第182話 奏での力
場所は工房から、現在建設中の新たな社へと移された。
実は、この本殿とする予定だった場所に、突如地面が隆起して紫をした巨大な輝石が現れたのは、しばらく前のことだ。そう、コトリとカケルが、クレナとソラに伝わる古い詩歌を詠んで、ルリ神の願いを叶えた時のことである。
これは、時期を考えても、見た目の神々しさから言っても、おそらくは天磐盾その物。そこで急遽、クレナの琴鳴社からはスバルとヤエ、ソラの紅社からはシグレが駆けつけて、これを御神体と指定し、大神をお祀りすることになった。
建国のどさくさに紛れて、それぞれの王宮から出てきた古書によると、元の天磐盾もここ香山にあったらしい。つまり、香山は、聖地として返り咲いたことになる。そして、琴姫として神の御声を音に変える奉奏にあたり、これ以上の場所は無いと思われた。
コトリは楽士達を引き連れて、天幕で仕切られた奥へと進んでいく。雨などで濡れないようにと配慮され、仮設の木造小屋に納められたそれは、陽の光に当たらずとも燦々と輝く紫。やはり天磐盾は、近づくと只人であっても何かを感じられるような、独特の神秘的な空気を纏っているのだ。シェンシャンだけでなく、あらゆる神具が活性化するような、底知れぬ力の源がそこにある。
コトリは、極めて冷静にカケルの化身となるシェンシャンを抱えると、その紫の岩の前に佇んだ。
曲はもう、アオイ達の推薦で決まってある。コトリが帝国に攫われていた間に作曲された、あの曲だ。名も、護国の調べと付けられた。
クレナとソラの様々な地方に伝わる童唄が盛り込まれていて、聞けば誰しもが懐かしさを感じられるような曲。しかも、神気の色は、長い年月をかけて綿密に折られる錦の如く艶やかに組み合わされて、考えうる限り最高の奉奏となるよう計算し尽くされている。
武器は揃った。
コトリは、儚げな笑顔で、背後の楽士達を振り返る。皆、決死の覚悟を抱き、緊張が滲んだ真剣な眼差しだ。
「さぁ、参りましょう、紫の奏士達。この国を守るのは、大神の御力を現にもたらす我ら奏で手。清き聖なるこの地を汚す者共を、音の力で駆逐するのです!」
その声に応え、楽士達の背を後押しするかのように、紫の大岩は一際眩しく輝いた。
今、歴史に残る大演奏が始まる。
数多の神々に取り憑かれたようにして弾き始めた女達は、一心不乱に神気を操った。音以上の速さで、奏でが、力が、拡散し、それらは、どこまでも続く高い空へと吸い込まれていった。
◇
「空が紫だ」
そう言ったのは、誰だったか。荒れ地で。田舎の小屋の真ん前で。川辺で。荷車を引きながら。民という民が、空を見上げた。
朝方でもない。夕方でもない。
なのに、何ものにも形容しようのない深い紫に空が染まっている。そこを薄い羽衣のような一筋の雲が細く、長く棚引いていて、ずっと西の方まで続いていた。
世にも不思議な光景なのに、恐ろしさは全く感じられない。
星が流れている。
否、あれは星ではない。力だと、各地の神官達は確信した。
羽衣から溢れ出る虹色の輝き。そこから溢れる煌めきは、音もなく、雨のように地上へ振り注いでいく。
「恵みだ。紫雲の恵みだ」
ニシミズホ村の年老いた神官は、あまりの感動に涙しながら、空を仰ぎ、手を合わせ続けた。
どこからか、子供たちの高い声が流れてきた。これは、歌。そうだ、ミロクとかいう男が奏でていた旋律。
シェンシャンを取り出す者も現れた。ソラとの行き来が自由になり、たくさん楽器が流通すると同時に、弾ける者も爆発的に増えた。
シャラリ、シャラリ。シャラシャラリ。
爪弾くシェンシャンに合わせて、聞きかじっただけの虚覚えの歌を口ずさむ。さらに人が増えた。合唱になっていく。太鼓や笛といった楽器も加わった。それらは、次第に大きくなって、地を揺るがすようなうねりに成長していく。
コトリ達が引き起こした奇跡と、一致団結した民の祈りの力が今、この新国であり神国である紫を、具現化した神の慈悲で、全てを守り、覆い尽くしていった。
◇
それは、ちょうど旧ソラとの国境から半日の距離で陣を組んでいたアダマンタイト軍が、いよいよ号令に合わせて進撃しようとしていた最中のことであった。
集められた兵は、総勢十二万。人がまばらにしか住まぬ紫国など、兵二人で人一人殺せば、あっという間に民が全て消え失せるのではないか。それ以前に、この特別製の鎧に身を包んだ兵の数を目にするだけで、仰天して死ぬのではないか、と皆が盛り上がっている。
けれど、セラフィナイトとその取り巻きだけは、未だに警戒を解かず、南国特有の陽気な兵達に混じって談笑する余裕はなかった。
紫。もはや、侮りの対象とは言えないと腹を括った彼は、まず、希少鉱物を精製する過程で算出される毒を混ぜた土を用意した。これを撒かれた土地は、たちまち作物が育たない死の土地となる。
川には、毒も流した。もはや、人が死ぬのは致し方ない。どうせ、この地の者が生き残ったとしても、統制して生活させてやる算段を立てるだけでも面倒だ。
幸い皇帝も、人を支配したいのではなく、土地を支配したいという欲望のみ。特産物があるわけでもないのだから、占領さえできればいいのだ。地図上で帝国の色に塗りつぶすことさえできれば、他は何も要らない。そもそも戦とは、人がたくさん死ぬものだ。常識である。
しかし、早速誤算が生じていた。
撒いたはずの土は、国境沿いの見えない障壁に跳ね返されて、アダマンタイトの森を広く枯らしてしまったのだ。川の毒も、どういうカラクリなのかは不明だが、近隣の村で人がバタバタ死んでいるという事実も無いらしい。
また、神具か。という言葉が、セラフィナイトの頭に浮かんだが、そんな負け惜しみのような台詞も今日で終いだ。
十二万。帝国本体の軍にも匹敵する頭数である。アダマンタイトは、かつては大陸の東側ほぼ全てを占拠する大国であった。その名残なのか、戦に関する需要で市場が活性化しているからなのか、人々の士気は高い。
何よりも、これだけいれば、蟻を踏む象のごとく蹴散らして、物足りない程に早く、占領下におけるだろう。さすがに今度こそ敗北の文字は完全に見えぬ、万全の準備周到ぶりなのである。
セラフィナイトは、軍をもう少し国境側へ進めることにした。
「全軍進め!」
すぐに、伝令が各部隊へと走り去り、予め定められていた通りに歩兵や騎馬隊が移動を始める。それは、滞りなく続くかに見えていた。しかし――――。
「紫の、空だ」
誰もが天を見上げる。魅入られてしまう。いつの間にか、全ての兵が立ち止まっていた。
すると、何やらキラキラと光るものが降ってくるではないか。神々しい様子だが、セラフィナイトは直感的に悪しきものだと判断する。
「アレを見るな。触れるな。身を隠すんだ!」
慌てて叫ぶも、もう遅い。彼を取り囲む兵達も、次々と力無く地面の上に座り込んでいく。憔悴しているというよりも、一様に恍惚とした表情を浮かべていて、もはや気味が悪い。
「アイツらは、今度は何を仕掛けてきたんだ?!」
マントを頭からすっぽり被って喚き散らすも、答える者は一人もいなかった。広がっていく、ある種の虚無を見つめることしかできない。明らかに、セラフィナイトが知る常識ではありえないことが、起こっている。
使い物になる人員がいなくては、いくら頭数があっても、ただの荷物だ。戦にはならない。
こうなってしまえば、最終手段をとるしかない。
セラフィナイトは天幕へ入ると、穏やかな表情で眠るように倒れてしまった兵から通信機を奪った。ようやく慣れてきた暗号を激しく刻みつけて、帝都にいる自らの屋敷の者へ連絡をとろうとする。しかし、反応は返ってこない。必ず誰かが通信機に張り付いているよう、しっかりといい含めてあったはずなのに。常に忠実だった手の者たちの顔を思い浮かべるも、舌打ちしか出ない。
「糞ったれ。どうなってるんだ?!」
天幕から出ると、空から落ちてくる美しき悪夢は、さらに色を増して、セラフィナイトの全身から思考と気力を奪っていく気がした。
「精神に働きかける類のものか」
齒を食いしばるも、踏み留まることなど叶わない。次第に、視界が朦朧とし始めた。そこへ――――。
「さすが、王子様はちがいますね」
最後の力を振り絞って振り返ると、紫へ潜り込ませていたソラ出身の密偵が立っていた。その男をだけはやけにシャンとしていて、この異様な状況下、なぜか平然としている。
「お前、まさか……」
「やっと気づいてくださいましたか? お察しの通り、あなたが子飼いとしていたつもりの男は遠の昔にこの世にいません」
「こんなところで、お前のような者に殺されるなど……」
「あ、勘違いしないでくださいね。これでも、貴方様を紫の恵みの雨から守りにきたのです」
「そんなこと、信じられるわけが」
「無理して話さない方がいいですよ。とにかく、まだ死なれるわけにはいかないのです。お命は、ちゃんと役に立ってくださってから、改めて頂戴しますからね」
紫の間者はそう言うと、ついに意識を手放したセラフィナイトの腕に、特製の神具をつけた。
そんな彼らの頭上。一際強い光が一筋、東へ向かって泳いでいく。まるで、矢のように、まっすぐどこかを目指しているかのようで。
それは、アダマンタイトを越え、さらに西の空へと進んでいった。
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