黒い感じ(1)
土曜日の午前中、私は学校近くの大きめの書店に足を運んでいた。もうすぐ実施される実力テストの勉強に役立ちそうな、問題集や参考書を探すためだった。
実力テストは定期テストとは違って、一年生から今まで勉強した範囲が全部出る。その上、高校受験の合否に関わる内申点に大きな影響がある。
だから時間をかけて勉強したかったのに、二学期もクラス委員を引き受けてしまったせいで、放課後が雑務に潰されることがしばしばあった。それで今日は、限られた時間で効率的に勉強できるような本はないかなーという気持ちで本屋に来たのだった。
こじんまりとした個人書店とは違い、さすがは全国チェーンの大きな本屋。中学生向けの参考書のコーナーは大きく、より取り見取りでどれを買えばいいのか迷ってしまったくらいだった。
――買いすぎちゃった。重い……。
書店員さんに袋に包んでもらった参考書や問題集を手から下げると、ずっしりとした重みを感じて、私は苦笑い。勉強に関わる本のお金は、お母さんが気前よく出してくれるけど、さすがにこの大きな袋を看られたら「多すぎじゃないの?」と言われてしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、書店の外に出た。――すると。
「わ、雨……」
大粒の雨が降りしきっていたため、私は慌ててバッグの中から折りたたみ傘を出した。今朝見たテレビのニュースで、通り雨があるかもしれないと言っていたので、念のため持ってきたのだ。
とりあえず傘を差して帰路に就いたのはいいものの、なかなかの土砂降り具合だった。小さな折りたたみ傘は頼りなくて、足元や肩に雨が当たり、どんどん濡れていく。
――早く帰らなきゃ。
そう思った私は早足で進む。靴の中はすでにぐっしょりと濡れている。
そんな時だった。
――あれ、あの子達。
シャッターの閉まった商店の軒下で、小学校低学年くらいの男の子と女の子が雨宿りをしているようだった。しかし、屋根の幅がとても小さいためか、ふたりはできるだけ体を小さくして雨を避けていた。
「お兄ちゃん……どうしよう。三時までに帰らないとママに怒られちゃうよう」
「泣くなよっ。しょうがないだろっ」
「でも……スイミングの時間に、間に合わなくなっちゃう……」
聞こえてきた会話から察すると、彼らは兄妹で、帰宅を急がなければならない状況にあるようだった。
確か、私が本屋を出た時は三時十分前くらいだったと思う。彼らに残された時間はごく僅かなはずだ。
「ううう、足濡れちゃった。冷たい……」
「だからいちいち泣くなっつーの! どうせプールで濡れるだろ!」
泣きそうな声を上げる妹に、お兄ちゃんがフォローになってないフォローを言う。妹の手前強気そうに振舞っている兄だが、眉尻の下がった面持ちはなんとも心もとない。
私は遅くなっても怒るママはいないし、この後スイミングもない。そう思ったら、深くは考えずに彼らの方に自然に近寄っていた。
「ねえ、君たち。この傘使う?」
彼らと一緒に軒下に入り、使っていた折りたたみ傘を兄の方に差し出す。ふたりはきょとんとした顔をして、しばらくの間私を無言で見つめた。いきなり見知らぬ女が話しかけてきて、驚いたようだった。
「早くお家に帰らなきゃ、ママが心配するよ。ね、この傘にふたりで入って、帰りなよ」
ふたりの警戒心を解くように、できるだけ柔らかい口調で私は言った。そんなに大きくない傘だけど、ちいさなふたりが入るには十分なサイズではある。
「いいの……? でもお姉さんの傘でしょ。お姉さんは濡れちゃうんじゃないんですか?」
兄の方が、おずおずと私に尋ねてくる。自分が困った状況だというのに私の心配をしてくれるなんて、さすが常に妹の面倒を看ているだけあるなあと感心した。
「私の家、もう近くだから。走っていけばそんなに濡れないよ」
本当はちょっと遠いけれど、ふたりに余計な心配をさせたくなくて、笑顔でそう言った。
「わー、よかった! ありがとうお姉さん!」
妹の方が満面の笑みを浮かべて、素直に私の傘を受け取った。兄は「おい、ちょっと待てよ」と妹にいい、少し遠慮がちな様子だ。しかし私がニコニコしていると、結局私の傘を使うことにしたようで、ぺこりと私に会釈をする。
「あ……ありがとうございます」
「よかったー! お兄ちゃん、行こう!」
そんな会話をすると、ふたりはひとつの傘に肩を寄せ合って入り、早歩きで歩いて行った。しばらく小さなふたつの背中を眺めていたが、途中で曲がり角を曲がってしまい、その姿は見えなくなった。
――さて。どうしたもんかな……。
軒下から灰色の空を見上げて、私は苦笑を浮かべる。雨が止む気配は全く無い。スマートフォンで天気予報を見てみたけれど、大雨注意報が発令されていて、夜まで断続的に雨が降るという予報になっていた。
この辺ってコンビニやスーパーのような、傘を買えそうな場所は無かった気がする。このまま帰るしかないか……。幸い、買った本たちはビニール袋に入っているから、自分以外に被害は無さそうだ。
と、全然弱まらない雨を苦々しく思いながら、濡れて帰ることを決断した――その時だった。
「心葉」
「へっ⁉」
傍らから突然名前を呼ばれたので、驚いた私は素っ頓狂な声を上げてしまった。雨に気を取られていて全く気が付かなかった。
いつの間にか、私の隣にその人はいた。――彩斗くんが。
彼は私の隣に並ぶように、軒下に入っていた。手には紺色の傘を持っている。
「彩斗くん。こんなとことで会うなんて、偶然だね」
「うん。親に頼まれた買い物の帰り。心葉は?」
「テスト勉強に使えそうな本が欲しくて、ここの近くの大きな本屋に来たんだけど……。雨に降られて困っちゃって」
「ふーん。……そんな風に困るんなら、あの子達に傘なんて貸さなきゃよかったんじゃないの?」
「えっ……」
虚を突かれる私。幼い兄妹に傘を貸した場面を見られていたのか。
「確かに、言われてみればそうなんだけど……。小さい子達だったし、女の子は泣きそうだったし……。気づいたら、貸してた」
深く考えてはいなかった。なんとなく、あのふたりが心細そうな顔をして雨に濡れるよりは、自分ひとりが被害に遭った方が、マシなように思ったんだ。
すると彩斗くんは呆れたように微笑んだ。
「心葉って、本当にお人よしだね。あのふたり、知り合いでもなんでもないんでしょ?」
「うん、知らない子」
「別に見て見ぬふりをしたところで、誰も心葉を責める人なんていないよ。学校の人とは違って、あの子達とこれから関わることもないんだから、彼らの望みを叶えたところで何の得もないよ」
「そう……なんだけど。でもほっておけなかったんだ」
「……そっか」
そう言うと、彩斗くんの微笑みが濃くなった気がした。どこか満足げに見えたのは、何故なのだろう。
「あと心葉さあ。俺たちが初めて会った日、俺の財布拾って交番に届けてくれたでしょ」
「え⁉ なんで私が届けたってわかったの⁉」
謝礼を拒否したから、私の連絡先は警察の遺失物の書類には記載していない。彩斗くんは誰が財布を拾ったかなんて、分からないはずなのに。
「気になったから警察の人に聞いたんだよ。どんな人が届けてくれたのかって。そしたら俺と同い年くらいの髪の長い女の子だって言われて。ああ、防波堤で会ったあの子だって分かった」
「そうだったんだ……」
「あの日、財布無いことに気づいたのは心葉と別れて一時間くらい経った時だったかな。それで防波堤のところに戻ったら、もう財布は無くて。あー、これは盗られたかなって諦め半分に交番に行ったんだよ。そしたら、ちゃんと届けられてた。中身はまったく減っていない状態で」
「拾った財布の中身なんて盗るわけないじゃない」
当然のように私が言うと、彩斗くんはは小さく嘆息して、呆れたような面持ちになった。
「世の中、そういう人の方が少ないよ。拾った財布に入ったお金なんて、誰からも咎められずに自分の物にできる格好の機会なんだから」
「え⁉ そうなの⁉」
心底驚いた。落ちている財布なんて、落とした人の物に間違いない。拾った人がそれを得る権利なんてあるはずないではないか。
「……心葉のそれ、生まれつきなの? ほんっと正直でお人よしすぎ」
「そ、そうかな?」
今まで自分のことをそういう風に思ったことはなかったから、虚を突かれたような思いだった。
「俺だって、財布を落とすなんて不注意やらかしたから、お金を盗られても仕方ないかなーくらいに思ってたんだよ。だからびっくりしたんだ。しかも、その子はお礼をもらう権利すら放棄したって言うから、ますますびっくりした」
「拾って届けただけだし、お礼は別にいいかなって……」
本当にあの時は「早く届けてあげなきゃ」という思いしかなかった。彩斗くんの言い分に、逆にこっちの方が驚かされる。
「ほんっと、心葉ってお人よしだね。傘の件といい財布の件といい、誰も見てないところでも、人に優しくしちゃってさ。その結果自分が困ってるなんて、お馬鹿だねー」
「……! 馬鹿とは失礼な!」
茶化すように言われて、ムッとした私は口を尖らせて言う。そんな私を見て彩斗くんはおかしそうに笑うと、背負っていたリュックの中を漁り、私にある物を差し出した。
「そんなお馬鹿さんに俺からのプレゼント。これで濡れないで帰れるでしょ?」
「あ……傘」
それは真っ黒の小さな折りたたみ傘だった。
「雨が降りそうだったから普通の大きな傘を持って出かけたんだけど、リュックの中にこれが入れっぱなしだったこと忘れてた。ま、相合傘をして家まで送ってもいいけど?」
「……借してください、これ」
男の子と傘に一緒に入って家まで送られた日には、お母さんが根掘り葉掘り聞いてくることは間違いない。近所には由梨や圭太の家もあるし、目撃されたらそれはそれで面倒だ。
「なんだ、残念」
「…………。よくわからないけど、とにかくありがとう。傘は乾かしてから返すね」
「うん」
彩斗くんに差し出された傘を受け取る私。すると彼が、神妙な面持ちで顔を見てきたので、私は眉をひそめる。
「――何?」
「いや……。心葉ってもしかして、透明なのかなって」
「とうめい……?」
一体何のことを言っているのだろう。まったく分からなくて、私は首を傾げた。すると彩斗くんは苦笑を浮かべる。
「あ、ごめん。なんでもないよ」
「…………? ふーん」
なんだか誤魔化すような言い方だった。でも、追及しても答えてくれそうな感じはしなかったしので、私はそれ以上は聞かなかった。
そして私は「それじゃ月曜日ね。傘、ありがとう」と軽く彩斗くんに挨拶をして別れると、彼から借りた傘を差して帰路に就いた。
真っ黒な折りたたみ傘が雨粒を弾いていく。その音がやけに小気味よく感じた。
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