第35話 情と志

 鳴紡殿は隙だらけだ。


 女のみが住まうこの場所は、敷地の門にこそ男の衛士が立っているものの、日が暮れればその人数も減る。闇夜を照らし出す篝火も少なく、選びぬかれた神の声の使いたる乙女達を守るには、あまりにも心許ない。


 それを利用して、今夜も一人の男がミズキの部屋へ侵入を果たしていた。


「それで、菖蒲殿の女は取り込めそうなのですか?」


 男は、綻びと擦り切れの目立つ、元は白だったと思われる袖無しの貫頭衣と、足首の辺りを絞った、ゆったりとした袴状の下衣を身に着けている。昼間の都では、恥ずかしくて外を歩けないぐらいのみすぼらしさだ。しかし田舎では、これでもまだまともな装いなのである。


「一応、真面目には、やっている」


 歯切れの悪い返事に、男はやれやれと肩を竦めてみせた。ミズキの悪い癖が出ているのではないかと危惧したのだ。


「志は忘れないでください」

「分かってるよ、ハト」


 ハトと呼ばれた男は鼻を鳴らした。信用ならぬと思ったのだろう。


 ミズキ達は、神の力を欲している。それさえあれば、土地が富む。食べられるようになる。死が少しでも遠ざかる。


 決して、名声が欲しいとか、美し女を抱きたいだとか、大陸中からあらゆる財宝を集めて贅沢したいだとか考えているわけではない。ただ、何も起こらず退屈で穏やかな毎日が欲しいだけだ。


 食事は一日に二度で十分。肉も年に一度でも食べられたら、それで良し。見栄を張りすぎて食詰めた役人に、濡れ衣を着せられて一家全員殺されて僅かな財産を巻き上げられるだとか、突然の災害で村が忽然と姿を消すといったようなことを、できるだけ失くしたいだけだ。


 とにかく、今のクレナ国は貧しい。農産物の生産高は年々思わしくなくなっている。ソラのように、神具を特産物としているわけでもない。大昔はシェンシャンの音色が農工にも恵みをもたらし、今よりかはゆとりのある生活を送っていたという。それ故、工芸品の生産も盛んであったが、今ではほぼ廃れてしまった。


 すると、心も貧しくなってしまう。目が死んで、頭が死んで、何のために生きているのだろうなんて考えることさえ無くなる。常に怒り、常に悲しみ、口から出る言葉は自らへの哀れみと嘆き、他人の悪口や死への恐怖ばかり。


 救いなんて、あるわけがない。


 そもそも都から一歩出ると、人が住める場所など、ごく僅か。夏の日差しに耐え、冬は寒さに凍えて、ほそぼそと命だけを繋いでいくことさえ難しい。


 初めは、生きたい、というありふれた感情だった。ミズキはたまたま村の顔役の息子として生まれ、早くに父を亡くして代替わりをし、どうしようもない現実を前に打ちひしがれていた。


 そこへ夜逃げ同然で村へ押しかけてきたのが、ハトの家族だった。彼の親は都を追われた元貴族。高位の貴族に騙されて没落したらしい。自尊心が高く、都人だったという過去の栄光だけに縋りついている哀れな人間は、ありもしない権力を振りかざして食い物を出せと脅した。都の風流な暮らしを話して聞かせてやると言われたところで、ミズキに響くはずもなく。


「そんなもん、馬の餌にもなりゃしねぇ。本当に腹が減ってるなら、どうすれば食えるようになるのか、真面目に考えてから来やがれ!」


 ミズキは追いかけそうとしたが、ハトはそんな彼に感化されてしまったのだ。


 翌日、ハトは千切れた親の首を引きずってミズキの元に現れた。そして語った。


「私は、生きたい」


 ハトは、過去と決別した。それが彼の足元に転がる赤い肉塊だと説明する。


「どうしたら食べていけるようになるのか、考えてみた。だが、分からなかった。唯一確かなのは、こういう鼻持ちならない輩が私利私欲のためにのさばり続けていることに、もう我慢がならないということだ」


 ミズキは、危険な男に火をつけてしまったことを知ったが、もう後には引けない。なぜなら、ミズキも同じことを考えていたからだ。


 これまでミズキと対等に話ができた者は一人もいない。これは、一生に一度しか巡ってこない機会かもしれなかった。


「その通りだ。もう、役人や貴族の言うことなんて聞かない。アテにもしない。俺たちは俺たちで生きる方法を考えなきゃならん時代が来たんだ」


 当初、ハトは親殺しをやってのけたことから村人に忌み嫌われていたが、ミズキはさして気にする様子もなく。次第に、多くの生活の知恵や知識を披露することで、村に馴染んでいった。ミズキとは、夜な夜な世直しについて語り合った。


 貴族は憎い。王家も憎い。だが、それらを片っ端から狩っていったところで、それこそ腹は膨れない。もっと、生活に密着した根本的な何かが必要だった。


 後にその答えは、シェンシャンだというところに行き着く。その頃には村だけでなく、周辺の土地からも仲間が集まり、一つの組織が出来上がっていた。


 皆の思いを一身に受けて入った王立楽師団。ここでシェンシャンの技をものにして帰郷する。それは実現が可能な未来だとミズキは考えていた。


 では、それだけでいいのか。

 富むのはミズキの村だけでいいのか。


 そんなこと、あるわけが無い。


 やはり、都に、王家に殴り込みをかける必要がある。


 まずは手頃な貴族の女を籠絡して手懐けた後、王宮内にも伝手を作り、数人いる王子のうち誰かをこちら側へ誘導したい。と話していたのはハトだった。


 ミズキもそれに同意して入団したものの、いざ楽師としての生活を始めると、事情がいろいろと変わってしまう。


 第一に、なぜか同期に王女がいた。しかも給仕などの王女らしからぬ仕事を進んで行うばかりか、偉ぶったところも無い。本人の無自覚な魅了が発揮されて、今やミズキも憎き相手とは思えなくなっていた。シェンシャンの腕も素晴らしく、純粋に同じ奏者として尊敬の念を抱いてしまっているところもある。


 さらに他の楽師達も、それぞれに世の理不尽と向き合いながら、せっせと芸を磨いており、個々の人間としては完全たる悪人など見当たらない。


 特にサヨだ。菖蒲殿という高位貴族としての力を持つことから、ハトの指示を受けて接近をしているところである。だが、己の志を成すためには、彼女を破滅させなければならぬと思うと、尻込みしてしまうのが本音だ。


 だいたい、真面目すぎるのが良くない。それがかえって、付け入る隙を作っていることに気づいていないところも、なぜだか健気に見えてしまう。良心が傷み、つい世話を焼いてしまうのだ。


 今のミズキには、サヨと向き合っているのが志を持つ同士を代表しての自分なのか、それとも男としての自分なのか、もはや分からなくなっていた。


 サヨという女をものにすることは、菖蒲殿を裏から崩すと同時に、強大な権力を間接的に手に入れることを意味する。しかも、ついでに王女という権力者と、その類まれなる芸術性をもったシェンシャンの演奏でまでが転がり込んでくるかもしれない。


 そう言い訳を並べては、サヨへ情熱的に手を伸ばしてしまう自分をついつい正当化してしまう。


 ミズキは、先程のサヨの顔を思い出した。


 一番下に着ていた透けるような薄さの衣を除き、全てを脱いでミズキに衣を差し出してきたサヨ。なぜ自分がこんな目に遭わねばならないのかと、視線が抗議していた。


 ならば、いっそのこと大声でも出して他の楽師を呼び寄せて難を逃れることもできたはず。にも関わらず、馬鹿正直にミズキへ従うサヨは、まるで仕込みを受けている妓女のようで。衣から覗く艶めかしい白肌と、清楚な面立ち、上気して赤らんだ頬は、ミズキの体を激しく疼かせた。


 この女を真に振り向かせることができたならば、どんなに良いだろうか。けれど、志が成る時、それはサヨを裏切る時なのだ。


 志のために生きると決めた。


 あまりにも儚い人の命。少しでも多くの人が、慎ましくも日々を営み、生きていて良かったかもしれない、と思いながら死ねるように。そのために立ち上がったはずなのに。


 どうして、彼女に情を持ってしまったのか。


「なぁ、今の俺は無様か」

「いえ、そういうわけでは」

「まだ遅くない。やっぱり、長はハトの方がいいんじゃないか?」

「私には無理です。親を殺してるんです。誰もついてきません。皆は、ミズキのそういう人間臭いところに憧れて、集まってくるんですよ」


 だが、サヨは――――。という言葉を飲み込んで、ミズキは目を伏せた。


「もし、あいつを落とす前にこっちが落とされたら、迷わず俺の首も切ってくれ」

「成果さえ出してくれるのであれば、方法は拘りません」


 結局ハトは、ミズキに弱い。卓の上に置かれていた報告書の紙束を手に取ると、そっとその姿をくらませた。


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