第19話 女心を理解しよう1(花川理瑚)
「あ、お兄ちゃんそこにいるの?」
洗面所の戸からこもれでる光を見つけて私は呼びかけた。けれど返ってきたのはドタドタと慌ただしそうな音だけ。
いつもならおかえりって言ってくれるのに…………まさか、泥棒?
声は届いていたはずなのに普段とは異なる反応、家族じゃない誰か=犯罪者ではないか?と一瞬脳裏をよぎったが、さすがに心配しすぎと私は首を横に振って否定する。
しかし一度浮かんでしまった考えは簡単には振り払えない。私は足音を忍ばせて恐る恐る洗面所に近き距離を縮め――そして、
「――ひゃッ!」
私が引き戸に手を掛ける前に勢いよく開かれ、驚きのあまり情けない声が漏れてしまう。
「――お、おかえり理瑚!」
聞き慣れた声と共に中から飛び出てきたのは紛れもなくお兄ちゃんだった。
「もう……いるなら返事してよお兄ちゃん」
「驚かしちゃったみたいだな、悪かった」
「ほんとだよ……焦ってたみたいだけど、なにしてたの?」
「え? あーいや別に――しゃ、シャワーを浴びてただけだ。それよりも俺に用があったんじゃないか?」
…………嘘ついてる。
私がいる位置からでも見える浴室の床には一滴の雫もない。明らかな嘘、けれど私は追及せずお兄ちゃんに話を合わせる。
「用とかじゃないよ。アイス、お兄ちゃんの分も買ってきたよーってだけ」
「お! それはありがたい。火照った体を冷ますのに丁度いいし、早速頂くとするかな……と、その前に俺は部屋で着替えてくるから」
「……部屋着、既に着てるじゃん」
私が見たままを口にすると、横を通り抜けようとしたお兄ちゃんの動きが止まった。
「――そ、そうだった忘れてた。俺、既に着替え終わってたんだった」
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だ。それより早くアイスを食べよう、溶けてしまう前に」
そう言ったお兄ちゃんは腕を組んだまま先にリビングへと行ってしまった。
もしかしたら…………。
ふと私は〝あの日〟記憶を思い起こした。〝あの日〟というのはお兄ちゃんが風邪を引いた日で、私が偶然お兄ちゃんの〝趣味〟を知ってしまった日でもある。あれ以来、私はお兄ちゃんの顔を見るたびに〝ブラジャー〟を思い出してしてしまうようになった。
そう考えれば筋が通る。お兄ちゃんの不自然な行動や言動に……〝ブラ〟が合致する。
家に一人きりだったお兄ちゃんは洗面所でこっそり趣味を楽しんでいた。けど私の帰ってきたことを知り、慌てて服を着た……ブラをつけたまま。シャワーを浴びてたなんてもっともらしい嘘をついたのは事実を隠したかったから。ずっと腕を組んでいるのもブラで膨らんでしまう胸部を隠す為、そして着替え済みなのに着替えたいとうっかり口にしてしまったのは早くブラを外さなきゃという焦りからの失言。
確証があるわけじゃない……それにブラをつけてたとしても、私は決して偏見の目で見たりはしない。ただ、今後お兄ちゃんにどう接していけばいいか、それを明確にしておきたい。
ごめんお兄ちゃん……これからちょっと酷いことしちゃう。
そう心中で勝手に謝り、私もリビングに戻った。
お兄ちゃんはダイニングテーブルにどっしりと構えていた。なんだろ、
「はい、これ」
アイスとスプーンをレジ袋から取り出しお兄ちゃんの前に置くと「ありがと」と返ってきた。
私は「どういたしまして」とだけ言って台所に向かい、冷蔵庫にある麦茶のパックを手に取った。
「お兄ちゃも麦茶飲む?」
「いや俺はいい」
遠慮を示したお兄ちゃんは未だ腕を組んだまま目の前にあるアイスを見つめていた。
…………やるしかない。
麦茶をいつもより多く注いだマイグラスを手に持ち、テーブルに運んでいく……が、この麦茶が辿り着く場所はテーブルではなくお兄ちゃんだ。より正確に言えばお兄ちゃんの服。
「――きゃッ」
私はわざと
「……………………」
「――ご、ごめん、躓いちゃって」
結構冷えていたはずなのにお兄ちゃんは全く動じなかった。一瞬、本気で怒ってしまったのじゃないかと心配になってしまったが、どうやら違うらしく、それはもう慈愛に満ちた笑顔でゆっくりと首を横に振った。
「気にするな、理瑚。これくらい、もう一度シャワーを浴びれば済む話だ」
「そ、そうだね! 後始末は私はしとくから!」
「任せたよ、理瑚」
さっきまでの焦りが嘘のように余裕に満ち溢れている。多分、私のミスを口実に退路を得られたからだと思うけど……。
でも、これではっきりした。
視線の先はリビングを離れるお兄ちゃんの背中、濡れて透ける白Tシャツの奥に浮かび上がる〝バックベルト〟を視認して迷いは完全に消えた。
――お兄ちゃんは〝本物〟だ。
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