6章 じゃがいもとマヨネーズの後押し
第1話 あの人は今
「そう言えば」
小鉢に使う蒸かしたじゃがいもを、マッシャーで荒く潰していた
「最近あのお客さん来られて無いよね。
「ああ、そう言えば」
春日さんは壮年の男性で、以前はしょっちゅう煮物屋さんに来てくれていた常連さんだ。
ポテトサラダが好きな人で、それが小鉢になると、「煮物ともうひとつの小鉢の量を減らしてくれても良いから、ポテトサラダを多くしてくれないかな」と言っていた。佳鳴たちは「少しでしたら良いですよ」と、その願いを叶えていた。
そんな春日さんが、ここしばらく姿を見せていなかった。引っ越しでもしたのか、それともここの味に飽きてしまったのか。
気掛かりではあったが、今佳鳴たちに、それを確かめる術は無かった。
それは数年前のこと。佳鳴と
何せ
それでも珍しがって来てくれるお客さまはいて、春日さんもそのひとりだった。
その日のメニューは、メインの煮物に鶏肉とれんこんの煮物、彩りに茹でたほうれん草を添えたものを据えて、小鉢がポテトサラダときのこのマリネだった。
その時のポテトサラダは塩もみ玉ねぎと塩もみきゅうり、炒めたベーコンと炒り卵を入れたなかなか凝ったもので、煮物を控えめに盛り付けてポテトサラダを多めにしていた。
「私は独身でひとり暮らしだから、なかなかこういう食事にありつけなくてね。特にこのポテトサラダが良いなぁ。いつもの小鉢より多いのもありがたいねぇ。いや、私はポテトサラダが大好きなんだけど、ほら、スーパーの惣菜とかね、あまり好みの味に当たらなくて」
佳鳴が作るポテトサラダの味付けは、マヨネーズをメインに、隠し味にからしとバターを使っている。塩はもちろん白こしょうを少し強めに効かせている。
小鉢を作るのは佳鳴の役目だが、その下ごしらえの量によっては千隼が手伝いに入る。今日は小鉢に使っている素材が多いので、姉弟は並んでせっせと材料を切った。
「お口に合ったのでしたら良かったです」
佳鳴が笑顔で言うと、春日さんも嬉しそうに笑みを浮かべ、グラスに入った冷酒を片手に食事を進めて行った。
そうしているうちに、常連さんのお陰で煮物屋さんもどうにか軌道に乗って来た。小さな店内はあらかた埋まる様になる。
その日のメインの煮物は、牛肉のしぐれ煮だ。ごぼうの他に椎茸と糸こんにゃくも入れている。彩りは塩茹でした絹さやである。
小鉢は、まずは小松菜と厚揚げの煮浸し。厚揚げは小松菜と一緒に食べやすい様に棒状に切って、小松菜とさっと煮る。小松菜はあまり煮てしまうと色も悪くなってしまうし、煮汁に大切なビタミンが出てしまうので、しんなりする程度に火通しして、冷ましておく。
もう一品はじゃがいもとグリンピースのサラダだ。大きめのさいの目切りにして、蒸かしたじゃがいもは粉吹きにして潰さずに、塩茹でしたグリンピースと和えて、マヨネーズなどで味付けして行く。こちらは少しさっぱりとさせるために、隠し味に酢を使っている。
「こんばんは」
19時を過ぎたころ、そう言いながら春日さんはやって来た。結構な頻度で来てくれるのだが、小鉢にじゃがいもを使ったサラダを用意すると、必ず来店される。表に出してあるお品書きをご覧になるのだろう。
春日さんはまた冷酒を手に、じゃがいもとグリンピースのサラダを食べて、ほぅと満足げに息を吐いた。
「私はどうやら、じゃがいもとマヨネーズの組み合わせが好きみたいなんだよね。だからこのサラダもとても美味しいよ。具はシンプルなのに、味付けが良いのかなぁ」
「そう凝ったことはしていないんですよ。でもそうですね、調味料は弟とふたりでいろいろ味を見て、気に入ったものを使ってます。なのでご家庭でお作りになられるものとは少し違うかも知れませんね」
「そうなんだ。僕はお店経営のいろはなんてほとんど判らないけど、それだったらコストとか掛かっているんじゃ無いの?」
「いえいえ、そう高価な調味料を使っている訳では無いんですよ。でもスーパーではあまりお取り扱いの無いメーカーさんのものが多いかも知れません」
「なるほどねぇ。そういうのもこだわりって言うんだろうね。僕は自炊もするけど、確かにマヨネーズひとつ取っても、メーカーごとに味が違ったりするもんね。あそこのはこってりしてる、あそこのは少しさっぱりしてる、とか。ほら、欲しい時に安売りしているものを買うから。特にこだわりがある訳でも無いしね」
「そうですね。マヨネーズに使う卵の産地とか鶏の品種とか、お酢でもオイルでも、使うものによって味は変わって来るでしょうからね」
「それにしても、ポテトサラダってきゅうりとか具沢山のものって固定概念があったんだけど、このサラダみたいにグリンピースだけでも充分に美味しく作れるんだねぇ。これなら僕でも家で作れそうだ。何かコツみたいなのがあるのかな」
「特にこれって言うのがある訳じゃ無いんですけど、うちではマヨネーズはそう多く使わず、そうですねぇ、少し白こしょうを効かせる様にしていますね」
「白こしょう? それってスーパーで瓶に入って売っているものとは違うの?」
「春日さんが仰っているこしょうは、黒いこしょうと白いこしょうのブレンドのものでしょうか。一般的な粒の細かい、粉の様なこしょうはそうやって作られています。白こしょうは黒こしょうより辛みが穏やかなんです。なのでポテトサラダのちょっとしたアクセントに良いんです。スーパーのスパイスハーブの棚にあると思いますよ。今はスーパーでもいろいろなスパイスなんかが買えますからね」
「スパイスなんて難しそうなもの、僕には使えそうに無いからまともに見たこと無かったよ。でも今度見てみるね。それでもしかしたら自炊の幅も広がるかも知れないなぁ」
「例えば鶏肉を塩こしょうで焼いて、仕上げに皮の部分に乾燥バジルを掛けて、その皮部分を少し焼いたらバジルの風味が出て、いつもの鶏肉と違う味わいになりますよ。タイムやローズマリーなんかも良いですね」
「え、え、え」
佳鳴の話を聞いて、春日さんは目を白黒させる。
「バジルって言うのは聞いたことがあるけど、た、た、なんだって?」
「タイムとローズマリーです。これも乾燥されているものがありますよ。生もありますけど、乾燥のものの方が使い勝手が良いですし、何より保存がききますからね。機会がありましたら、試してみてください」
タイム、ローズマリー、タイム、と、春日さんは何度も声を出さずに、口を動かして繰り返す。
「タイムとローズマリーね。うん、覚えた。今度見てみるよ。私、鶏肉と言ったら塩こしょうだけで焼いたりとか、ああ、照り焼きも作るね」
「あらぁ、照り焼きが作れるなんてすごいですね」
「いやいや、酒と砂糖と醤油を適当に入れるだけでね。でもそのハーブで焼いた鶏とじゃがいものサラダで、なんだかおしゃれな食卓になりそうだねぇ」
「そうですね。それにお酒か、お食事にされるならパンやスープなどを添えると、立派なお食事になりますね」
「良いねぇ。楽しみになって来たよ」
春日さんはそう言って、わくわくした様な笑みを浮かべた。
春日さんとのかつての会話を思い出し、佳鳴はくすりと笑みを浮かべ、塩を振っておいたきゅうりの輪切りをぎゅっと揉んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます