あたしがいるのは深い森~鎖国日本の学生エージェント
32.「私はどうやって帰ればいいの? 知ってる? 知らないでしょう? このクソ野郎! ただ突っ立っていないで少しでも知ってるとか何とか言ってごらん!」
32.「私はどうやって帰ればいいの? 知ってる? 知らないでしょう? このクソ野郎! ただ突っ立っていないで少しでも知ってるとか何とか言ってごらん!」
唇を噛む。
右手を動かして、一番近くにいた子の手を強くつかむ。痛みが走る。行こう、とうながす。手を振られるたびに、右肩に強烈な痛みが走る。
若葉も黙って、そのあとをついてくる。
何度か通り過ぎる連中の目から隠れて、あの「事務室」の辺りにたどりついた。一度しゃがみ込んで、周囲を用心深く見渡す。
ここまで来れば。
あとは――― 暗いけれど、でも、そうしたら、向こうだってそうは追ってこれないだろう。
もう少し。もう少しなのだ。
脂汗が、額からだらだらと流れているのが判る。
なのに。
目の前に、男が二人、連れだってやってきた。
日本人だろうか。外見上はそうだ。足には草鞋サンダルをつけている。
でも不安そうな若葉の表情から、それが村人でないことは判る。
つ、とあたしは腰を浮かせた。
「さつきさん?」
「あたしがあの二人の注意を引きつけるから、あんたその間に行って」
「注意を、って」
「こっちを向かせないから」
立ち上がる。それが有効かどうかは判らない。ない頭で考える策なんて、大したものではないけど!
「はーい」
彼らの後ろに回り込んで、にっこり笑って右手を挙げる。はーい? と不思議そうな声で、二人は若葉達に背を向けた。いいぞ。
「I got lost! Hey, do you know where my house is?」
へ、という顔で彼らはあたしを見た。若葉も見た。痛みはこらえて、これでもかとばかりににこやかに笑ってみせる。
「You can't understand,can you?」
えええ、という感じで彼らはお互いに顔を見合わせる。
それもそのはずだ。髪はともかく、こんな日本人そのもの、という顔をしたあたしが、すらすらと口にしているのだから。
「お、おい、連中の仲間に、女の子っていたかよ?」
「Please tell me the way!」
「さ、さあ……」
混乱してる。きっとアジア系の奴もいたのだろう。それと同じと思っているのかもしれない。
「I have no hometown anymore! That's already sinking! How do I get home? I know? You don't know? Hey,this fucking guy! Just say that you don't stand out and know a little or something!」
そのままぺらぺらとまくしたてる。間髪入れずに。入れてはいけない。時々ちらちら、と視界に入れる子供が、次第に減ってくる。あと三人…… 二人……
「あーっ!」
びく、と肩が上がる。痛い! 顔をしかめる。
何だ、と言うように、反射的に彼らも振り向く。最後の一人が、またすべった。緊張が切れたのか、その場で泣き出しそうだ。
「子供だ。何でここにいるんだ!」
「Shit!」
思わず口が動いた。
あたしは一人に体当たりする。
肩に痛みが走る。声が漏れる。歯を食いしばる。
走り寄り、子供を右手で引きずり上げると、そのまま走り出した。つるつるつるつるすべって、何って走りにくい!
案の定、それ仕様の履き物をつけている奴にはかなわない。両側からシャツを掴まれてしまった。
「お前何だ! 連中の仲間じゃないのか!?」
歯を食いしばる。子供をぐっと抱きしめる。
「ええ、何とか言え!」
言うもんですか。こうやって人を脅す奴にはロクな奴がいないのよ!
思い切り、にらみつける。若葉はどうだろう。早く行っていてほしい。
ほっぺたに、衝撃が走る。一瞬目の前に星が散った。ああ星と言えば、遠山は大丈夫だろうか。
何となく、頭が勝手にそんなことを考え出す。逃避してるな。逃避したって、仕方ないのに。つい顔がへら、と笑ってしまう。何かおかしい。
「何を笑ってるんだよぉ!」
今度は反対側から衝撃。やーねえ、十七の乙女の顔にあざが残ったらどうするのよ。
「何とか言ったら―――」
ぱん!
軽い音が、背後に聞こえた。何だっけ。聞き覚えのある音。
何だろう、とゆっくり振り向いたら、懐中電灯の光が、幾つも目に入ってきた。
「……お、おい……」
男達は、逆光でうまく見えないそれに、目を白黒させている。えーと。
―――銃声、だったんだ。
「足元に気を付けて、突入!」
聞き覚えのある、声。
拡声器で思いっきり割れているけど。だけど。
「ったく無茶しやがる」
ほら、と逆光のまま、彼はあたしの前に屈み込んだ。
その横を、制服の集団が走り抜けていく。この制服に草鞋サンダルは似合わないかも。
「ひでーなあ。腫れてるぜ」
頬に手を当てる。
「久野さん! 何で」
痛いよ、と掴んでいた子供が悲鳴を上げる。力が入っていたらしい。
ごめん、とゆるめると、子供はそのまま立ち上がり、向こう側へと走っていく。
そこには、特警の水色の夏の制服を着た集団に守られるように、若葉がいた。少し視線をずらすと、高橋が苦笑していた。
「お前等の自転車を見つけたから、そのあたりをうろうろしていたら、これを見つけたんだよ」
あ、と思わず声を立てる。
ポケットから出した彼の手の中には、枝に絡まったままの、あたしの赤い髪があった。
「で、滝の裏側に灯りを向けてみたら、あのにーちゃんがいたんだよ」
ああ、高橋はいいところで彼等と会えたのだな。
「肩見せてみろ。ああ、これはひどいな」
こっちが何も言わないうちに、久野さんは右と左の肩から袖をずり落として触って判断する。かなり乱暴だ。
だけど、嫌ではない。
「骨に異常があるかもしれないから、降りたら自転車は村に預けて、すぐに豊橋の病院に送ってやる。いいな? 嫌だとお前がどんだけ言っても引きずってでも連れてくぞ!」
あたしは無言でうなづいた。
その頬に、何か妙なものが這ってるような感覚が走る。あれ、と気付くと、目が熱い。あれ。
だらだら、と涙が伝ってた。何だろこれ。
何であたし、泣いてるんだろ。
「お、おい泣くなよ」
急に久野さんは慌てだす。ええと、と何度か口の中でつぶやくと、そのままあたしを立ち上がらせる。
そしてポケットからハンカチを取り出すと、そのまま背後に回った。行くな、とばかりにあたしは右手で彼の裾を掴む。
何度かためらったあと、辺りを見渡し、彼はあたしを背中から抱きしめた。
ああ、暖かい。
背中がじんわりと暖かくなる。
一息ついていたら、若葉がくす、と笑って言った。
「やっぱりそうなんじゃない」
うるさいね、とあたしは涙を拭いて言い返した。
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