第4話 新しい引き出し

 次に早乙女さおとめさんが来られたのは数日後のことだった。失恋の痛手からは吹っ切れた様な明るい表情である。


「いつまでも落ち込んでられませんからね〜。えっと、ウォッカのソーダ割りください」


 早乙女さんはおしぼりで手を拭きがなら、笑顔で注文する。


「あら、珍しいですね」


「この前飲ませてもらった時に結構美味しいなって。今日は元気なので薄いのじゃ無くてちゃんと作ってもらったの飲みたいです」


「了解しました。お待ちくださいませ」


 佳鳴かなるがコリンズグラスにウォッカの炭酸割りを作ってお渡しする。「ありがとうございます」と受け取った早乙女さんはさっそくグラスを傾けて「美味しい〜。やっぱりこれぐらいウォッカが効いてるの良い〜」と笑みをこぼした。


「煮物の卵は固茹でと半熟がお選びいただけますけど、どちらにされますか?」


「半熟で!」


 千隼ちはやの問い掛けに早乙女さんは元気に応えた。


 今日のメインは豚肉と大根と卵の煮物である。豚肉はごろりとブロック肉を使い、彩りとして仕上げににらを入れてさっと火を通した。


 卵は使う分全部を7分ほどの半熟に茹でて、固茹での分はほかの素材と煮込み、半熟分は煮汁を分けて漬けておいた。


 小鉢のひとつは枝豆とひら天とこんにゃくの卯の花。ひら天とこんにゃくは枝豆に合わせて角切りにして、食べ応えのある様に仕上げてある。


 小鉢もうひとつは白菜としめじの和辛子わがらし和えだ。しめじはオイルを落とした湯で茹でて粗熱を取り、生のまま塩揉みして洗って水分を搾った白菜と合わせて、和辛子ベースの和え衣で和えた。


「はい、お料理お待たせしました」


「ありがとうございます。卵嬉しい〜。卵ってテンション上がりますよねぇ」


「ふふ。ハンバーグの上の目玉焼きとか良いですよねぇ」


「それです! 贅沢品じゃ無いのに贅沢してる気分になるんですよねぇ〜」


 早乙女さんはさっそく卵を割って「わぁ」と声を上げた。


「良い具合の半熟ですねぇ」


 艶やかな黄身はしっかりと白身の中にとどまっている。流れ出てしまわない茹で加減にしてあるのだ。


 早乙女さんは半分に割った卵を頬張る。表面だけ温まっているそれを早乙女さんはじっくりと噛み締める。


「んん〜、しっとりとした黄身が美味しいです〜。そう言えばコンビニで買う茹で卵も半熟で美味しいんですよねぇ」


「塩味もしっかりしていて美味しいですよね」


「ね〜。こっちの黄色い和え衣は何ですか?」


 早乙女さんは和辛子和えの器を引き寄せる。


「和辛子をベースにしたものです。辛子和えですね」


「あ、それはお酒に合いそうですね」


 早乙女さんは和辛子和えを箸で摘んで口に運ぶ。そして「あ〜」と強く目を閉じる。


「辛子の刺激がありますけど程よくて、やっぱりお酒に合いますねぇ」


「ありがとうございます」


 早乙女さんはまたウォッカの炭酸割りを煽る。そしてふと口を閉じると箸とグラスを置いて恥ずかしそうに目を伏せる。そして「あの」と言いづらそうに口を開いた。


「店長さんハヤさん、先日はお恥ずかしいところをお見せしちゃってすいませんでした」


 早乙女さんはほぼ一息で言って頭を下げた。佳鳴も千隼も何のことだかすぐに思い至ったので、佳鳴は「いいえぇ」と穏やかに返事をする。


「僕なんかはお話もろくにお伺いしてないですし」


 千隼が言うと早乙女さんは「いえいえ」と首を振る。


「空気を読んでくれて場を離れてくれたんでしょう? 私はハヤさんだったら気にしませんけど、そういうのも気遣いだなぁって」


「男の僕がいたら嫌かなと思ったんですけど」


 千隼が苦笑いすると、早乙女さんは笑顔で「いえいえ」と手を振る。


「本当に大丈夫でしたよ。ありがとうございました」


 千隼はほっとした様子で「いいえ、とんでも無いです」と応えた。


「少しだけ引きずっちゃったんです。でも私は根っから妄想小説家だなぁって思いましたよ」


 どういうことだろうか。佳鳴と千隼がかすかに首を傾げると、早乙女さんは「ふふ」と微笑む。


詩音しおんくん、あ、私が失恋しちゃった相手なんですけど、彼の様な健気系男子のキャラが掴めた気がしますよ。わんこ系とかも書けそうだなって」


「じゃあ作品の幅が広がったんですね」


「そうなんですよ。私は詩音くんを単純に良いなって思っていたので、その時はそんなこと考えて無かったんですけど、こうなって1歩引いた状態で見てみると、あ、ネタになるなって。本来は取材目的だったしょうくん、あ、3番人気のホストの接客で充分で、今書いているのはそれがネタなんですけど、良い副産物ができたなって」


 早乙女さんは言って、ほんお少し泣き笑いの様な表情になる。吹っ切れたとおっしゃっていたが、まだ完全に傷は癒えていないのかも知れない。だが早乙女さんは目を伏せながらも「ふふ」と笑みを浮かべた。


「だから大丈夫なんです。そうして昇華して行けるんだなって思います」


 早乙女さんはそう言うと、気合いを入れる様に両手でぱんぱんと頬を叩いた。


「転んでもただでは起きませんよ。もっと面白い、女の子の心に突き刺さる小説を書きます。がんばります」


 早乙女さんの目には力強い光が込められている。もう大丈夫だろう。


「じゃあ美味しいご飯をたっぷり食べてほどほどに飲んで、英気を養ってくださいね。新作楽しみにしています」


「はい!」


 早乙女さんはグラスに少しだけ残されていたウォッカの炭酸割りを飲み干し、「お代わりください!」と元気よくグラスを掲げた。




 店の床を掃きながら、佳鳴はぽつりと「早乙女さん抜け出せて良かったよ」と言う。


「ああ、ホストクラブか?」


 厨房を掃除しながらの千隼の反応に佳鳴は「うん」と応える。


「加藤さんもおられるし大丈夫だとは思っていたけど、下手すると大変なことになるから」


 佳鳴が息を吐くと、千隼は「なんかあったっけ?」と首を傾げる。


「大学の時の、友だちってほどじゃ無いけど知り合い? がね、ホストクラブにはまっちゃって、新卒で入社した会社辞めて水商売に行っちゃったらしい」


「あー」


 千隼は眉根を寄せる。


「水商売は大変なお仕事だと思うけどね、原因が原因だからね。ちょっと良いねって言えないよね」


「まぁな。けどいざとなれば姉ちゃんも止めたんじゃ無いか?」


「う〜ん」


 佳鳴は困った様にうなる。


「余計なお世話になっちゃうだろうからなぁ。難しいなぁ」


「そりゃあそうだけどさ」


「もしご相談いただいたらね、一生懸命考えるけどね」


「まぁそうだな。で、その知り合い? は今どうしてんだ」


「分からない。連絡の取りようも無いから。交換とかしてないしね」


「ふぅん。まぁ今は早乙女さんか。その知り合いとは元の経済力が違うかも知れないけど、歯止めが効かなくなったら大変なのは確かだからな」


「ね。だから今の段階で終わって良かったなって思って。取材目的で良いお店探したのも幸いしたと思う。早乙女さんにはこれからもお元気で小説を書いていただきたいもん」


「人間堅実が一番って?」


「そんなことは思わないけどね。悪い事さえしなければ。でも地に足は付けないとね」


「ん? 話反れてないか?」


「あはは。まぁ良かったということで」


「そうだな」


 一度ホストクラブの甘い蜜を知ってしまった早乙女さんが、これから先はまらないとは限らない。だが今回の苦い思い出が一線を超える歯止めになればと切に思う。

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