第8話
……ぎちっ、ぎちっ
深夜。丑三つ時に近い刻限。
古びた講堂に、一つの音が響く。
間断なく続くその音は、徐々に大きくなっていき。
ぶちっ
一際大きな音の直後、同じ音が連鎖を始める。
何かが引きちぎれていく不吉な音。
それがしばらく続いた後。
――――ごきっ
嫌な音が、真夜中の演奏を締めた。
「……ん?」
一階のトイレで用を足した帰り道。
階上の客室から漏れ聞こえる囁き声の合間で、異質な音を耳にした。
思わず足を止め、音が聞こえた方に向けて耳を澄ませる。音は聞こえてこなかったが、それで空耳と断じてしまうには焦燥感を煽るような音だった。
音が聞こえてきたのが講堂の方向なのも、僕の中にいる虫たちを刺激する。虫はそれぞれ、不安、そして好奇心という名をしていた。
「……」
うとうとしていた意識が、クリアに切り替わる。
僕は足早に、講堂を目指して歩き始めた。
合宿所の本棟から講堂は、渡り廊下で繋がっている。当然その間には扉があるのだが、本来なら施錠されていないとおかしいはずのそこは、容易く開けることができた。
本棟から渡り廊下に続く扉を抜け。
渡り廊下から、講堂に入るための扉を押す。
そうして辿り着いた講堂の入り口で、僕がまず感じたのは埃っぽさだった。
「っ、けほ」
鼻についた独特の臭気に、反射的に咳きを零す。
昼間掃除したばかりにも関わらず、講堂の空気には埃が多分に混じっていた。最初にここへやってきた時と同様、ともすればその時より濃い気がする。
まるで、溜め込まれていた埃が何らかの要因によって吐き出されたようだった。
首を傾げつつ、換気と採光のため、扉を開け放したまま中に入る。
電気をつけるという発想は、なぜかその時は浮かばなかった。暗がりに惹かれる生き物のように、僕は奥の暗がりを目指して一歩、また一歩と踏み出す。
ぎぃ、ぎぃ、と。
暗がりの方からは、何かが軋むような音が聞こえてくる。
そんな異質な音もまた、僕には誘引剤としかならない。ふらふらと引き寄せられるように歩いていき、やがてそれは大きな段差によって遮られた。
一拍置いて、それが講堂にあったステージだと理解する。
ぎぃ。
ぴちゃ。
軋んだ音の合間に、水音が耳につく。
埃に混じって、アンモニア臭が鼻孔をわずかにくすぐった。
そのころには、目はすっかり暗がりに慣れていた。明かり窓から差し込んでくる月明かりだけで、十分に周囲の様子が見える。
だから僕は、音がした方に迷いなく目を向ける。
「――ぁ」
空中で揺れるそれを、眼に捉えた時。
――――まるで、操り糸に吊られたマリオネットのようだと思った。
マリオネット。もとい、死体。
本来なら再び動き出すはずもないそれは、操者の手も借りず、僕の目の前で可動する。ありえない巻き戻しを――蘇りを果たし、
「私を殺した犯人を、推理するといたしましょう」
そして、力強くそう宣言した後。
「……その前に先輩」
「なんだい」
「下ろしてもらってもよろしいでしょうか」
僕の可愛い彼女は、まずはそんなお願いを口にした。
改めて、雪路の状態を見る。
転落防止ネットに両腕を絡め取られた上、縄が首に引っかかっている。
身動きがとれない。どころか、下手に自力で脱出しようとすれば、また窒息しかねない。
可愛い恋人が、自分の首を絞める(物理)をしているのを眺める趣味はない。ステージに上がると、慎重に雪路の体を宙吊りから解放した。
じゃらっと、金属のこすれる音が雪路から聞こえる。
不意に響いた思わぬ音に、僕達は顔を見合わせた。
「ありがとうございます、先輩」
「どういたしまして」
そんなやりとりをしてから、雪路は自分の体をぽんぽんと弄り出す。ほどなくして、ジャージのポケットから鍵束が出てきた。
ふむ、と小さく呟いた後、人形めいた顔が鍵束を簡単に検める。
どこの鍵か判別しやすいよう、鍵の持ち手にはそれぞれネームシールが貼られていた。その中には、『渡り廊下』『講堂』と書かれた鍵もある。
部活動でも利用される合宿所なので、鍵自体はそこまで厳重に保管されていない。僕も去年勉強合宿に参加した時に、先生から鍵束を持ってくるよう頼まれた覚えがある。つまり、持ち出し自体は容易だということだが。
「これ、雪路が?」
「まさか」
首を振ってから、彼女は鍵束をポケットに戻した。
「さて」
くるりと、雪路が僕の方を向く。
「現場検証をしながら推理といきたいところなのですが」
そこで言葉を切ると、彼女にしては珍しく、逡巡の素振りを見せる。
何か引っかかることでもあるのだろうか。首を傾げて二の句を待っていると、深呼吸を一つ挟んでから、雪路は口を開いた。
「先輩。人間は、脳機能が停止して死に至ると体中の筋肉が弛緩します」
「うん」
「この筋肉というのは、下腹部、つまり括約筋も含みます」
「かつやくきん」
「首を吊られた状態ですと、重力がかかりますね?」
「……あっ」
そこまで言われ、ようやく彼女が何を言わんとしているかがわかった。
思わず、雪路の足元にあった水たまりに目を向けかける。しかしその視線は、他ならぬ雪路の体によって遮られた。
居心地の悪そうな眼差しが、上目遣いで睨んでくる。
「幸い、シャワー室の鍵もありましたので。お付き添いいただければと」
謝罪と同意を兼ねて、僕はホールドアップをした。
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