしその理由も諸説あり、これはその中のひとつらしい。


 煮物屋さんの周りにも多くの美容院などが軒を連ね、そのほとんどが月曜定休だ。そして煮物屋さんも月曜定休である。


 しかし煮物屋さん兼住居から歩いてそう遠く無いところに、火曜日が定休の理容室がある。表ではサインポールが回転している由緒正しきと言ったおもむきの理容室だ。


 今店を切り盛りしているおばちゃん店長さんが2代目。初代は元店長、大店長さんと呼ばれる、今の店長さんの母親である。


 千隼ちはやはケープを着けられ理容椅子におとなしく掛けている。しょきしょきというはさみを使う音とともに切られた黒髪がはらはらと落ちてくる。それは時折ケープに引っ掛かり、床にも毛溜まりができている。


 千隼は何せ飲食店の店頭に立っている。清潔感は大事だ。丸刈りやスポーツ刈りほどでは無いが常に短めに切り揃えていた。


 今千隼の髪を整えてくれているのは店長さんの娘さんだ。


 店名はベタにバーバー冨樫とがし。冨樫さんが経営する理容室なのである。


 はさみの音が止まり、次にドライヤーだ。カットの前にくせ直しのために洗髪するので、濡れた髪にタオルを巻かれた状態で顔りをされ、次に髪を切られることになる。


 娘さんの指先で髪がほぐされながらドライヤーの温かな風が当てられる。数分後それが止まるとまずは手ぐしで整えられ、次にブラシが入れられる。そして気になった部分の手直しをして。


「はい、ハヤさん。どうですか?」


 娘さんは千隼の背後で二面鏡を広げ、後ろのスタイルを確認させてくれる。理容室なのだが娘さんは美容師免許も持っていて、千隼の年齢や好みに合わせたスタイルに整えてくれる。きっちりと切り揃えられた襟足えりあしに、少しラフになった短い後ろ髪がふんわりと乗っていた。


 正面の大きな鏡に映るスタイルもすっきりとした、だが千隼の柔らかな髪質に合わせて優しげに整えてくれていた。


「うん、大丈夫です。ありがとうございます」


 千隼が言うと、娘さんは「はい。ありがとうございます」と笑顔になった。


「顔もすっきりしました。家だとここまで綺麗に顔剃りできないですからね」


「そうですね。剃刀かみそり危ないですからねぇ」


「私も月に1度の顔剃り助かってます〜」


 千隼の横で佳鳴かなるが言う。ふたり並んでヘアカットなのである。佳鳴の髪を切っているのは店長さんだ。


 佳鳴はショートボブなので、こちらも小まめな手入れが必要なのである。レイヤーも入れてかなり軽くしてもらっている。


 店長さんも理美容両方の免許を持っている。以前は店に合わせて理容だけだったのだが、最近は両方を持っている技術者も多く、店長さんも時代にならって免許を取得したのだ。


 大店長さんから付き合いのあるお年寄りもこの理容室を多く利用するが、やはり若い昨今のセンスも必要である。これからもこの理容室を維持していく上でそれは必要な技術だった。


「はい、佳鳴ちゃんお待ちどう。こちらでどうだい?」


 店長さんも佳鳴の後ろで二面鏡を使う。襟足は千隼に負けず劣らず短く揃えているが、女性らしくふわりとした軽い装いのショートボブである。横は耳が隠れるぐらいの長さで揺れている。


「はい、大丈夫です。ありがとうございます」


「はいよ」


 店長さんは満足げに頷く。するとレジに陣取っている大店長さんが「佳鳴ちゃん」とのんびりと声を掛けてくる。


「前は長かったよねぇ。もう伸ばさないのかえ?」


 佳鳴は以前は背中の半分ぐらいの長さがあったのだ。それをある日ばっさりと切って今のヘアスタイルになった。


 佳鳴と千隼が煮物屋さんを始めた時には、このバーバー冨樫はすでに火曜定休になっていた。周辺に美容院が乱立し、何か差別化をと考えて定休日を変えたのだ。


 一時期美容院が席巻して理容室の経営はかなり危なかった。どうしても理容室は男性、特に年かさの行った人が利用するものと言う印象があり、女性はもちろん若い男性もほとんどが美容院に流れてしまったのだ。


 このバーバー冨樫は地元のお客さまに支えられてはいたが、決して安泰あんたいだったわけでは無い。生き残るために何かしらの対策が必要だったのだ。


 その変更は煮物屋さんを月曜定休にした佳鳴と千隼には大変ありがたかった。それまで近くの美容院に行きつけていたのだが、そこの定休日は月曜。利用することが難しくなったのだ。


 そしてこのバーバー冨樫は家を出る前の父親の行きつけだったこともあり、ふたりは「じゃあ行ってみようか」となったのである。


 佳鳴が長かった髪を切って今のスタイルにしてもらったのはこのバーバー冨樫だ。


 とある煮物屋さんの定休日、髪を切りに行こうとバーバー冨樫のドアを開いた時には、いつもの様に前髪を整えてもらい、後ろは軽くいてもらって毛先を揃えてもらおうと思っていた。


 他のお客さまがいて少し待つことになったので、佳鳴は広めに取られた待ち合いのテーブルに置かれていたヘアカタログを手に取った。この時千隼はおらず佳鳴ひとりだった。


 適当にめくってみると、そこがヘアモデルになったという女優さんのインタビューページだったのだ。そこにはなんとも軽やかなヘアスタイルの女優さんが爽やかな笑顔を浮かべていた。


 佳鳴は幼いころから髪がそれなりに長く、ったりアップにしたりしていろいろとアレンジして楽しんでいた。特に自慢の髪では無かったが、髪をいじるのは楽しかった。小さなころにはリボンなども付けていた。


 なのでもう数十年もの長さでヘアスタイルに大きな変化は無かった。パーマをあてたことも無い。


 その女優さんも佳鳴の記憶では数年ロングヘアを保っていた。そのページでも切る前の写真が掲載されている。それも確かに綺麗だったが、軽いボブカットに変身した女優さんは可愛いという形容詞が似合う様に笑っていた。


 佳鳴はその笑顔をじっと見る。女優さんなのだし綺麗なのは不思議では無い。だがすっきりとした様なその表情は佳鳴の心を掴んだ。


 その時髪を切り終えたお客さまが帰り、片付けを終えた店長さんが「はい、佳鳴ちゃんお待たせ」と声を掛けてくれた。佳鳴は「あ、はい」と立ち上がる。


 その時、ついヘアカタログを持ったままになってしまった。店長さんはそれを見て「おや、その女優さん好きなのかい?」と聞いて来る。


「そう言うわけでは無いんですけども、綺麗だなって。短いのも良いかなって」


 すると店長さんは「あはは」と笑う。その店長さんも思い切ったショートカットだった。


「佳鳴ちゃんに似合うと思うよ。それに短いの楽だしね。洗うのも乾かすのも」


「やっぱりそうですかぁ。うーん、思い切っちゃおうかなぁ」


「そのカタログ、いろいろ載ってるから見てみて、気に入るスタイルがあったら試してみたら良いと思うよ。何、髪はまたすぐに伸びるからさ」


 そうして佳鳴は今のショートボブになったのだ。そうしたら。


「洗うのも乾かすのも楽なので、しばらく伸ばすつもりは無いですよ」


 その日の風呂でその扱いやすさに驚いたものだった。洗うのはもちろんなのだが、特に乾かす時間の早さにびっくりした。次の日に備えて少しでも早く寝たい佳鳴にとってそれは本当に助かることだった。


「そうなのかえ。綺麗だったのにもったいないねぇ」


 そう少し寂しそうに言う大店長さんは長く伸ばした髪をアップにしていた。黒々としているのは染めているからだろう。


「まぁまぁ母さん、佳鳴ちゃんはショートボブも似合ってるんだからさ」


「まぁそうだねぇ。私は古い人間だからかねぇ、どうしても女性の髪は長い方がって思っちゃうのかねぇ。お前はお前でまるで男性みたいに短くしちゃって」


「これ本当に楽なんだよ。お母さんも一度ショートにしたら癖になるよ」


「私はこれで良いんだよ」


 そんな親子の他愛のない微笑ましい会話に佳鳴は「ふふ」と口元を綻ばせた。


 佳鳴も千隼もセットを終え、揃って理容椅子から立ち上がる。こうして髪を整えてもらうのは本当に気持ちが良い。つい笑みも浮かんでしまう。


 会計はそれぞれでする。佳鳴と千隼は財布を出して大店長さんに代金を支払う。


「はい、ありがとうねぇ。お次はまた来月かねぇ?」


「はい。また来月に来ますね」


「ふたりともまめに来てくれるよねぇ。おしゃれさんなのかえ?」


「と言うよりは、飲食店をやっているので、いつでもきちんと清潔にって思ってます」


「ああ、そうだねぇ。ぼさぼさの不潔な頭の人が作る料理はねぇ、美味しくてもちょっとねぇ。ちゃんと洗って整えて綺麗にしないとねぇ」


 大店長さんは言いながら、たった今佳鳴と千隼が出した代金を大事そうにレジスタに入れた。


「店長さん、ハヤさん、また今度お邪魔させてもらいますね!」


 娘さんが床を自由ほうきで履きながら言う。佳鳴は「はい、お待ちしておりますね」と笑顔で返し、千隼もにっこりと頷く。娘さんは煮物屋さんの常連さんなのである。


 すると店長さんが呆れた様に「まったくもう」と息を吐く。


「晩ご飯だったらうちで食べたら良いのに」


「煮物屋さんで過ごす時間が凄く良い気分転換になるの」


「だったら母さんと私も連れて行ってくれたら良いのに」


「そうだねぇ。私も1度行ってみたいねぇ」


 大店長さんも同意すると。


「一緒だったら気分転換にならないでしょー」


 娘さんは手を動かしながら、小さく頬を膨らませた。


「まったくもう、親を何だと思ってるんだか」


 店長さんはそう言うが本気て咎めているわけでは無い。また呆れた様に笑った。

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