黒い感じ(2)

 彩斗くんから傘を借りた数日後。天日干しをしてしっかり乾かした傘を、学校で私は彼に返却した。お礼に、昨晩焼いたクッキーを添えて。


 趣味って程ではないけれど、時間がある時にたまに私はパウンドケーキやクッキーといったお菓子作りをする。グラム単位で材料を図り、丁寧にメレンゲや生クリームを泡立てるという地味な作業が、私は好きだった。


 忙しくて久しぶりに作ったけれど、まずまずの出来には仕上がったと思う。お父さんもお母さんも「おいしい」って言ってくれたし。


「え、別に傘貸したくらいで、お礼のお菓子なんていいのに」

「でも、本当に助かったからあの時」

「そっか。それじゃ、遠慮なくいただきます」


 小さな袋とリボンで簡単にラッピングしたクッキーを、マジマジと眺める彩斗くん。


「めっちゃうまそうじゃん。このクッキー、どこで買ったの?」

「あ、これ買ったんじゃないよ。私が家で作ったの」

「作った⁉ これを⁉」


 大層驚いた様子で声を上げる彩斗くんに、こちらの方がびっくりして気圧される。


「すげーじゃん! 店で売ってるクッキーみたいに形が綺麗!」

「べ、別にそんなに難しくないんだよ。何回も作ってるし……」


 勢いよく褒められて、嬉しくなって私は謙遜する。圭太とお父さん以外の異性のためにクッキーを作ったことは、そう言えば今までに無かった。

 圭太はもう家族のような存在だから、”男の子”という存在に送ったのは生まれては初めての感覚だった。


「もう食べちゃおっと。少し腹も減ったし」

「まだ二時間目始まる前なのに?」

「成長期の男子は二十四時間空腹なんだよ」


 丁寧に袋を開けて、彩斗くんがクッキーを口に運ぶ。「うまい! さくさくだね。こんなの作れるなんて、心葉マジですごい」と、私の目の前で破顔する。

 そんな彼の表情を見た瞬間、心がキュン、と一気に温まった。温まるを通り越して、熱いとすら感じた。なんだろう、この熱は。


「そっかー、よかったよ」


 努めてあっさりと言う私だったけれど、気持ちはとても昂っていた。どうして、彼が私の作ったクッキーを笑顔で食べている光景を見ただけで、私はこんなに嬉しくなるのだろう。


 しかし、気持ちの方は上を向いても、朝から感じている頭痛の方は全然治らない。急にずきりと痛みが走って、私は密かに顔をしかめた。


 実は朝から少し具合が悪かった。この前本屋で分かりやすい参考書を見つけたのをいいことに、昨日もおとといも睡眠時間を削って勉強してしまったせいだろう。


 クラス委員の仕事は最近結構頻繁で、帰宅が遅くなることが多かった。また、なぜか先生たちには私によく雑用を頼む。「七瀬さん、真面目でちゃんと仕事してくれるからつい頼んじゃうんだよね」と以前にひとりの先生に言われたことがある。


 勘弁してほしい言い分だったけれど、人からの頼みを断れないようにできている私は、嬉々とした表情をして、先生からの依頼を引き受けてしまうのだ。

 そんな自分がもちろん嫌いだったけれど、どうしようもない。もうとっくに諦めている。

 だから私は、自分の身を削るしかないんだ。


 そんなことをこっそりと考えながら、クッキーを次々と食べていく彩斗くんと他愛のない話をしているうちに、チャイムが鳴ってしまった。二時間目の授業の数学が始まる。


 そして、授業が始まってしばらくした時。先生に問題をみんなの前で解くように当てられて、私は頭の痛みを気にしながらも答えを黒板に書きに行こうとした。昨日予習した問題ったから、答えはばっちりなはず。


 しかし、椅子から立った瞬間だった。

 強烈な眩暈と頭痛を感じて、私はその場でふらついてしまう。机に手を置いてなんとか体勢を立て直そうとするも、膝に力が入らずへたり込んだ。


「心葉……?」


 隣の席の彩斗くんから、心配そうな声が聞こえてきた。「大丈夫」と言おうとしたのに、口がうまく回らない。

 とうとう私は、その場で倒れてしまった。


「七瀬さん⁉」

「え、何どうしたの?」

「倒れた? 大丈夫なの?」


 先生やクラスメイト達のざわめきが遠くから聞こえた。ぼやけた視界に映ったのは、彩斗くんが私を必死に揺さぶりながら、何かを叫んでいる様子だった。

 大丈夫⁉ 気持ち悪い⁉ どこか痛いの⁉ なんていう彼の言葉が聞こえてきたので、私は首を縦に振ったり横に振ったりして、彼の質問に答える。

 そして「睡眠不足で力が入らないだけ」ということをなんとか彩斗くんに伝えることができた。

 ――すると。


「じゃあ俺、七瀬さんを保健室に連れていきますわ」


 彩斗くんがクラスのみんなに向かってそう言ったのが聞こえた。歩けそうもない私をどうやって連れて行くんだろうと、ぼんやりと思っていたら。

 彼は驚くべき行動を取ったのだった。


 彩斗くんは横になっている私をそのまま私を抱え上げた。いわゆる、お姫様抱っこという持ち上げ方で。


 ――なにこれ。なんで、こんなことを。

 驚いたしみんなの前でこんな風に持ち上げられて恥ずかしさでいっぱいだったけど、倦怠感がひどく声も上げることができない。

 ただ、頬と頭がひどく熱くなっているのはわかった。だけどきっと、発熱しているわけではないだろう。


「そ、それでは頼みます辻くん」


 突然の彩斗くんの行動に、先生も戸惑っているようだった。クラスメイト達の「辻くんやるぅ!」「お姫様抱っこやべー!」なんていう、はしゃぐ声も聞こえてきた。


 私といえば、抵抗することも声をあげることもできず、優しく微笑みながら私を見下ろし、保健室へと運ぶ彩斗くんの顔を見上げることしか許されていなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る