第2話 おばちゃんのわがまま

 数日後、訪れた渡辺わたなべさんはまたにこにことご機嫌の様子だった。


「前に言っていたあのおばちゃんが毎週指名してくれるもんで、本当に助かってるんすよ。書き入れ時は土日なんすけど、おばちゃんは平日なんで被らないんすよね」


「平日はやっぱり少ないもんなんですか?」


「看護師さんとか平日が休みになる人もいるんで、平日にもあるにはあるっす。でもやっぱり暇な日が多いっすねぇ」


「あら、そういえば渡辺さんのお仕事ってレンタル彼氏さんだけなんですか?」


「いや、在宅でライターやってるっす。レンタル彼氏の仕事は不安定っすからね。指名が無かったら稼げないっすもん。ライターもそう売れてるわけじゃ無いっすけど、両方合わせたら充分普通の生活できるっすよ」


「そうだったんですね。ライターさんもされていたんですか。ではご多忙ですね」


「どっちもぼちぼちっすよ。ライターって言ってもそんな大きな書き物が入ってくるほど売れてないっすから。あ、シャンディガフお願いするっす」


「はい。お待ちくださいませ」


 少なくともこの煮物屋さんに来ていただけるほどの余裕はあるということなのだろう。良いことだ。佳鳴かなるはロンググラスにビールを注いだ。




「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ〜」


 その日、佳鳴と千隼ちはやが出迎えたのは中年の少しばかりふくよかな女性だった。服装からしても上品なご婦人だ。初めてのお客さまである。その後から入って来たのは困惑した様な表情の渡辺さんだった。


「あら渡辺さん、いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ」


「こ、こんばんは」


 渡辺さんがやや困った様に言うと、中年の女性は店内をぐるりと眺めて「まぁ〜」と楽しそうな声を上げた。


「ここがゆうちゃんのお気に入りのお店なのねぇ。落ち着くお店ねぇ〜」


「は、はいっす。あの加寿子かずこさん、まずはお席に」


「あら、そうねぇ」


 渡辺さんが空いていた席を引くと、女性はそこに掛ける。その横に渡辺さんも着いた。


「どうぞ」


 佳鳴がふたりにおしぼりを渡すと、女性は「ありがとう」と満足げに頷き、上品な手付きで手を拭いた。渡辺さんもさっさと手を拭く。


「渡辺さんのお連れさまは、このお店は初めてですよね?」


「そうよぉ。佑ちゃんの好きなお店に連れて行ってってお願いしたの。そしたらここに案内してくれてねぇ」


「そうだったんですか。渡辺さん、ありがとうございます」


「い、いや、俺も頼まれてびっくりして、ついここにお連れしちゃったんすよ」


「ふふ。嬉しいですねぇ。お客さま、ここのお店のご注文方法はお聞きになっていますか?」


「いいえぇ」


 佳鳴が説明をすると、女性は「あらまぁ、おもしろいわねぇ」と手を叩いた。


「じゃあお酒をお願いしようかしらねぇ。何にしようかしら。白ワインにしようかしら。こちらでは甘口なのかしら、それとも辛口?」


「飲みやすいすっきりとしたものをご用意しております。やや甘口でしょうか。銘柄をお選びいただけなくて申し訳ありません」


「いいえぇ、とんでもない。ではそれをいただくわね」


「かしこまりました。渡辺さんはどうされますか?」


「俺はいつものシャンディガフでよろしくっす」


「はい。お待ちくださいませ」


 千隼がワイングラスを出し、貯蔵庫から冷えた白ワインのボトルを取り出して静かに注ぐ。佳鳴はシャンディガフの準備だ。


「はい、お待たせいたしました」


 それぞれにドリンクをお出しし、それを受け取った渡辺さんと女性は「乾杯」と軽くグラスを重ねた。女性はにこにこと上機嫌で、渡辺さんはまた少し浮かない表情だ。


 ちびりとワイングラスを傾けた女性は、小さく苦笑を漏らした。


「佑ちゃん、困らせてしまってごめんなさいねぇ。ここまでしてもらうのはもしかしたら契約違反なのかも知れないわねぇ」


「それは、その」


 渡辺さんは言葉を詰まらせる。


「私も少し調子に乗ってしまったのかも知れないわねぇ。もうこんなことは最後にするから、またご指名受けてくれるかしら」


「それは、はいっす。俺でよかったら」


「ああ、良かったわぁ」


 女性はほっと表情を和らげた。


 会話の内容からすると、この女性が最近頻繁に渡辺さんを指名してくれる「おばちゃん」なのだろう。おばちゃんが少し渡辺さんにわがままを言った様だ。渡辺さんお気に入りのお店に連れて行って欲しい、と。


 適当にごまかしたりすることもできただろうし、別の行きつけのお店もあるだろうに、この煮物屋さんの様なスタイルの店にお連れくださったということは、渡辺さんも困っているのだろう。渡辺さんの表情からも伺える。


 しかしまずは料理を用意しなければ。佳鳴たちは手を動かす。


 今日のメインはえびと白菜と椎茸の旨煮だ。小麦粉をはたいたえびをさっと煮込んでいるので、煮汁に少しとろみが付いている。


 小鉢のひとつはれんこんの明太マヨネーズ和えだ。いちょう切りにしたれんこんをさっと茹でて、粗熱が取れたら水分を切って明太マヨネーズで和える。


 もうひとつはわかめとほうれん草のナムルである。生わかめと茹でたほうれん草を醤油や酢、ごま油などの調味液で和えた。


「はい、お料理お待たせしました」


 整えた料理をお出しすると、女性は「あらぁ」と目を輝かせた。


「こんな家庭料理を誰かに作ってもらうなんて、本当に久しぶりだわぁ〜。嬉しいわぁ。いただいても良いかしら」


「もちろんです。お口に合うと良いんですが」


「とても良い香りだわぁ。いただきますねぇ」


 女性は箸を取り、まずはナムルに手を伸ばした。上品に口に運んで咀嚼そしゃくすると、嬉しそうに「うふふ」と微笑んだ。


「とっても美味しいわ。心がほっとする味ねぇ。これナムルよね。焼肉屋さんなんかでいただくのはもっと味が濃いんだけど、こちらのは優しいのねぇ」


「お醤油を少なめにして、お酢を少し入れてさっぱりめにしています」


「そうなのね。なるほどねぇ。こちらの煮物も美味しそうだわぁ」


 女性は次にえびと白菜を重ねて口に入れる。そしてほっこりと顔を綻ばせた。


「こちらも優しい味ねぇ。でもしっかりと旨味があるわ。美味しいわねぇ」


「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけて嬉しいです」


「うふふ。佑ちゃんがご贔屓にするのが解るわぁ」


「旨いっしょ、ここ。雰囲気も良くて」


 女性の横で渡辺さんももりもりと料理を食べていた。そうしているうちに戸惑いも解けて来た様で笑顔が浮かんでいる。


「ええ。こうしてお店の方とお話できるのも嬉しいわねぇ。あら、申し遅れました。私、佐藤さとう加寿子と申します。佑ちゃん、渡辺くんのお仕事はご存知かしら?」


「はい。お伺いしてます」


「私ね、佑ちゃんのお客さんなの。いっつも佑ちゃんに楽しませてもらってるのよぉ」


「そうなんですか。私は煮物屋さん店長の扇木です。こちらは弟なんですよ」


「皆さんハヤさんと呼んでくださいます。よろしくお願いします」


「こちらこそよろしくお願いしますねぇ。ここはまた来たいお店ねぇ。佑ちゃんとの約束は関係無しにひとりでも来てみようかしら」


 ご結婚されていると聞いているのだが、旦那さんとでは無いのか。既婚でレンタル彼氏を依頼するのだから、何か事情があるのかも知れないが。


「ねぇ佑ちゃん、わがままついでにもうひとつ良いかしら」


「何すか? 俺で叶えられたら良いんすけど」


「難しいと思うわ。だってねぇ、佑ちゃんに私の専属になって欲しいんだもの」


 佐藤さんののんびりとした物言いのわがままに、渡辺さんは「は?」と目をむいた。

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