第177話 密偵のふりをした密偵と
セラフィナイトは、アダマンタイトの城へ戻ってきていた。帝都よりも数歩遅れた文明の街並みが、城の敷地内にある塔の上からは見渡せる。彼の背後にある国旗は、曇天の空を魚のように蛇行しながら泳いでいて、時折耳障りな大きい音を立てていた。
「ここで聞こう」
セラフィナイトは、足元に蹲る黒い塊に声をかけた。
「それでは、報告します」
それは、ソラ出身の者だった。背は低く、顎が鋭角に尖り、常に眉間に皺があるという、いかにも卑屈そうな男。
だが、こう見えて、あのアグロにもそこそこ重宝されるだけの役目についていた元貴族である。故に、セラフィナイトから請われて、クレナやソラの言葉を教えたこともあった。しかし今は、ソラの四兄弟がなした粛清から逃れ、名を変えて、セラフィナイトの元に下っている。
「紫には、無事に潜入することができました」
セラフィナイトの耳にも、紫がクレナを乗っ取り、かつ、ソラを吸収して建国したという話は届いている。倒して統治せねばならない国が二つから一つに減るのは、手間が省けたと喜ぶべきことだが、もはや一筋縄にはいかない相手だということも知れている。
そこで、ちょうど良いところに転がり込んできた、この男を使うことにしたのだ。男自身は、もはやソラの地を踏みたくはないと考えていたが、子飼いとなった以上働くしかあるまい。捕らえられることを危惧しながらも、重い足をソラへ向けたのであった。
すると、こんな顔の男はどこにでもいるのか、それとも芝居が上手かったのか。驚くほど簡単に新国、紫に馴染むことができた。何より、祭りのような浮足立った機運があり、民が新たな国にかなりの期待を抱いていることが感じられる。
こんな時は、良くも悪くも隙が生まれるものだ。ソラの旧体制やクレナ王の馬鹿さ加減などを適当に罵れば、簡単に紫の下級役人に近づくことができた。
そう。既に役人が各地に配置されて、田舎にまで本格的な統治の手が行き届いているのである。
というのも、紫は元から、小さな国のようにしっかりとした機構がある組織だった。様々な専門部署があり、ハトという男の下、指示系統も確立されている。何より、民は人間としてまともな生活をできるようになるべきだという志。そして、神からの恵みは確実に行き渡らせて恩恵に預かるべきだという方針が固く、それに賛同する者達の結束は信じられない程に固い。そんな絆とも呼べる目に見えない力が、そのまま新国に引き継がれているのであった。
当初は、建国期にありがちな内部の対立や、民の台頭による貴族からの反発や混乱などで、手を施さずに自滅してくれる可能性も考えていたが、そんな気配は微塵もない。本来残念がらねばならぬところなのだろうが、セラフィナイトとしては、砦での一件の仕返しをする機会を失わずに済むので、それも良しとしている。おそらく、一戦交えて勝利した方が、皇帝の覚えも良くなるだろう。
「それで、どうだ。あちらは戦準備をしているのか?」
「それが全くもって不明です。私は、旧ソラの地までしか行っておりませんが、未だに神具ばかりを作っているだけで、民の表情以外、特に変わったことはありません」
「金は握らせたんだろうな?」
「えぇ。ですが、紫も重要なことは幹部級で決定されているようで、格下の者は詳細をほとんど知らされていないようです」
「それは、お前の素性がバレて、口を割らなかっただけではないのか?」
セラフィナイトは、ちらりと男を見る。やや髪の薄い頭が、小刻みに震えていた。
「いえ、不審には思われていないはずです。最新の神具をわざわざ自慢されましたから。これは、気を許されている証拠です」
男曰く、帝国の銃に似た形状のもので、一応火種が飛ぶ仕掛けはあるらしい。実際に使っているところは確認できていないが、おそらくは見掛け倒し。そもそも銃は、ほんの数カ月で研究開発から実用投入までできる代物ではない。威力は弱いと見て良いだろう。しかし、そう侮ることで前回は負けた。
「つまり、奴らなりの戦準備はしているということか」
きっと、銃と同じと考えては、また痛い目に遭う。セラフィナイト側も、紫を出し抜く策をいくつか持っているが、相手も何かと知恵を絞っているのだと思うと、潰しがいがでてきたというものだ。
「それで、その最新の神具とやらは手に入れてきたんだろうな?」
「いえ、さすがにそれは」
思わず、舌打ちが出た。
「使いない犬め」
男は怯えたように身を小さくする。セラフィナイトは、その日何度目かの溜息をついた。あまり虐めると、貴重な密偵を失ってしまうかもしれない。仕方なく、話を変えることにした。
「ところで、お前は我が国の兵器と紫の神具、どちらが強いと思う?」
「時と場合、条件や数にもよります」
少し考えて答えた男の返事は、あくまで無難なもの。反射的に、帝国が勝つと言わないだけ、まだ忠実と言えるかもしれないが、どちらにせよセラフィナイトが聞きたい事は別にある。
「此度は、アダマンタイトが国を上げて挙兵し、紫へ向かうことになっている。兵器に関しては、本国から大量に取り寄せてるから、足りないなんて言わせない。兵達も、日頃から鍛錬されている精鋭が中心だ。対する紫は、ろくに戦争を経験したことのない田舎の小国」
「はい、そうですが……」
男は、おどおどし始めた。
「それでも我が国は、圧倒的な勝利が出来ないと言うのか」
「いえ、滅相もございません。ただ、あの地は神に守られし特別な場所です。しかも、物事に絶対というのは無いものであって」
「そう、それだ。神。神具というのも、建前上、神の力を出す道具なのだろう? そんな非科学的なもの、まやかしに過ぎないはずなのだが」
未だにセラフィナイトは、神具について掴みきれていない。以前、手の者が見つけてきたラピスという帝国の血を引く少年神具師に話を聞いたところ、神は実在するし、神具は奇跡を起こすと話していたが、一種の手妻のようなものだと考えている。なぜなら、その場で神具を使わせてみたものの、全て不発に終わったのだ。
少年はクレナやソラ以外の場所では使えないなど、言い訳じみた説明をしていたが、結局はいんちき占い師の呪い道具と同程度に過ぎないということだろう。
けれど、どうしてか神具のこと、そして来たる戦のことを思うと悪寒がするのだ。ただの武者震いならば良い。しかし、どこか不吉な予感であるような気がしてならないのだ。
そんな、少し顔色の悪いセラフィナイトを見て、男はおそるおそる口を開いた。
「あの、そもそも神具というのは神気で動きます。神気は、あの地では、どこにでもあります。信仰だったり、日々の願いや感謝であったり、そういった抽象的なものの塊なんです。先祖が死んだら神になって、今生きる者の手助けをするために、力を貸してくれると言われております。それは、神具師の祝詞をもって具現化されて、この世に奇跡を引き起こすのです」
男の話は、言葉としては頭に入ってくるが、いまいち現実味に欠けた。何せ、帝国の常識で考えても理解できない御伽話である。
しかし、先だっての戦いでは、兵の体に力が入らなくなるとか、無気力になるとか、不思議なことが重なって撤退を余儀なくされた。普通に戦う以前の問題だったのだ。これでは、対策のとりようがない。
こうなっては、禁じ手とも言える酷い遣り口で民を抹殺するぐらいしか、セラフィナイトは思いつかなかった。普通に対峙するにしても、ひとまず兵站の確保と、万が一撤退せねばならなくなった時のために、退路と言い訳ををしっかりと確保するぐらいしかできそうもない。
あいにくラピスの行方も掴めなくなってしまったので、こちらも神具で対抗するという策も消えてしまった。
「神か」
セラフィナイトが呟いた。本当に神というものが存在するならば、今すぐにでも天啓を授けてもらいたい気分である。
身の回りの期待に答えたい、そして父である皇帝の鼻を明かしたい一心でやって来た極東の地。これまで己の正義だけを信じ、世間体を無視して暗躍してきた時代を含めて、正直苦労しかしていない。
もし神がいるのなら、もう少し楽な人生を歩ませてくれても良かったのではないか。せめて、この苦しみや本音を吐き出せる相手を用意してくれても良いのではないかと思うのだ。
「お前も神の存在を信じるくちか?」
男は、少し顔を上げた。相変わらずの醜男だ。
「答えにくいですね。信じるというか、居ると仮定して過ごすと目的を見失わずに生きることができます。私の場合は、神というよりも自分に向き合っているのに近いですね。畏れ多いものに対し、それに失礼にならないように、叱られないようにと考えて動いてます。かつ、やりたいことを成し遂げる誓いを立てることは、相手がなんであれ、自身を鼓舞できますから」
男の声に淀みはない。まさか、こんなにすらすらと応じてくるとは予想していなかったこともあり、セラフィナイトは何度か目を瞬かせた。
何が、かは分からない。
何かが、彼の中で引っかかった。
「で、お前の真の目的は何だ?」
塔の上を吹き抜ける風が、セラフィナイトの髪をかきあげる。強い向かい風。その間、男は微動だにしなかった。
「平和です」
追われる身ですから、と付け足したが、やはりセラフィナイトには違和感が拭えなかった。
「では、そういうことにしておいてやろう」
使い勝手の良い手駒だと思っていたが、考えを改めたほうが良いかもしれない、とセラフィナイトは自らを戒める。何せここは、アダマンタイト。侵略からの支配地。未だに帝国への反感が強い。そして、紫は目の前だ。つまり、敵地も同然。
「俺は、孤独だな」
そう言うと、手を振って男を下がらせる。次の瞬間、もうそこに男はいなかった。常人の身のこなしでないのは、明らかだった。
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