第2話 久しぶりのあの人は

 営業が始まって数時間、お陰さまで料理は完売となった。まだ店内ではお客さまがくつろいているが、千隼ちはやはお品書きを回収し、営業中と書かれたプレートを支度中にするために表に出る。


 プレートを返し、ドアからお品書きのホワイトボードを外した時、駅の方からふらふらと歩いて来る人影があった。


 その気配に千隼がそちらを見ると、それは春日かすがさんだった。


「春日さん。こんばんは、お久し振りですね」


 千隼が明るくそう声を掛けると、春日さんは力の無い笑みを浮かべる。


「ああ、ハヤさん。こんばんは。本当にすっかりとご無沙汰しちゃって」


 千隼の前で春日さんの足が止まる。店内から漏れ出て来る光を頼りにあらためて春日さんを見ると、その頬はすっかりとけてしまっていて、色艶も良く無く、かなり疲れが現れていた。


 春日さんはもともとふっくらとされていた方だったので、その変貌へんぼうに千隼は驚きを隠せない。


「どうされたんですか、春日さん。かなりお疲れみたいですけど」


「ええまぁ、ここしばらくかなりの激務でね」


 春日さんは言って苦笑する。


「いろいろあって勤務形態が変わってしまって、毎日帰宅は日をまたいでしまうんだ。今日はこれでも少し早いぐらいでね。食欲もすっかり落ちてしまって、ろくな食事も出来ていなくて。でも帰って来る時にはもう煮物屋さんは閉まっているから」


 春日さんはうなだれてしまう。


「ああ、またここのポテトサラダが食べたいなぁ」


 そう言って春日さんははぁと溜め息を吐いた。


「あ、あの、春日さん、少し、少しだけ待っていてもらえますか?」


「うん?」


 千隼は言い置くと、ホワイトボードを手に慌てて店内に戻る。厨房に入って隅にボードを放り投げる様に置くと、冷蔵庫から小鉢の料理を入れたタッパを出し、その中身を詰められるだけ、小鉢用の持ち帰り用使い捨て容器に詰める。


 途中で佳鳴かなるが首を傾げて「どうしたの?」と声を掛けて来るが、応える時間が惜しい。千隼は「あとで」と言いおき、容器を取っ手付きのナイロン袋に入れて、飛び出す様に外に出た。


 春日さんは表で静かに待っていてくれた。千隼は用意したそれを両手で持って、春日さんに差し出した。


「これ、良ければお持ちください。今日の小鉢はシンプルなものですがポテトサラダだったんです」


 仕込みの時、佳鳴がマッシャーで潰していたじゃがいもだ。今回は塩もみきゅうりとハムだけのシンプルなものだったが、味付けは佳鳴が丁寧にほどこしたいつものものだ。


 煮物は品切れていたが、小鉢はいつも少し多めに作るのだ。閉店後に余った分は、千隼たちの夜食になる。


 春日さんはナイロン袋に入れられた容器を見て、「わぁ……」と顔を輝かせた。


「良いのかい?」


「はい、もちろん。お代も結構ですよ。陣中見舞いだと思っていただけたら。本当にお疲れの様ですから」


 千隼が言うと、春日さんは「いやいや」と首を振る。


「ちゃんとし払わせて欲しいな。お願いするよ」


 そう言われ、しかし千隼は「いえ、こちらが押し付けたんですから」と返すが、春日さんは首を縦に振ってはくれなかった。


「解りました。では……」


 と、千隼は小鉢分に相当する金額を挙げた。それを小銭でちょうどで受け取り、ポテトサラダを春日さんに渡す。


「本当にありがとう。嬉しいよ。落ち着いたらまた寄らせてもらうね」


 春日さんは先ほどとは打って変わって嬉しそうな笑顔で言い、今度はしっかりとした足取りで帰って行った。


 店に入り厨房に戻ると、不思議そうな顔で千隼を見る佳鳴に「悪い」と短く詫びる。


「表で春日さんに会ったんだよ」


「あら、お久し振りだね。お元気にされてた?」


「いや、それが仕事で激務が続いてるらしくて、帰って来る時間にはこの店も閉まってるってさ。だからせめてポテトサラダ食べて欲しいって思って」


「あらぁ、そうなんだ」


 佳鳴は言うと、かすかに顔をしかめる。


「え、春日さんが来られなくなって、もう2ヶ月ぐらいにはなるよね。その間、ずっと帰りがその時間だったってこと? お休みはちゃんと取れてるのかな」


「そんな話はしてなかったけど、平日そんだけ働いてたら、休めたらもう家から出たく無いだろ。睡眠不足だろうし。びっくりしたぜ、すっかりとやつれちゃってさ」


「そうなの? それは心配だね……」


 佳鳴の眉がまた歪んでしまう。


「じゃあご飯もまともに食べれて無いってこと? なんでそんなことになっちゃったんだろ」


「そこまでは判らないけど、落ち着いたらまた来てくれるってさ」


「じゃあその時を待つしか無いんだね。何か差し入れとかしたくなっちゃうけど……逆にお気をつかわせちゃうだろうしね」


「多分な。ポテトサラダもお代支払われたし」


「あんた、押し付けたのにお金いただいたの?」


 佳鳴がやや呆れた様に目を見開くと、千隼は少し焦って「いやいや」と手を振る。


「俺はもちろんいらないって言ったぜ。けど払わせてくれって。そこで押し付けちまうと、春日さん気を遣うだろうから、小鉢分もらった」


 そう言って開いた千隼のてのひらには、数枚の硬貨が乗せられていた。


「まぁ、確かに春日さんはそう言う方だよねぇ……」


 佳鳴は納得した様に、小さく息を吐いた。


 久しぶりにお会い出来た春日さん。様変わりしてしまった春日さんに、千隼は大いに驚いたのだ。最近煮物屋さんに来られなくなった原因に合点はいったが、それが原因でああなってしまうとは。


 今日春日さんがいつもより少し早く帰れたこと、そしてその日の小鉢がポテトサラダだったのは、そういう縁だったのだろう。


 食べて、少しでも元気になってくれたら良いのだが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る