第143話 社襲撃
コトリ失踪の報せは、社総本山にも届いていた。もちろん、スバルやヤエの耳にも入ることとなる。
「今こそ影武者の本領を発揮する時です」
狼狽えるスバルをよそに、ヤエはこう宣言すると、いつも通り王女らしい衣を纏い、シェンシャンを片手に庭へ出た。侍女が用意した敷物の上に座り、神経を研ぎ澄ます。
しゃらり。
弦を弾くと、いつもよりも、悲し気な音が出る。
ヤエは、唇を強く引き結んだまま、空を見上げた。今にも雨が降り出しそうな低い雲が、頭上に広がっている。
「姫様」
帝国は、無事にコトリを捕獲したと思い込んでいるだろう。だが、本物はまだクレナの社にいて、手元の娘が偽物だという疑惑が浮上すれば、どうするだろうか。
もし、別の人物をコトリと称して皇帝に引き合わせとなれば、使節団も罰せられるに違いない。すると、コトリ本人だという確証が得られない限り、クレナからそう遠くへ離れることはできなくなってしまう。つまり、紫や菖蒲殿からの捜索隊が、コトリに追いつくことができるかもしれない。
「どうか、ご無事で」
いつの間にか、スバルはいなくなっていた。社は社で、せねばならぬ事が多いのだ。各地の同胞へ、コトリに関する情報を収集すべく、呼びかけの文を出すこと。帝国と思しき人が密入国しているとの噂があるので、そのための警戒。さらには、今般の流民や暴徒騒動で食うにも困った者達への施し。もちろん、神職としての日々の御勤めもある。目の回る忙しさだ。
しばらくすると、ヤエの衣に、ぽつりぽつりと、小さな丸い染みができ始めた。雨だ。
社務所の軒先から、侍女達がヤエに中へ戻るよう促している。けれど、ヤエは動かなかった。
今日の曲は、初代王クレナを称えて、百年ほど前に作られたと言われている「琴姫の調べ」。シェンシャンの稽古を始めた者が、初めてぶつかる壁となる、やや難しい曲。これを弾きこなせるようになると、「にわか琴姫」気分を味わえるとして、人気がある。
そんな初心者向けではあるが、弾けば弾く程奥深い曲で、比較的単純な旋律だからこそ、弾き手の技量や表現力が試される。
雨は、ゆったりと流れる音の優雅さと反比例するように、次第に激しくなってきた。庭の木の新緑が、叩きつけられる雫に抗えず、しなっている。ヤエの視界も随分と悪くなってきた。雨が半透明な天幕のようにして、彼女を覆い尽くしている。
故に、生垣の向こうに潜む者が、彼女をじっと見ていたことなんて、気が付かなかったのだ。
◇
ヤエは目を開けた。むしろ、なぜその直前まで目を閉じていたのかが、分からなかった。数度瞬きすると、辺りが少しずつ明瞭になっていった。
「叔父上?」
なぜか、スバルから間近に見下ろされている。彼の目から涙が一滴零れて、ヤエの首元に落ちた。それは、そのまま背中側まで肌を伝って流れていく。こんな顔を向けられたのは、初めてかもしれない。何かに焦がれるような、祈りを込めた熱い眼差し。
「もう、大丈夫だ。大丈夫だからな」
唖然としていると、突然起こされて抱きしめられる。いつか夢見た状況ではあった。しかし、こんな扱いをしてもらえる程の何が起こったのか、てんで想像がつかない。
「私、どうして」
どこか頭の芯がぼうっとする。スバルは一度片手で目尻を拭うと、慎重な手つきでヤエを元の寝台に寝かせた。
「帝国の者から、襲撃を受けたのだ」
強い雨の中、びしょ濡れになるのも構わずシェンシャンを奏で続けていたいたヤエ。そこを曲者が狙ってきた。
「琴姫はいただいていく」
片言のクレナの言葉でそう叫ぶと、ヤエが逃げ出さないようにするために、鉤縄(かぎなわ)を投げてきたらしい。縄の端に鉄鉤(てつかぎ)と呼ばれる金属製の折れ曲がった器具がついた武具の一つである。
敵は縄でヤエを巻き取って生け捕りにしようと思っていたようだが、上手くはいかなかった。侍女が気づいて叫び声をあげ、人や衛士が集まってきてしまったのだ。すぐに辺りは騒然となる。弓がつがえられ、マツリからもたらされた強化の神具だという布を巻いた槍が敵に向かって投げ入れられた。
「だが、逃げられてしまった」
スバルは悔し気に、ヤエの身体にかぶせていた衣の端を握り締める。
「でも、なぜ私は気を失って……」
その時になって、ヤエにようやく違和感に気がついた。おそるおそる足元を見る。衣の影になっているので、詳細は分からない。ただ、左足の膝が酷く痛む。
「敵方の武具が食い込んで、血が多量に流れたのだ」
ようやく納得がいった。朧げだった記憶も、少しずつはっきりとしてくる。
痛みと出血の衝撃のあまり、意識が薄らいでいたが、大勢の者達がヤエを庇うようにして敵の前に立ちふさがり、琴姫は絶対に帝国へ遣らないと叫んでいたこと。そして、血相を変えて飛んできたスバルが、自らヤエを抱きかかえて部屋へ運び込み、おそらく社にある最上級の癒しの神具をもって、治療にあたってくれたこと。そして、ずっと手を握って力づけてくれたこと。
まだ、夢の中にいるのではなかろうか。ヤエは、未だふわふわした心地が続いていた。憧れの叔父に、看病してもらえたなんて。
視線をスバルに戻す。見つめ合う形となる。
「もう、コトリの影武者など辞めろ」
スバルは、絞り出すような声で訴えた。
「でも、ようやく第二の琴姫の存在を帝国に知らしめることができました。これで姫様も、すぐに帝都へ連れていかれることはないでしょう」
血を失ったからなのか、ヤエの声に力はなく、か細い。スバルは、さらに泣きそうな顔になった。かと思うと、衣の裾を捲り上げたではないか。
「え」
「見せてみろ」
あっという間に裳(も)をずり上げて、ヤエの脚が剥き出しになる。スバルは左側を少し持ち上げると、膝の部分を検分するようにして、患部へ顔を近づけた。今は、さらし布が巻かれている部分である。これでは、裳の奥の方まで、彼に見えてしまいそうだ。
「叔父上、いけません」
「何を今更。さっき、全て着替えさせたのも私だ」
羞恥のあまり、髪と同じぐらい赤くなるヤエ。同時に、自分が決して女扱いされていない可能性にも思い至るのだ。スバルとの歳の差は大きい。もしかしたら、乳飲み子の頃は、おしめを替えてもらっているところを見られていた可能性すらある。
途端に、興奮が凪いでいった。代わりに寒気がして、ぶるりと震えてしまう。
「まだ寒いか」
「もう大丈夫ですので、叔父上はお勤めに戻ってください」
どうしても、口調が冷たくなってしまう。スバルは寂しそうに眉を下げた。
「もう少し、傍にに居たいと言ったら……君は許してくれるだろうか」
そんな思わせぶりな事を、こんな時に言わないで欲しい。ヤエは、首だけをスバルから背ける。脚はまだ外気に触れていた。その心許なさに、遣る瀬無くなる。
「私は、姫様の代わりであって、そうではありません。叔父上も、それはご存知でしょう? 偽者の琴姫には優しくなんかしないでください」
少し意地悪だったかもしれない、とヤエは悔やんだ。スバルは、まるで図星かのような顔をして、気まずげに目を逸らしてしまったのだ。
「確かに、彼女に代わりを求めるのは間違っていたと思う。コトリは王女であり、教え子だ。こんな扱いをしていることを知れば、さすがにあの姫も怒るであろうな」
ヤエの胸がとくんと跳ねた。
「叔父上?」
「コトリは、幼い頃から才能あふれる美しい姫だった。侍女と仲良く手を繋いで社と王宮を行き来するのを見るのは、確かに楽しみだった。けれど、私が好きな赤い髪の少女は、別のところにいた」
続きを聞きたい。だが、最後まで聞くと、また期待が外れて虚しくなるかもしれない。それでも、知りたいと思った。想い人の心の内を。
「ヤエ」
「はい」
「君は覚えているかい? 大きくなったら私と結婚するのだと豪語していた事を」
まさか、そんなことを口にしていたなんて。ヤエは穴があれば入って隠れたい心境である。
「君は既に大きくなったが、待てど暮らせど、この年老いていく私には睦言を囁いてくれない。口を開けばコトリのことばかり。私は王女を相手に嫉妬していた。そして、コトリを大切にすれば、君の気が引けると思っていた。たぶん、それは正解だったと思う」
「そんな、私はお役目があったからであって。本当は叔父上のことが一番好……」
出かけた言葉は、吸い込まれてしまう。スバルの口の中に。ヤエは、ゆっくりと離れゆく、かさついた唇の感触の余韻にくらくらしてしまった。
スバルは、またヤエの左脚を持ち上げる。ヤエはもう、脚を閉じようと抵抗したりしなかった。スバルの大きな手が、焦らすように時間をかけて、ヤエの腰に向かって登っていく。
「まだ、駄目、です」
「こんなに長く待ったのに?」
「好色な神官なんて」
「しかも、姪に恋してしまったなんて?」
「それにここは、社務所の一角です」
「誰かに見られたら、何と言い訳しようか?」
思わず、二人でくつくつ笑ったのも束の間。ヤエは身体を強張らせる。
「あの、本当にそれ以上は」
「コトリを君に見立てて接していた罰かな?」
「そうです、それです」
「では、早く元気になってくれ。さっきは生きた心地がしなかったから」
ヤエは頷いた。
そして、二人が大切にしている姫、コトリの救出に、今後も全力をあげることを約束するのである。スバルとヤエ。二人の秘した関係の発展は、平穏の世が訪れるまで、おあずけとなった。
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