第三二話 ぽかぽかの野望
◆天文十四年(一五四五年)十月上旬 尾張国 那古野城
「左近殿、左近殿……」
相変わらず客間を間借りして仕事をしていると、廊下から声が掛かる。消え入りそうな若い女性の声。これは……まさか!
振り向けば声の主は、思ったとおり信長ちゃんの妹の
「おや、祥姫様ではないですか」
すばやく立ち上がって、部屋の入り口に立つ祥姫の側に向かう。
祥姫は当たり前だけど『姫』の格好をしているよ。祥姫の姿は、めったに目にすることのない信長ちゃんの姫装束にも見えるので、ドキッとするほど新鮮な感覚だ。
素材は抜群なのだから信長ちゃんの姫装束も、たまには見てみたいぞ。
「左近殿が、わたくしの美濃(岐阜県)行きに反対してくださったとか。おかげでさまで美濃に嫁がずに済みました」
妹ちゃんこと祥姫には、そっくりなビジュアルから信長ちゃんを想像させて、そもそも初対面から親近感を非常に感じている。それにおれが縁談を断ったので、美濃斎藤家に嫁ぐ羽目になりそうだったから、大きな肩の荷が下りた気がした。
そっくりさんの妹ちゃんが、斎藤家に嫁に行っていたら、目覚めが悪くなりそうだし、将来の美濃獲りの野望にもおおきな影響がある。
「おお、それはそれは
「わたくしも
ハキハキとした信長ちゃんの正反対ともいえる慎ましさ。これはこれで、
「美濃に
「そうだと良いのですが……」
上目遣いのすがるような視線。
まいったな。信長ちゃんとほぼ同じだけあって、
「きっと大丈夫ですよ」
「ええ、そう願ってますわ。
なるほど。顔見せが終わったので、本来の住居へ戻るのか。ほっとする反面、少し寂しい気持ちもある。
「ああ、なるほど。古渡に戻られるのですね」
「ええ。またいずれ、ゆっくりお話しをしたいものですわ……では」
「はっ!」
ふう。少しドギマギしてしまったけれど、いずれにしても妹ちゃんの嫁入りが、ストップされてよかったぞ。
◇◇◇
どんっどんっどんっ! どんっどんっどんっ!
おっと、今度は信長ちゃんの来訪だ。
「さーこん。聞きたいことがあるのじゃ」
「はっ! 何なりと」
今日の信長ちゃんは、ブルーの平紐でポニーテールを仕上げ、例の髪飾り。ニコニコとしてるので、機嫌はまず良さそうだ。
ただ、たまに信長ちゃんも、爆弾クエッションを落とすから侮れない。
「父上に
お。いいところに気がついたな。兵力の集中からもとても効率がいい。
清洲城は、信パパの上司筋にあたる織田信友の居城だった。史実でも、尾張統治の要を担った期間も長い。今月初めに信パパが落城させてからは、林
「とても良き策だと思います」
「で、あるか」
信長ちゃんはニンマリ顔。
「次にな、安城の武功もあるし、さこんに褒美を与えようと思うのじゃ。欲しいものはあるか?」
お、これはこれは……ようやく屋敷拝領のチャンスだろうか。信長ちゃんは先日、那古野城主に就任した。これまでの城代に比べ、自由裁量できる内容が格段に増えている。
既に多くの配下に屋敷を与えているし、
「されば、
「フン! 左近はワシの近くで助けてくれないのか?」
しまった。地雷を踏んでしまったみたい。信長ちゃんは、口を尖らせて少々不機嫌の様子。
とはいえ、ここで何とか屋敷を貰わなくては。お風呂やさらには、コタツも導入する野望があるのだから。
おれも信長ちゃんに仕えて、だいぶ慣れてきている。こういう場合に、彼女にイエスを言わせるコツはかなり掴んでいるぞ。
「もちろん、姫のお側にいたいのです。が、屋敷を頂戴して、こたつと湯殿を造ろうと思いまして」
好奇心の塊のような信長ちゃんは、きっとこたつと湯殿に興味を示すに違いない。どうかな?
「ほー!? こたつと湯殿であるか。こたつとは
しめた! 狙い通り食いついてきたぞ。
「されば、座卓の上を綿入りの布で覆い被せまして、外気が入らぬように致します。次に布で囲まれた内側に火鉢を置きますと、中は大変
この状態をぽかぽかと申しまして、比類なき心地よさでございます」
「この辺りが大変
信長ちゃんは、座卓の下で手をわしゃわしゃ動かして、嬉しそうにこちらを見ている。
何ですか? この可愛い生き物は?
女の子だけに冷え性なのかもしれない。興味津々だが、もう一息だろうか。
「まことに心地よさの極みでございます」
「ほー!? こたつとはまことに良きものであるな。しかし、比類なき心地よさであると、こたつから出れぬようになりそうなのじゃ」
信長ちゃん、ザッツライト。こたつは冬の人間をダメにする。
「左様な恐れはありますが、ぽかぽかを姫に味わっていただきたいので、屋敷を頂戴したいのです」
「さこんがワシにぽかぽかを……なかなか面白き話なのじゃ。して、湯殿というと寺にあるというものか?」
湯桶にお湯を満たして入浴する習慣は、この時代では一般的ではない。
「はい。大きな
「湯殿もまたぽかぽかであるか。こたつに湯殿か。ふむ……」
信長ちゃんの興味は、まだ見ぬダブルぽかぽかに集中しているぞ。これは乗ったな。
「はい。こたつと湯殿を造るため、屋敷を拝領したいのです」
「屋敷にさこんが住むとなると、
えっ? 屋敷は那古野城内なの?
可成や勝家、牛一をはじめ、他の将たちは全て城下に屋敷を構えている。だが、とりあえずは念願の屋敷をゲット! こたつと湯殿の仮製作は、大工に発注して進めてあるので、完成はそう遠くないぞ。
「はっ! ありがたき幸せ!」
「あ、しばし待っておれ」
ん? なんだろう。
信長ちゃん小姓を呼んで持って来させたのは、
見るからに高級そうな
「これは褒美でなく、ワシからさこんへのぷれぜんとなのじゃ」
ジャーンという効果音がついているかのように、信長ちゃんは大小を差し出してくる。
「これを……おれに?」
「うむ。さこんの背に合わせ、拵えてもらったのじゃ」
静かに彼女は微笑んでいる。
大小を見ると刀の鞘に、おれの家紋の『丸に
「姫様、ありがとうございます! 感激いたしました」
お金を出せば作れるとはいえ、信長ちゃんの心遣いが身に沁みた。
「侍の
信長ちゃんはニコとした笑みだ。おれに対する信頼感が伝わってくる。
分かっている。そんな『いざ』が起きないようにするから。
嬉しくて感激して「必ずや」というのが精一杯だった。
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