第六七話 奇妙丸
◆天文十六年(一五四七年) 七月下旬 尾張国 那古野城
京都、近江(京都府・滋賀県)や駿河(静岡県)まで、外交や出陣続きのため、久しぶりに那古野の町並みを見ると落ち着く。二条城では信長ちゃんから大胆なプロポーズをされたし、南近江も無事に織田の支配下に収めたし、公私ともに順風満帆で蒸し暑さとは裏腹に気分爽快だ。けれど調子に乗っていると、またロクなことがないから、今後の目標に向けて気を引き締めなくてはな。
現状を少し整理してみよう。
我が信長ちゃん率いる織田家は、尾張・三河(愛知県)、美濃(岐阜県南部)、北伊勢(三重県北部)、南近江(滋賀県南部)を実効支配していて、室町幕府の第十三代将軍の足利義藤(義輝)を傀儡としている状態。史実で信長が、十五代将軍の足利
本圀寺の変は史実では
大ピンチの包囲網はともかく、二十二、三年ほども歴史を進めている快挙といえるだろう。これからは、北近江(滋賀県北部)と伊勢(三重県)を完全掌握して国力を高める方針で問題ないと思う。けれど史実と同樣に、将軍の足利義藤が暗躍しないように注意と警戒は充分に必要だ。
信長ちゃんの躍進の裏には、信パパこと大殿の信秀が健在で、常に彼女の味方だったことが非常に大きい。
「父上は若い頃から働きすぎなので、少し骨休めせねば早死にしてしまうのじゃ」との信長ちゃんの命令があったので、今回の京・近江の合戦では信パパは留守番でまったくの出番なし。
「戦ならわしも負けんぞ」と不平を漏らしていたらしい。
信パパは史実では、五年後の天文二十一年(一五五二年)に亡くなってしまうのだけれど、織田家中の不穏分子を抑えるためにも、もっともっと長生きしてほしいぞ。
信秀の死因は流行病と言われているけれど、死去以前にも病に伏せることが多くなってたはずだ。信頼できる侍医の確保も重要課題だ。
がたっがた……だーんっ!
相変わらず騒々しい信長ちゃんの登場だ。何が彼女をハイテンションにしているんだろうか。
「さこーん! 何をしているのじゃ?」
ニコニコと機嫌良さそうな信長ちゃんは、京土産のカステーラの皿を持参だ。このお菓子が原因かな。
「姫、ようこそいらっしゃいました。これからの方針を考えています」
「うむ! 近江攻めの策といい、実に大儀だったのじゃ」
「姫の天下布武のため。当然ですよ」
「で、あるか!」
彼女はお菓子をつまみながら、仕事机にしている座卓の横にちょこんと座る。
見るたびに思うが、信長ちゃんは甘いものだけを食べて、よく胸やけを起こさないものだな。望みをいえばコーヒーだけれども、せめてお茶がほしいぞ。
抹茶でなくても、煎茶やほうじ茶などはぜひ手に入れたいぞ。これも長秀くんに探してもらおう。
ともあれカステーラ効果もあるだろう、彼女は満面の笑みでかなりのご機嫌状態だといえる。姫で上司で婚約者の信長ちゃんの機嫌が良いのは、様々な意味で都合がいい。
――とんとん。
ふと、玄関の戸板を叩く音がする。信長ちゃんに続いて屋敷に来客のようだ。
はて。誰だろう。長秀だろうか。
入口の引き戸を開けると、妹ちゃんこと信長ちゃんのそっくりさんの
おそらく勝家との子だろう。祥姫と勝家との仲が良さそうで、肩の荷が下りた気がして思わず安堵の息が漏れた。
だが、今のタイミングでの祥姫の来訪は、気まずさ一杯だぞ。つい先日、信長ちゃんに、祥姫と致したコトがばれちゃったからな。
「――祥姫様ではないですか。お久しぶりでございます」
少々他人行儀過ぎるかもしれないが、元カノとはいえ今は勝家のヨメだ。うん。努めて冷静に受け答えする。
「左近殿、お久しぶりですね。姉上もいらっしゃるようで……丁度よかった。お邪魔させていただきますわ」
妹ちゃんは、信長ちゃんに用事があったのだろうか。全然丁度良くないし、お邪魔しないでほしいぞ。気まずくて頭を抱えてしまいそう。さらりと応対してくれるのが救いだけれど。
「お、祥か。よくぞ参ったのじゃ。かすていらもあるぞ。しかし大きくなったなあ」
信長ちゃんが祥姫が抱いている赤児に目を細める。
「ええ。今年の初めに産まれたので、もう半年ですからね。よしよし、吉伯母さまですよー」
妹ちゃんは、赤児をあやしていて微笑ましいのだけれども、聞き捨てならないコトを言ったな。
今年の初めにこの子が産まれただと?
ええっ!? もしかすると、その赤ん坊はおれの子どもか?
待て、落ち着け。最後に妹ちゃんと致したのは、おれが拉致されてしまった去年の三月の大蛇騒動の少し前のはずだ。
「じきにその子が産まれる時分だったからな。権六との婚儀を、父上に認めさせるのは難儀だったのじゃ」
「ええ。姉上には権六殿との婚儀のこと、無理を聞いていただき感謝していますわ。うふふ」
できちゃった婚どころか、産まれちゃいそう婚だったのか。いやいや、そんなことより大事なコトが――――。
去年の三月に足すことの『
検算してもやっぱり今年の一月だよな。
ヤバい。これはヤバい。大変なことになった。
いつから妹ちゃんと勝家が付き合っていたか不明だが、祥姫の抱いている赤ん坊はおれの子どもの可能性が充分にある。
「うむ! だがこうして、元気な男子が産まれたのじゃ。めでたきことであるな」
「ええ。姉上にそういっていただくとわたしも嬉しいです。うふふ」
「しかし、この子は権六にあまり似てないな。どちらかというと祥やワシに似ておるのじゃ」
「力強さなどは、権六殿に似てほしいのですがね。うふふ」
「祥、その子を抱いてみたいのじゃ」
「どうぞ、姉上。気をつけてくださいね」
妹の祥姫から、信長ちゃんが赤ん坊を受けとりあやす。意外にも手慣れた感じもして、赤ん坊も大人しくしている、やはり母性本能のような女性特有のものだろうか。
「こうして抱いてみると、この赤児は他人の気がしないのじゃ。ワシと祥が瓜二つであるからか?」
「ええ、左様ですね」
「ヌシは、父に似なくてよかったな。きっと男前になるのじゃ」
「まあ。いくら姉上でも言い過ぎですよ。それでは、権六殿が男前ではないと言ってるようですわ」
「ワハハ。祥は権六に惚れ込んでいるのじゃな。言いすぎたわ。すまぬ」
「うふふ」
妹ちゃんと信長ちゃんが女子トークを繰り広げながら、赤ん坊をあやし抱いている図は、微笑ましさがあるけれど、勝家に似てなければ誰に似るんだよ。不穏な発言はお願いだからやめてっ!
「赤児とはよいものであるな。ほら。このとおりワシに懐いているのじゃ」
「姉妹ですから、匂いも同じなので安心するのでしょうね」
妹ちゃんザッツライト。妹ちゃんと信長ちゃんはまったく同じ匂いです。しかし、この状況はまずいぞ。非常にまずい。
「こやつは良き目をしているのじゃ。ワシはこやつを気に入ったぞ。祥! こやつを『奇妙丸』と名付けよ」
「うふふ。この子が産まれたのも姉上のおかげ。分かりました。ところで、何ゆえ奇妙丸なのでしょう」
「目の輝きが尋常ではない。おそらく世の中を驚かす仕儀をし得る男と見たのじゃ」
「奇妙や、吉伯母さまに素敵な名前をつけてもらえましたねえ。よしよし」
妹ちゃんが再び赤児をあやし始める。その様子を信長ちゃんも微笑みながら見つめているけれど、おれと妹ちゃんの子どもと知ったら、信長ちゃんはどう思うだろうか。
非常にまずいことになった。
それに『奇妙丸』といえば、史実で信長の長男の信忠のこと。もしかすると、これから信長ちゃんがこの赤ん坊を養子にするのかもしれない。
しかし奇妙丸は、おれと妹ちゃんの子どもの可能性もあるわけで。ともかく、勝家に似た男に育つのを祈るしかないぞ。神様、お願いします。
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