第一章 7-1


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「まったく、ミスティったら大人気おとなげないんだから…」


 昨夜、不可視の障壁に阻まれたイワナは、尚もミストリアに歩み寄ろうとしていたが、結局その先に至ることはなかった。やがて、諦めたのかレイネリアのいる寝台に戻ると、そのまま不貞腐れるように眠ってしまった。


 彼女はミストリアをたしなめると、少女の寝顔を眺めながら添い寝しようとした。しかし、ミストリアが自分の傍に来るように強く促したため、少女に毛布を掛けると二人で部屋の隅に身を寄せたのであった。


 翌朝になって目を覚ますと、ミストリアは既に起床していたらしく、椅子に腰掛けて何やら思案しているようであった。少女はというと、まだ寝台の上で可愛らしい寝息を立てている。


「その子にはあまり入れ込まない方が良いわ」


 彼女を一瞥したミストリアが穏やかならぬことをのたまう。その真意が分からず、彼女がいぶかしげな表情を浮かべたとき、室内に扉を叩く音が響いた。


「朝早くに失礼します。こちらに兵士がお邪魔してませんでしょうか」


 それはオユミであった。彼は朝の挨拶もそこそこに部屋を覗き込む。しかし、目的の兵士がいないことを確認すると、きびすを返して扉を閉めようとしたため、思わず彼女が声を掛けた。


「何かあったのですか?」


 彼は逡巡するような表情を浮かべていたが、やがて絞り出すように弱々しく声を漏らした。領都から付き従ってきたあの護衛の兵士の姿が今朝方から見えないのだという。


 村長も同室であったため、何か心当たりがないかと問いただしたところ、深夜に部屋を出ていく姿を見掛けたそうだ。しかし、そのときはかわやか何かだと思い、すぐにまた眠ってしまったようであった。


 よもや主君を置いて逃亡したとは思えないが、夜間から戻らないのであれば尋常ならざる事態である。彼女は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


 昨夜、兵士の身に何が起こったのか。これもまた事件の一部なのだろうか。彼女は気持ち良さそうに眠る少女の肩を揺すると、オユミたちとともに住居を後にした。


 外の様子は昨日と変わらぬように思えた。しかし、未だ寝ぼけまなこの少女の手を引き、父親だという男が消え去った森の入口へとやって来ると、そこには複数の入り乱れた足跡とえぐれた土、そしておびただしい量の血痕があることを発見した。


「ここで戦闘があったようですね」


 オユミが顔を強張らせながら地面を凝視する。彼女は少女に見せないように自身の背中に隠すと、遠巻きにその様子を眺めていた。血痕が誰のものなのかは不明だが、足跡などから推測するに一対多のものであるようだ。血痕は森の奥へと点々と続いており、血の匂いに混じって微かに腐臭も漂っていた。


 兵士の身に何が起こったのか、それは未だ想像の域を出ないが、ここで襲われて連れ去られたと考えられる。隣村の住民のことを考えれば、一刻も早く見つけ出す必要があった。オユミは鋭い眼光で足跡が続く方向を睨んでいた。人間とおぼしきものである以上、森の中に避難しているという村人たちである可能性が高い。


『夜間は森に魔物が徘徊しているため、外出は避けるように』


 帰り際に男が放った言葉が脳裏に蘇る。あれはまさしく警告だったのだろう。兵士は迂闊にも戒めを破り、それに遭遇してしまったのかも知れない。


 しかし、なぜ兵士を襲ったのか。オユミの身分を明かしてはいないが、領主に反抗するような真似をすれば、村ごと粛清されることは火を見るよりも明らかである。いくら森の奥深くに隠れようとも、領主が本気になればいずれは見つかってしまうだろう。


 とはいえ、それも無事に領都に帰れたらの話である。ここは近隣の村からも隔絶されており、また疫病の噂により交流も途絶えている。後は余所者の口さえ封じてしまえば、全てはなかったことに出来るのだ。


 こうしている今も、森の奥から自分たちは監視されているのではないか。そして、集団で襲い掛かる機会を伺っているのではないか。押し寄せる不安から疑心暗鬼に陥ってしまい、身体の動きが錆び付いたかのように鈍くなる。彼女の様子を敏感に感じ取ったのか、少女もまた怯えるようにローブの裾を掴んで離さない。


 それは村長も同じようであった。昨日、男からは隣村との騒動の裏側を聞かされており、或いは一番危うい立場にいるやも知れなかった。


 オユミは腰に帯びた剣を抜くと、威嚇するように森に向けて突き付けた。しかし、彼だけでは多勢に無勢である。もしも戦闘になれば、兵士と同じ結果を辿ることになるだろう。


「大丈夫、周辺には誰もいないわ」


 緊迫した空気を切り裂くように、ミストリアの凛とした声が響いた。既に四鏡水鏡ミラー・ロードを行使していたらしく、近辺に何者かが潜んでいる様子はないという。とはいえ、森の中は樹々などの遮蔽物が多いため、広範囲を索敵するには今暫いましばらくの時間を要するようであった。


 マイナが不活化した状態では魔法の行使は困難を極める。元より活性状態のマイナであっても、魔力出力が高いものと低いものが混在しており、そこに自身のプラナを加算、或いは対消滅ついしょうめつさせて減算することで、全体の出力を均一化させる必要があった。


 しかし、現在は出力調整に使うためのプラナを、逆に主力としてマイナに送り込み励起させることで、魔法の行使に足る魔力を確保しているのである。これは魔術師にとっては奥の手とされており、精密な魔法技術が要求される他、尋常ではないプラナを消耗するため、労力に見合わない悪手として忌避されていた。


 ミストリアは事も無げに魔法を行使しているが、全ては天人地姫が持つ膨大なプラナの賜物であった。現在この地において魔法を行使できる者は、ミストリアをおいて他にいないであろう。


 しかし、依然として兵士の行方は分からずじまいである。手掛かりは森に隠れた住民が握っている筈だが、当の本人たちは近くにいないことが分かっている。


 そのとき、彼女はある事実に思い至った。住民なら他にもいるではないか。オユミがこちらに険しい表情を向けていた。視線の先にあるのは自分…いや、その背後に隠れた少女だ。


「いいえ、それだけはやめてください」


 彼女は少女を庇うように両手を広げると、強い眼差しでオユミを睨みつけた。彼もまたそれに負けじと睨み返すと、一歩ずつ足を踏み出してくる。その手には未だ抜き身の剣が握られていた。


 まさに一触即発といった状況であった。これは領地の問題であり、今は部下の命が掛かっている。彼も手段を選んではいられないのだろう。


 しかし、彼女は前にも同じようなことがあったのを思い出した。く彼とはこの問題でぶつかるようだ。これもまた、貴族としての矜持なのだろうか。


「私のことは必ず守ってくれると誓ったではありませんか」


 その言葉は彼に衝撃を与えたようだ。やがて毒気を抜かれたように嘆息すると、握っていた剣を鞘へと収めた。彼が引いてくれたことに安堵する彼女であったが、自分がとんでもないことを口走ったことに気付き、赤く染まった顔を隠すように振り返った。


 少女はまだ怯えたようにローブの端を掴んでいる。村長は落ち着かない様子で周囲に目を泳がせている。そしてミストリアは、今のやり取りがよほど面白かったのか微笑みを浮かべていたのだが、続いて何かを発見したように目を光らせた。


「ようやく見つけたわ」


 それは待望の兵士の消息であった。四鏡水鏡ミラー・ロードがついに目標を捉えたのだ。気がはやる彼女たちを制し、ミストリアが順を追って説明する。


 昨日、男は頻繁に『隔離』という言葉を使っていた。しかし、生きている人間ならともかく、疫病の感染が疑われる遺体までそのまま民家に放置することは考え難い。


 村には民家以外の建物はない。では、一体どこに隔離したのか。そもそも普段から村では遺体をどうしているのか。そこまで辿り着いたとき、彼女の脳裏には隣村を出発するときに見かけた光景が思い浮かんでいた。


 ミストリアは彼女に向けて頷くと、皆を先導するように森とは逆方向に歩き出した。この村が隣村の出村でむらであるならば、きっと同じようにあれが聳えている筈なのだ。

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