第二章 7-3


「ご高説は拝聴したから、そろそろ出てきても良いかしら」


 不快な臭気が漂う根城の入口にミストリアは立っていた。それは後光を帯びたように神々しく、レイネリアだけでなくカエレアたちもまた驚きを隠せずにいた。しかし、それも束の間のことであり、逸早いちはやく我に返ったタルペイアが短剣を彼女の喉元へと押し当てる。


「私たちの目的はあなただけ。大人しくここで死んでくれれば、彼女に危害は加えないわ」


 未だ動揺が収まらぬ様子のカエレアに代わり、タルペイアがミストリアに要求を突き付けた。やがて、カエレアも落ち着きを取り戻したのか、同様の要求をミストリアに迫ってくる。


 そんなことをミストリアが呑む筈がない。ミストリアの力を以ってすれば、幾らでもこの場を制することが出来るのだ。仮に自分が刺されたとしても直ぐに魔法で治療してくれるし、たとえ万一のことがあったとしても、それはミストリアの命に…地上の星の光輝こうきに到底見合うものではなかった。


「良いわ、私を殺したいのであれば好きになさい」


 しかし、ミストリアの口から発せられた言葉は、彼女が予想だにしないものであった。当のカエレアたちもまさか素直に従うとは思っていなかったようで、にわかには信じられないような表情をしていたが、次第に卑劣で残忍な笑みへと変わっていった。


 彼らが剣を抜いてミストリアに近付くのを彼女は黙って見詰めていた。タルペイアの刃は未だ彼女に向いており、満足に動くことは出来ない。やがて、障壁がカエレアたちの行く手を阻んだ。何のことはない、彼らではミストリアに指一本触れられはしないのだ。


「彼女の命が惜しければこれを解いてくれませんか」


 解く必要はない、自分は大丈夫だと叫びたかった。しかし、声を出すことは許されず、ミストリアの指先がカエレアの剣先に触れると、そこから一筋の血がしたたり落ちた。彼は満足そうに頷くと、一度剣を引き戻した後、それをミストリアの胸元へと突き立てた。


 ミストリアの白い柔肌から鮮血が吹き出した。続いて、他の者たちも次々に刃を突き刺していく。その身体は無残にも串刺しにされ、地面にはおびただしい量の血が池のように溜まっていた。やがて、カエレアたちの間からは雄叫びのような喊声かんせいが響いてきた。


 彼女は自分の眼が信じられなかった。いや、信じたくはなかった。あのミストリアが、何者にも侵されぬ絶世独立ぜっせいどくりつの存在が、地上に煌めき続ける最後の星が、演習では無数の矢を弾き、魔法を防ぎ、全軍の進撃をも完封した天人地姫が、こんなことで、こんなところで、こんなになって良いのだろうか。


 …良い訳がない。良い訳がないではないか。何故だ、何でこうなるのだ。ミストリアは無敵だ。誰にだって、どんな国にだって傷一つ付けられない。なのに、どうしてこんな光景を見せられているのだ。


 一体どんな理由があってミストリアを奪うのか。どんな理由があれば、ミストリアを奪うことが許されるのか。誰か教えてほしい。もしも、それが出来ないのなら、もう何も見せないでほしい。


 視界が歪む。思考が淀んでいく。自分の立ち位置が分からなくなり、世界から色彩と音声が失われていく。あのときのように、真白の空間に世界が塗り替えられていく。しかし、彼女は万感の怒りを以って、強引に精神を世界から引き戻した。


 そんなのは決まっている。私が付いてきたからだ。何も知らぬ自分が、何も出来ぬ自分が、愚かにも天上に手を伸ばし、分不相応な望みを抱いたからだ。私こそが天人地姫の…ミストリアの瑕疵かしだったのだ。


 止めどなく溢れる悔恨と悲憤に全身全霊が苛まれる。許せない…ミストリアをこんな目に遭わせた奴らを許せない。しかし、それを遥かに凌駕して、私は私を許せない!


 歓喜に酔いれるカエレアたちに、喉元に短剣を突き立てるタルペイアに、そして何よりも自分自身に、彼女は魂魄が焼き切れるほどの憎悪を込めた。


「レイニー、やめてっ!」


 不意にミストリアの声が聴こえた。室内全体を白いもやが包み込み…いや、包み込んでいたものが晴れたかと思うと、全身を貫かれたミストリアは消失し、代わりに彼女を拘束するタルペイアの眼前に、万全の状態で姿を現した。


 突然のミストリアの出現にタルペイアも動揺を隠し切れずにいたが、拘束した彼女を掴みながら短剣を振り向けて牽制しようとする。しかし、タルペイアは彼女の身体に触れた瞬間、突然事切こときれたように崩れ落ちた。そして、主を失い宙に舞った凶刃が彼女の頬を斬り裂き、縦に一筋の鮮血を走らせる。


「貴様ら、これは一体どういうことだ!」


 そのとき、扉を蹴破ってサナリエルが室内に飛び込んできた。背後には二十人ほどの兵士を引き連れており、その形相は憤怒に染まっていた。


「おのれ、よくもニー様の顔に傷を! 厳命する、こやつらを皆殺しにしろ!」


 皇女の命を受けた兵士がカエレアたちに斬り込んでいく。護衛を務める精兵の練度は高く、瞬く間に一人、また一人と斬り伏せると、物言わぬ骸の山を築いていった。


「ま、待ってくれ、話が違っ……!」


 カエレアも必死になって応戦するが、数的不利は誰の目にも明らかであり、何かを口に仕掛けた瞬間、皇女自身の手により首を刎ねられていた。それが何であったのか、しかし今となってはどうでも良かった。


 私には何も分からなかった。身体は幼子のように震え、何も考えることが出来なかった。やがてミストリアが傍に近寄ると、その手を私に向けて差し伸べてくれた。

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