第10話







非常用の懐中電灯を拝借し、僕達は抜き足差し足で講堂へと戻った。

まずは致命的な痕跡を掃除して、それから懐中電灯を使っての現場検証となる。


「一部が引きちぎれてはいるけど、自重以外の原因があるかと言われれば微妙なところだね」


不格好なハンモックじみた様相の転落防止ネットを見上げ、そう呟く。

支えとなる部分が半分ほど引きちぎれ、それ以外の箇所もところどころ切れている。しかし見たところ鋭利な切断面も焦げたような跡もなく、劣化していた部分が人一人分の負荷に耐え切れなかったというのが一番適切に思えた。

つまり、雪路が立てた推理に近い状態と言うわけだ。


「首吊りになったのは意図ではなく偶然――その説を補強できそうですね」


転落防止ネットの検証を僕に任せ、床に光を当てていた雪路が顔を上げる。


「意識してやった記憶はありませんが、浮遊感を感じた際、とっさに近くのネットを掴んだ可能性もあるでしょうから。そのことで負荷がさらに加わったと考えられます」

「溺れる者は藁をも掴むならぬ、落ちる者は網をも掴む、か」

「無意識の危機回避も馬鹿にはできませんからね。……もっとも」


 そこで言葉を切ると、雪路は肩をすくめてみせる。


「掴んだ藁は助けになるどころか、文字通り私の首を絞めたわけですが」


溺れる間際に掴んだ藁が、毒蛇の尾だったようなものだ。

酷い話もあったものである。

特に何が酷いって、犯人にしてみれば驚かすつもりで配置した蛇が毒を隠し持っていたようなものだろう。あの死に様は、被害者である雪路の首を絞めると同時に、犯人の首をも絞めかねなかったのだから。


「……そういえば、一つ聞きそびれていたんだけど」

「なんでしょうか?」

「偽装でもなんでもなく、ただ犯人が首を吊らせたかったというのはないのかい?」


首吊りという死因はグロテスクだ。

あれが雪路の死体だったからこそ吐き気を催すくらいで済んだが、他の人が首を吊って死んでいるのを見てトラウマにならない自信はない。言い方は大変悪いが、死者の尊厳を貶めるのには最適とも言えよう。

雪路を辱めることが動機だった場合、あえて首吊りを選ぶのではなかろうか。

そんな僕の疑問に、雪路は淡々と答える。


「ゼロとは言えないですね。しかし先輩、私の衣服に鍵を仕込んで「不死川雪路は自分の意思で講堂に足を運んだ」と解釈されるよう行動した上で、殺人だと露見する可能性を残すというのは、非合理的なロジックでしょう?」

「……あー」


少し考えた後、納得の声が零れた。

前に似たようなことを言われた気がするなと思いつつ、返事の言葉を口にする。


「合理的じゃないことにまで目を向けていたらキリがないか」

「どれだけ理詰めで考え、突き詰めたとしても。決定的な物的証拠が見つからない限り、神の視点を持たない我々には択一が迫られますからね。思考整理のためにも、非合理的なロジックはひとまず除外しますよ。殺人行為そのものが最も非合理的ではありますが」


殺しても生き返るという不条理の権化は、そう言ってもう一度肩をすくめた。


「とはいえ、犯人が首を吊らせた可能性は極めて低いと思いますが」

「なぜだい?」

「運搬だけならまだしも、吊るす、ないしそれに準ずる行程を挟むなら私が目覚めない措置をとるのが適切です。しかし睡眠薬を服用した時の倦怠感は感じられませんから、そういった薬物は使用されていないとみていいでしょう。ああいったものは、薬効が切れてもすぐには健常に戻りませんからね」


それもそうだ。寝つきの良さに期待して、大がかりな犯行に及んだりはしないだろう。

雪路はさっき択一という言葉を使ったが、それに関しては彼女には大きなアドバンテージがあることを再認識する。


殺人か、事故か、自殺か。

まず探偵が迫られるその選択を、手がかりなしに踏み倒せる。

殺害される前の行動、殺害直前の体の具合。

謎を解く上で重要となってくる情報を、何の苦もなく得ることができる。

なぜなら、殺された張本人だから。


「――――あ」


不意に、雪路が声を上げた。

つられて、彼女の視線が向く先に目を動かす。懐中電灯の明かりで照らされているために何かを見つけたのはわかったが、しかし僕の位置からではその何かの正体がわからなかった。

首を傾げる僕を後目に、雪路はそれに近づく。

黒い塊のようなものを躊躇いなく拾い上げた後、それを持った手を僕に見せた。

数歩近づき、覗き込む。近づいても何かわからなくてさらに首を捻ったが、塊だったものを雪路がほぐしたことでようやくその正体がわかった。


黒い繊維で作られた小さな輪っか。

百円ショップで、三つで百円の値がついていそうな代物。


「……髪ゴムだね」

「ええ」


それは、雪路が昼間つけていたものによく似た髪ゴムだった。

同じ色合いだから一見するとわかりづらいが、よく見ると黒い髪が数本絡まっている。もしかして、雪路がなくしたものはここでとれたのだろうか。そんな考えが脳裏をよぎった。

一方の雪路はしばらく考え込んだ後、得心したように頷いた。


「犯人が誘導したい思考は、おおよそ見当がつきましたが……」

「何か気になることでも?」

「二者択一から一つに決め打ちするのが、現状の視点だと難しいのです。最終的にはいつものようにカマをかけるにしても、鉄砲を撃つ回数は少ないに限りますから」

「ほんとしれっと言うね、カマをかけるって」

「後ろめたさや行動の穴をついて揺さぶるのは常套手段ですよ、あらゆる分野のね」


可愛い顔でえげつないことを言いつつ、雪路は浮かない顔をする。

傍から見たらいつもの無表情と何の違いがあるんだという感じの変化なんだろうけど、些細な違いがわかるのも彼氏ならではだろう。惚気はさておき。


「犯人候補は二人に絞れているってことだろう? それを僕に教えてくれないかい」


候補が三人しかいないのに選出できていない――いや、消去法で考えると一人しかいないと思ってはいるのだが、動機に見当がつかないのだ。他の二人もそうだけど――僕ではあるが、それでも先入観や無意識の前提を考慮するなら、視点を増やすに越したことはない。


不死川雪路は名探偵ではない。

だからこそ、使えるものはなんでも使う。例えそれが一束の藁であっても。


「……うーむ」


しかし、彼女は悩むように小さく唸った。

いつもの雪路なら「そうですね」と頷いて、自らの推理を口にするところなのだが。

とはいえ、僕に先入観を与えないためにあえて口を閉ざすケースもなくはない。今回もそうなのかと思ったが、少し様子が違うようだった。


「先輩、犯人の動機に見当はついていますか?」

「ついてないですね」

「ですよね」


見透かされていた。

ちょっとだけショックを受けていると、雪路が小さく頭を振る。


「いえ、先輩の思考力を軽んじているわけではなく。いえ、ある意味では間違っていないのですが、言語化がやや難しいですね」

「えーっと、つまり?」

「先輩は鈍いなという話です」


また言われてしまった。

本日これで三度目になる。そろそろ何が鈍いのか具体的に教えてもらいたい。

だが、無言の訴えには一瞥が返された。


「少し考えさせてください」


そんな言葉も添えてから、会話の間も懐中電灯を動かしていた雪路が手を止めた。かちりとスイッチを切ると、切れ長の目を伏せる。


「……ひとまず、今夜は病人のふりをして先生方の部屋で寝かせてもらおうかと思います。犯人と同じ部屋にいるのは避けた方がいいでしょうし、甲斐田先生は犯人からいったん除外しましたが、念のために反応を見ておきたいので」

「えっ」


その言葉に、思わずまのぬけた声が出た。


「これから先生の部屋に行くの?」

「リスクは重々承知ですが、最も安全圏である可能性が高いのも事実ですから」

「いやまあ、危ないのも確かにそうなんだけど……」

「何か問題でも?」

「うーん」


今度は僕が唸る番だった。

どうしようかな、これ。


「まあ、雪路なら言いふらしたりはしないか。耳貸して」


少し考えた後、そう結論づけた僕はちょいちょいと雪路を手招きする。二人しかいない空間で内緒話も何もないのだが、普通の音量で言うのは憚れるのだ。

不思議そうに首を傾げながらも、雪路は僕に耳を寄せる。


「あのね――――」


形が整った耳に、小声で話しかける。


「……えっ?」


雪路の口から、珍しくまのぬけた声が零れた。



その後、雪路に割り当てられた部屋の様子を確認してから、先生達の部屋の戸を叩いた。

蘇生からある程度時間は経ったといえど、一度死んだ雪路の顔色は体調不良という嘘を信じさせるには十分だったらしい。虚偽の申告はあっさり通り、トイレの帰りに彼女を保護したことになった僕もお咎めなしで部屋に戻された。

去り際に見た雪路の目には、迷いのない光が浮かんでいた。

それに頼もしさを感じる一方、講堂で頼まれたミッションを思うと憂鬱でもある。僕は小さく溜息をつきながら、布団にもぐった。

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