第180話 最高傑作になる
カケルは、コトリに触れた最後の感触を忘れないように、ぎゅっと拳を握りしめると、再び音を立てずに部屋を出た。振り返ると決心が鈍りそうで、真っ直ぐ工房へと向かう。
古より、神への捧げ物として最高のものは人だ。うら若き乙女が良いともされているので、咎人を使うことも頭をよぎったが、今から為すことはコトリを守り抜きたいという願掛けでもある。やはり自分自身の命を差し出すのが一番であろう。
故に、まずは工房の一角にある水場で禊をした。さっぱりしたところで、白装束に着換え、作業場へと移る。
卓の上にあるのは、すっかり使い込まれた感のある工具箱だ。それを開けると、ソラが降りているという工具の一つ、ひとつを手にして、カケルは呟いた。
「どうか、力を貸してほしい」
そこへ、準備していた墨の塊を持ってくる。予め、様々な神を降ろしているものだ。こういった墨を使うことで、一つの神具へ効率的に複数の神を降ろすことができる。
カケルは、さらにコトリのことを想いながは、ありったけの神の名と、それらを賛美し助けを希(こいねが)う祝詞を、工具を使って墨に刻んだ。墨はその度に、一瞬仄かに金色の光を纏い、その力を有していく。
そうして出来上がった特別の墨は、ソラにある紅社の敷地内で湧き出ている通称神水を使って溶く。さらに、自らの血を混ぜる。
これで、下準備は整った。
近くの卓をいくつか片付けて、床に大きな白布を敷く。そこへ、作ったばかりの渾身の墨を持って、文様を描いていく。それらは花であったり、草であったり、獣であったり。時に風を表したような抽象的で不思議な形状である。神具師にしか読み解くことのできない暗号のようなものだ。
緻密な文様に、ぽたり、ぽたりと汗が滴り始めた頃、それらは丸くまとまった円陣となっていた。
さらには、自身の羽織る衣にも同じ墨を用いて文様を書き込んでいく。それも終えると、そろそろ仕上げだ。
以前に、コトリに預けてあったシェンシャンを抱えて、円陣の中央に座す。そして、樽いっぱいの水飴のようなものを頭からかぶった。たちまち、円陣と衣の文様は崩れて歪んでしまうのだが、これは祝詞の効果を媒体となる布、カケル、シェンシャンにしっかりと定着させる意味がある。
ここまで来ると、妙に澄み渡った心持ちになれるものだ。カケルは、躊躇わずにミズキから借りた剣へ手を伸ばす。やけにギラついた刀身。無骨な柄には、カケルとシェンシャンを繋ぐための祝詞を書き込んだ晒しを巻く。
いよいよ、祝詞を発動させる時が来た。
自らを神具とする。それも、最高傑作の神具に。
媒介はこの身。
柄を握る手に、力が入る。
シェンシャン――――神の声の代弁者となりし日には、その力が紫国全土へ行き渡り、果ては遠く、帝国の息の根を止めるものとなりますように。
その力は、決してコトリが嫌うような暴力的なものではなく、優しくもしなやか、それでいて強い力となりますように。
この国を守れるよう、これ以上の戦を退けられるよう、コトリを全てから守れるよう、この地の神々がかつてないほどに活性化して、ありったけの奇跡が起こりますように。
そして、いつかコトリが神の世界に逝く時が来たら、再び互いに唯一無二の相手として出会えますように、と。
結局、王座も放り出した。
コトリの夫にもなれなかった。
でも、誰よりも、何よりも、もちろん自分自身よりも、コトリが大切だった。
コトリは、初めて奏でを聞かせてくれたあの日から、ずっとカケルだけの琴姫だった。
特別な、特別な姫だった。
そんな彼女に並び立つことは叶わなかったけど、一矢は報いたい。カケルにしかできない、カケルなりの方法で、全てを懸ける。
最後に目をしっかりと閉じて念じた。
――――コトリ!
喉元を剣で一突き。
カケルの全身を紫の炎が覆い、空間が歪んだ後、静かになった。
無人の工房が、残った。
◇
クロガは、背中がゾワリと震えたのに気がついた。経験したことが無い程強い、神気の波動。
理由は分かっている。何が起こったのかも、分かっている。けれど、本当にソレが成ってしまったのか、頭での理解すら追いつかないまま、兄がいたはずの工房へと急いだ。
「本当に、やりやがった」
ミズキも空気を切り裂いて届いた何かに気づいたらしく、先に現場へ辿り着いていた。
人の気配は無い。代わりに、圧倒的な神気を纏った、一本のシェンシャンが横たわっている。
見た目は、昔兄がコトリのために作っていたものと、ほぼ同じだ。貝殻や輝石で品良く飾られていて、どこか可愛らしさのある最高級品。
しかし、胴の下腹分、弦の一端を止めてある半月と呼ばれる部分に、強く青の光を放つ石が輝いている。
「礎の石か」
ミズキは、やや厳しい目つきでそれを睨む。完全に既視感があるものだった。あれは、先だって天磐盾が一つに戻りし時に、青から紫に変化した勾玉だったのに。また青を纏っているなんて。
「おそらく兄は、コトリ様との、この世の縁を断ち切って、一人あちら側へ逝ってしまったからですね」
クロガは、そう言いながら工房を忙しなく見回している。けれど、その兄の姿は無い。亡骸も何も残っていないので、本当にいなくなってしまったのか、全く実感が湧かないのだ。しばらくすると、どこかの物陰からひょっこりと顔を出して、また新たな神具を思いついたんだとか言い出すような気がして。
気づくと、一筋涙が頬を伝っていた。
クロガは、どんな顔をすれば良いのか分からない。無事に自らを神具と変えた兄の所業を責めるべきなのか、喜んで称えるべきなのか。それよりも、彼の最愛、コトリのことを託された重みと悔しさをどう受け止めれば良いのやら。
ミズキは、一歩、また一歩と、ゆっくりと、その不思議なシェンシャンへ近づいていった。
「まさか、本当に成功しちまうとはな。なぁ、やっぱりお前は店主さんなのか? おい。何か言ったらどうなんだ?」
ミズキの声が震えて、小さくなってちく。
カケルが決めたと言い出してから、まだ丸一日程度しか経っていない。ミズキも、クロガと同じく、未だに信じられない気持ちなのだ。
そこへ、工房の扉を乱暴に開け放つ音がした。ミズキとクロガは慌てて振り返る。
立っていたのは、まさしく鬼の形相のサヨと――――
紅く光る勾玉を握りしめて、今にも倒れそうになっているコトリであった。
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