11章 コマ割りの中で
第1話 卵を温めるとき
金曜日、煮物屋さんの営業が始まって20時ごろ、またひとりの常連さんが訪れる。
「こんばんは〜」
そう言いながら入って来たのは、
「いらっしゃいませ。ご機嫌ですね」
なので
「ふふ、原稿が完成したんです!」
この片桐さんは漫画家志望なのである。会社に勤めながら毎日こつこつと漫画を書いては、数週間、数ヶ月を掛けてひとつの漫画を完成させているのだ。
「どうしても今日中に仕上げたくて有給取っちゃいました。明日
片桐さんは佳鳴が渡したおしぼりで手を拭きながら言った。
「見てもらう? そういうイベントみたいなのがあるんですか?」
「そうそう、イベントです。そこに漫画雑誌の編集者さんが来られて、見てくれるんですよ」
「それは凄いですね。そこで認められたらデビューですか?」
「あはは、そう上手くは行かないでしょうけど、まずは見て欲しいなって。プロの人から見て、私の漫画はどうなのかって。これでもプロになりたいって思ってるので、今の自分の力をちゃんと知っておきたいなって思ってるんです」
「それは大事なことですね。楽しみの様な、怖い様な、って、私が思うことじゃ無いですが」
佳鳴が言うと、片桐さんは「そうなんですよねぇ〜」と苦笑を浮かべる。
「少しだけ、少しだけは自信があるんです。とりあえず話を考えて漫画を完成させるだけの力はあるので。漫画家になりたいって言っている人の中には、あまり練習とかしなくて、だからちゃんと描けなくて、でも漫画家になりたいって気持ちだけが大きくなっちゃってる人もいるので」
「そうなんですね。だったらやっぱり片桐さんは凄いですね!」
「あ、注文遅くなってごめんなさい。お酒でお願いします。えっと、酎ハイのレモンで」
「はい。かしこまりました」
まずは酎ハイを作る。おお振りのグラスに氷を入れ、そこに麦焼酎を入れ、レモン果汁を垂らし、炭酸水を注いてステアする。
提供したそれを、片桐さんはさっそく傾ける。
「美味しい! 原稿上がりだから一段と美味しい! もう今日は何もしないから、ゆっくりお酒がいただけます。シャワーも浴びて来ちゃいました」
「それは
今日のメインは、鶏肉と
小鉢、まずは小松菜とえのきのごま炒め。ごま油で炒めた小松菜とえのきに、味醂と日本酒、醤油で調味をして、白すりごまをたっぷりとまぶしてある。
もう1品はきゅうりとわかめとかにかまの酢の物である。他の料理が甘めなので、酢は少し酸味を強めにした。
片桐さんはまず酢の物を口にし、「んん」と嬉しそうな声を上げた。
「さっぱりしていて良いですねぇ。こっちのごまのが甘くて、バランスが良いなぁ。煮物は相変わらず優しい味で嬉しいです。こういうのってどうやって考えるんですか?」
「仕入れの時に考えることが多いですねぇ。甘いとか辛いとか酸っぱいとか、そういうバランスは考える様にしていますけど。味に変化がある方が楽しんでいただけるかなとも思いますし」
「なるほどです。それは漫画にも通じるものがあるかもです。
「そうなんですね。あ、でもグルメ漫画とかちょっと読んでみたいかも。私たちには勉強にもなるでしょうし」
「そうですね。レシピが載ってる漫画もたくさんあるんですよ。なのでお料理が好きな人とかは楽しめると思います」
「そうなんですね。おすすめとかありますか?」
「そうですねぇ〜」
片桐さんは楽しそうに小首を傾げた。
翌日になり、佳鳴たちはまた仕入れの為に家を出る。違うのは、いつもより早い時間で、昼食はまだである。
公設市場のある隣駅を超え、さらに車を走らせる。道は大きな道路に合流し、やがて大きな建物が見えてくる。
郊外型のショッピングセンターだった。立体駐車場に車を止め、佳鳴たちはまっすぐに目的の店へと向かう。
「えっと、片桐さんがおっしゃってたのは、あ、これだね」
大きな棚にずらりと並べられた漫画本。その棚さしの中から1冊を抜き出した。それは昨夜、片桐さんに教えてもらったグルメ漫画の1巻である。
居酒屋を舞台にした、店員と客の触れ合いが描かれた漫画とのことで、居酒屋では無いが、酒なども提供する飲食店を経営する佳鳴と千隼は、ぜひ読んでみたいと思ったのだ。
また、片桐さんとの話のねたにもなるので一石二鳥だ。片桐さんは今からでも買いやすい様にと、続刊はあるが現在3巻まで出ているものをおすすめしてくれた。
「今夜読んでみようっと」
「その後俺も貸してくれよ。気に入ったら2巻は俺が買うからさ」
「良いよ〜。交互に買ってって、リビングに置いていつでも読める様にしておこうか」
「そうだな」
佳鳴はシュリンクされた1巻を手に、レジへと向かった。
翌朝、起き出してキッチンに顔を出した佳鳴は、「ふわぁ」と大きなあくびをした。
「姉ちゃん、夜ふかししたか」
「まぁねぇ〜。でも少しだよ。漫画1冊読み込むぐらい」
まだ寝惚けたぼんやりとした声で言うと、千隼からすかさず突っ込みが入る。
「読み込んだのかよ」
「おもしろかったよ。優しいお話だったぁ。うちもお客さんがそんな気持ちになってくださってたら良いんだけどなぁ」
「なるほどな。俺も読んで勉強しよ。明日は店も休みだから、少しぐらい夜ふかししても平気だし。あ、ビールでも飲みながら読むかな」
「それいいなぁ。よし、今日3巻まで買って、私も飲みながら読もうっと」
「その前に家事だな。店もあるし」
「分かってるって」
佳鳴は笑い、またふわぁとおおきなあくびをした。
定休日の月曜日が過ぎ、火曜日になりまた煮物屋さんの営業が始まる。
「こんばんは!」
19時を過ぎた頃、元気にそう言って入って来たのは片桐さんだ。またにこにこと笑顔を浮かべている。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
片桐さんは空いていた奥の方の席に掛け、千隼から受け取ったおしぼりで手を拭いた。
「お酒でお願いします。今日はええっと、カルピス酎ハイで」
「はい。お待ちください」
まずはカルピス酎ハイを作って提供し、続けて料理を整える。
今日のメインはぶり大根である。絹さやで彩りを添えている。小鉢はしらたきと三つ葉の酢味噌和えと、厚揚げときのこの煮浸しだ。
片桐さんはさっそく箸を手にし、料理に
「片桐さん、先日教えていただいた漫画読みました。おもしろかったですよ」
佳鳴が言うと、片桐さんはぱあっと顔を輝かせる。
「嬉しいです! 私もいつも続きが楽しみで。連載分を電書で読んでるんですけど、コミックが出たら買っちゃいます。こっちも電書でなんですけど」
「うちは紙の本ですねぇ、ものにもよりますけど。あの漫画は千隼と共用ですから」
「ああ、電書だと共用は難しいですもんね。私、あの漫画読んだ時にこの煮物屋さんのことを思い出したんですよ。ここは正確には居酒屋とは違うんですけど、優しいお店っていうのが共通してるなぁって」
「あらぁ」
佳鳴と千隼にとって、それはとても嬉しい言葉だった。
「そうおっしゃっていただけて嬉しいです。もっと精進しますね」
「今で充分ですって。あ、もののついでに聞いてください。この前、日曜日。描いた漫画を雑誌の編集さんに見てもらったんですけど」
「あ、先週おっしゃっていたのですね。どうだったのかお伺いしても?」
「はい。ええと、良いところ悪いところ、半々と言った感じでした〜」
それは決して良い結果では無いだろうに、片桐さんは楽しそうにからからと笑った。
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