第九〇話 長尾景虎の臣従
◆天文十七年(一五四八年)二月上旬 近江国 安土城
突然、新巻鮭をぶら下げた妙に色っぽい謙信ちゃんが訪問してきた安土城の謁見の間は、女の戦いのせいかかなりの緊迫した空気が漂っている。どちらも気が強そうだし、なんと言っても相手は軍神様だ。喧嘩別れのような形は絶対に避けたいところ。
「うん。とりあえず
謙信ちゃんは越後統一の名分として、国知事を求めてきているけれど、我が信長ちゃんはどのように対応するか。
「長門、
信長ちゃんが
「虎殿、南蛮菓子のかすていらじゃ。甘くて美味だぞ。ともに食べようぞ」
「ありがとう。これがかすていら? あら! とても美味しいわねー!!」
「うむ。わしの好物なのじゃ」
当然のことながら、信長ちゃんは好物を頬張ってご満悦顔。先ほどまで眼光鋭く火花を散らしていた軍神ちゃんも、女子らしくスイーツ好きなのだろうか。ニコニコと笑顔を見せている。カステーラパワー恐るべしだな。
「右大将殿はいつもかすていらを食べてるの? いいなあ」
「口惜しいが、さすがにいつもではないぞ。この織田焼きも召し上がるが良い」
「あら。これもあんが優しいわねー」
「で、あろう? あんと生地の甘みがほどよいのじゃ」
「ねーっ! 美味しいっ! どこで手に入るの?」
二人はすっかりお菓子を片手に女子トークを繰り広げているけれど、国知事の件はどこにいったんだ?
「わたしもね、右大将殿のようにうまく越後を治めたいな、って思って。あやかって名前も弾正にしたのよ」
「で、あるか! 面倒じゃ。『吉』でよいぞ」
軍神の謙信ちゃんが自分にあやかったと聞いて、信長ちゃんはずいぶんと機嫌が良くなり自慢げな顔つき。本名の『吉』と呼んで構わない、と言い出した。
「わたしと吉殿の何が違うんだろう、って考えたんだ」
「ふむ」
「
「うむ。
「吉殿は鳳雛を得て天下を獲ったのね。わたしも伏龍や鳳雛がほしいなあ」
待ってくれ。ちょっと嫌な雰囲気の会話になったな。鳳雛といえばおれの異名。もちろん、おれが信長ちゃんの側から離れるわけにはいかない。
こたつに潜っていた今孔明の半兵衛くんは、まだ五歳の保育園児だし病弱ぽっいぞ。寒さの厳しい越後に行こうものなら、ただでさえ病弱で短い寿命が、あっという間に尽きてしまいそうだぞ。絶対にダメだ。
「信用に値する配下は必要……じゃな」
あーあ。やっぱりヨメちゃんの顔に不機嫌さがにじみ出ている。お菓子で良い雰囲気になったと思ったのに、またもや険悪な空気が漂い始めている。
「ねえ。わたしに今士元を貸してくれない?」
うわっ。コレは非常にまずい発言だろ。謙信ちゃん勘弁してくれよ。
「いかなる意味じゃ?」
ヨメちゃんがかなり怖い顔。一瞬で周囲の気温が三度くらい下がった気がする。女の戦いは怖過ぎるだろう。
「あー、勘違いしないで。別に左近殿を取ろうとしていないわ。わたしは男には不自由してないの。今士元の策があったら楽だな、吉殿がうらやましいなって思っただけよ」
「して、虎殿は越後を何ゆえ平らげようとする?」
少しは信長ちゃんの表情が和らいだかな。不穏な発言は勘弁してほしいぞ。
「親父もあんなんだったし、兄貴も頼りないし。できるわたしがするしかないでしょ。わたしなら越後を豊かにできるし、わたしを頼る越後人は困らせないわ」
謙信の父親の長尾
「うむ。ヌシの戦ぶりや政の才は越後を治めるに充分値するのじゃ。ワシも左近も左様に思っている。が、ひとつ気になるのじゃ」
「え? 気になることってなあに?」
「ワシは、尾張だけでなく日ノ本全てを治め豊かにしようと思っておる。ヌシも国元の越後以外――日ノ本全てをも見る目が必要なのじゃ」
史実の謙信は、関東にたびたび出兵して越冬している。越後の農業生産だけでは、自国の領民を養いきれず『口減らし』の意味があったことは否めない。
信長ちゃんは、越後のことだけ考えていてはいけない、と釘を刺しているのだ。
「うーん。そうね。越後以外の日ノ本全てか……」
「虎殿なら恐らく叶うだろう。左様に目を広げれば、必ずや伏龍鳳雛を得られようぞ」
「ええ。分かりました」
「武田をはじめとして、日ノ本全てを治めるには強き敵も多いのじゃ。姉とも頼むゆえ、虎殿、ワシを助けてくれ。もちろん越後は任す。知事として励んでくれ」
「はっ!」
信長ちゃんは軍神様を頼れる人間だと直感したのだろうか。
信長ちゃんが深々と頭を下げると、謙信ちゃんもあっさりと平伏する。一触即発ムードまで緊張感が高まった空気が、一気に和んだみたい。おれもほっと胸をなでおろす。
「これより、姉妹のように
「ええ、そうね。今日は気分がいいなあ。吉殿、一杯
「長門ちょっとよいか……」
「はっ!」
再び信長ちゃんが、岩室重休に指示をする。部屋を出てしばらくして戻った重休が、謙信ちゃんに大杯を渡す。
「うーん! 気分のいいときの酒は格別ねっ!」
「ワシはこれで勘弁してくれ。酒を飲むと寝てしまうのじゃ」
「何飲んでるの? えっ? ぜんざいっ!? わたしも一杯ほしいなあ」
重休がささっとお椀のぜんざいと菓子皿を持ってきて、謙信ちゃんにもぜんざい椀を渡す。
「梅干をつまみに呑むことが多かったけれど、ぜんざいやかすていらなど甘いものと一緒でもなかなかイケるわね」
「ワシは酒は飲めぬゆえ、かすていらを食べるぞ。虎も食べぬとなくなるのじゃ」
「えーっ!? 吉ばっかりかすていらを食べてずるいぞー。わたしのもちゃんと残しておいてよねー」
「ワハハ。兵は拙速を尊ぶのじゃ。知らぬ」
信長ちゃんと軍神様が非常に盛り上がっている。
「そうだ。ワシの部屋に行こう。ぽかぽかしようぞ」
「ぽかぽか!?」
◇◇◇
大いに盛り上がった二人は信長ちゃんの部屋で、二次会の様相となって参りました。同じ女性領主という立場の謙信ちゃんに、親近感を覚えたのだろう。ヨメちゃんは、他の家臣や大名には見せたことのない楽しげな表情をしている。
「虎もこやつに入り込むと、ぽかぽかと身体が
「なにこれー? 心地よさの極みだわねー」
さすがの軍神様もこたつには陥落だ。
「こたつじゃ。虎の元にも送るゆえ、越後の冬も容易に過ごせよう」
「ありがとう! こたつがあれば冬も暖かく過ごせるわね。――えっ? わたしが食べようと残していた織田焼き食べたなーっ!」
「ワハハ。先手必勝なのじゃ」
「何たる仕打ち。かくなるうえは、吉に酒を飲ませ寝かした隙に、今士元を奪っちゃうぞ?」
こらこら。不穏な発言はしないように。
「左近はワシのことを好いておるゆえ、虎には篭絡されぬわ」
「ええい。わたしの身体の魅力をもってすれば……」
謙信ちゃんが着物を脱ごうとしている。いわゆる脱ぎ上戸ってやつか?
ナイスバディを見たい気も……少しある。ヨメちゃんごめん。
「こら、虎! 脱ぐのは反則じゃ」
とんでもない酔っ払いが出現したけれど、越後の軍神様が臣従して参りました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます