第41話 すれ違い
やはり、甘かったのだろうか。
コトリは牛車が引く荷台の端に腰掛けて、遠ざかる都の南門を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えている。
鳴紡殿を出て、たまたま南へ向かうという商人を見つけたのだ。楽師だと名乗れば、一曲弾く代わりに乗せてもらえることになった。
牛車は馬車よりも鈍い。時々大きな石を踏んで弾む荷台は、かなり居心地が悪かったが、反物の荷の上に座ると少しは衝撃を吸収するらしく、尻に優しくなった。
「ありがとうございます。もう、ここで」
「いいのかい? ここ、何にも無いよ?」
「はい」
コトリは荷台から飛び降りると、商人に向かって黙礼した後、広がる草原の中を歩き始めた。
一人きりになる。というのは、本当に久方ぶりかもしれない。六歳の時にサヨが侍るようになってからは、常に誰かが側にいた。なのに、いつもどこか孤独であった。
考えるのは、やはりカケルのことである。
彼ならば、今のコトリのことをどう思うであろうか。王女として恥ずかしい姿にはちがいない。けれど、カケルであれば、それも受け止めてくれるような気がするのだ。少なくとも、コトリはそう信じたい気持ちだった。
「会いたい」
吹き抜ける風が、コトリの頬を撫でる。今日はまだ雲が出ているので、まだ暑さはそれ程厳しくない。コトリは、早足で進んでいく。
心が、空っぽになっていた。
得意なはずだったシェンシャンが、楽師団では全く通用しなかった。もう何を支えに生きていけば良いのか分からなくなっていた。
十八歳になるまでは、後一年と少しが残されている。今回のソラ行きを逃すとなると、後は一回きり。それも楽師団に残ることができた場合のみ。アオイ達が遠征から戻ってきた折に、コトリの成長が見られなければ、その時点でまた王女に戻ってしまう。つまり、あの帝国へ嫁がされてしまうのだろう。
そして、二度とカケルには会えなくなるのだ。
「会いたい」
どうして一年に一度しか会えないような人を好きになってしまったのだろうか。どうしてカケルは、ソラ国の王子なのだろうか。どうして、これ程にも焦がれてしまうのだろうか。
カケルは、コトリと真っ向から相対し、その心を解きほぐし、救うことをやってのけた初めての人物であった。恩を感じるだけにしておけば良かったのに。コトリは、それ以上のものを期待し、願ってしまった。
共に在りたい。
それが叶わなくとも、せめて、後もう一回だけでも会いたい。
もちろん、顔を見せてもらうことはできないだろう。それでも、手が届くような近さにまで行って、心の中で告げたい。お慕いしております。そして、さようなら。
「会いたい」
目的地が見えてきた。
いつの間にか流れていた涙が、風で吹き飛ばされて散っていく。
その時、前方の草むらから誰かが突然立ち上がった。その人物がコトリの方を振り向く。
「カナデ様?」
コトリは、唖然として見つめ返した。なぜか、その人が一瞬カケルに見えた。顔も知らないのに、数える程しか会ったこともないのに。
「ソウ様、どうしてここに」
ここは、アヤネを埋葬した場所である。
カケルは、慌てた様子で頭を掻いた。
「いえ、あの、荒らされたりしていないかと心配になりまして。うちから斡旋したものの、こういう場所ですし」
「わざわざありがとうございます」
カケルは、随分前から誰かが近づいてくる気配を感じていた。ここは、庶民の墓地だ。誰かが埋葬に訪れたのだろう、とぐらいにしか考えていなかった。しかし、その足音がすぐ真後ろまで迫ってくる。そして何気なしに振り返った時には、驚きすぎて完全に挙動不審となっていた。
どうして、というのはカケルこそ問いかけたいものだった。
人が亡くなって埋葬すると、次に墓を訪れるのは一年ぐらい後になるのが一般的な話だ。それ以降はわざわざ足を運ぶようなことはしないものである。それ故、目印となる石も置かず、ただ埋めるだけの墓が殆どなのだ。
「今日は、まだ過ごしやすいですね」
とりあえず天気の話題でも振ってみると、コトリは小さく頷いて、ほのかに笑顔を見せる。
本当はもっと話したいことがあるのだ。
カケルは、もう数日のうちにソラへと旅立つことになっている。クレナから派遣される楽師団を迎えて、国を上げての儀式に参加せねばならないのだ。
つまり、店を長く空けることになる。同時に、コトリと会えなくなってしまう。
未だコトリとは、サヨを挟んでの間柄だ。いくら自分の作ったシェンシャンを渡しているからと言って、一介の商人を名乗る彼が気安く楽師様に用も無く会いに行けるわけもない。ましてや、文なども送れない。送ったとしても、きっとサヨが検分してからコトリが読むことになりそうだ。
では、せめて最後にコトリと過ごした場所へ出向き、コトリのことを想って過ごしたい。そして、コトリの母にカケルとして挨拶したいと考えてやってきたのだった。
しかし、まさか本人がやって来るだなんて。カケルは興奮が抑えることができない。
まずは、王子だということは明かせないが、ソラへ行くのでしばらく留守にすることを話そうか。先日コトリから預けられたシェンシャンの修理のために、部材も揃えられることも伝えたい。
「あの」
カケルは、口を開きかけて、止めた。はっと息を呑む。
石の前に蹲ったコトリの背中が、小刻みに揺れていた。
泣いている。
「大丈夫ですか?」
カケルは躊躇いがちに声をかけた。
「私、楽師団の遠征についていくことができないんです」
てっきり、母親のことで泣いているとばかり思っていたのに、どうやら事情が違う様子である。
「ソラ国への遠征ですね」
「はい。私、シェンシャンが下手で、皆さんと上手く合わせられなくて、それで」
しゃくりあげるコトリ。カケルは、コトリの背中に手を当てた。
「カナデ様はあんなにお上手なのに。なぜ」
カケルには、コトリ程の弾き手が遠征に参加できないなど、意味が分からなかった。
「私にも、分からないのです。もう、どうすればいいのか。どうしても、どうしても行かねばならないのに」
コトリのことだ。きっと熱心に稽古は積んでいることだろう。カケルも、シェンシャンの創り手ではあれど、弾き手としては素人である。助言することなど、何も思い当たらない。
「カナデ様の演奏は、ソラへ行かずとも広く認められて然るべきだと思います」
「いえ。クレナでは駄目なんです。ソラへ行かないと」
「どうして、そこまで」
コトリは顔を上げた。
「ソラに、好きな人がいるのです」
カケルから表情が抜け落ちた。
彼の様子が明らかにおかしくなったことに気づいて、コトリが不安げにしているのを見ても、どうすることもできない。
好きな人が、いる。
頭を鈍器で叩かれたようだった。
誰であろうか。弟たちであろうか。それとも、クレナに出入りしているソラの商人だろうか。
いや、今は、人物の特定など考えている場合ではない。
はっきりしていることは、ただ一つ。王子であるカケルは、コトリの眼中に無いということだ。さらに、このような告白をするということは、ソウとしてのカケルもまた、コトリにとっては、ただの知り合いという間柄にしかなりえないということになる。
カケルは、懸命に呼吸を整えようとする。
よくよく考えれば当たり前のことなのだ。コトリも一人の女だ。誰かを好きになることなど、あって当たり前である。
「大丈夫ですか?」
今度は、コトリが尋ねる番だった。
「はい。カナデ様のような人に想ってもらえる方が、羨ましいです」
「そんな……私みたいな落ちこぼれ。もう、あの方には相応しくないかもしれません」
「身分の高い方なのですか?」
「はい」
コトリはまた俯いた。隣にカケルがいるので、涙を堪えようとしているらしいが、痛々しくて見ていられない。
「泣きたい時は、目一杯泣いた方がいいんです」
カケルは意を決して、コトリの体に腕を回して抱きしめた。
「悪いことも、悲しいことも、全部涙と一緒に流してしまえ」
初めて触れたコトリの背中、肩、腕。どれも自分のものよりも小さくて、細くて。伝わってくる温もり。
カケルは我慢できずに涙を浮かべた。
ここにいるのに。今、自分の腕の中にいるのに。自分のものにならないなんて。
コトリが、自分以外の人を想って泣いているなんて。
「私は、カナデ様の恋人ではありません。だから、真に慰めることはできないかもしれない。でも、一緒にいることはできます」
カケルは、これまでの挫折を振り返った。
シェンシャンを作って受け取ってもらえなかった。作り直しても、また受け取ってもらえなかった。実は、コトリを娶りたいとクレナ王にこっそり仄めかしたこともあるが、それもすげなく拒否された。
それでも、ずっと諦めずに思い続けた。
それはきっと、これからも。
いずれ老いて、死を前にしても、惹かれ続けているだろう。と、カケルは思う。彼の本能が求めているもの。それこそがコトリなのだ。
今ならば、このままコトリを拉致してソラへ連れ帰ることができるかもしれない。そんなことも頭をよぎったが、それでは意味が無くなってしまう。
カケルが欲しいのは、コトリの全てだ。
シェンシャンの腕だけではなく、その笑顔が欲しい。心が欲しい。
だから、無理やりなことはできない。
今できるのは、コトリが少しでも落ち着けるように胸を貸すことぐらいだ。
「一緒に泣きます。だから、もう少しこのままで」
コトリは、不意打ちのような抱擁に驚いていた。異性にこんなことをされたのは、初めてのことである。できることならば、カケル王子にしてもらいたかった。そのはずなのに、なぜか腕を振り解いて逃げたいとは思えないのである。
なぜだか、居心地が良い。
離れがたくなる程に。
それは、戸惑いでもあった。コトリにとって、ソウとカケルは別人である。本命の人がいるのに、こんな気持ちになるなんて。自分がふしだらに思えてならない。
だが、今のコトリには、どうしても必要だった。全てを受け止めてくれるような、この温もりが。
しばらくすると、コトリとカケルはどちらからともなく、そっと離れた。
互いの間には、言葉にできぬ未練が残った。
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