第106話 陶酔と忘却

 ヴィクトールの詠唱に応じて、淡く輝き、仄かに重く、しかし温かい奔流が魔法陣を包む。三人と一匹は魔法陣の中でただひたすら紙束に魔力を注いでいる。



「……ねえ? いつまでこうしていればいいの?」

「奔流が完全に消えるまでだ。後十秒ぐらいか……」




 それから本当に十秒経った後、奔流は少しずつ弱まり、更に数秒かけて完全に消滅した。




「よし。これで魔法の行使は完了した」

「え? 表紙直ってなくない?」

「ということは中身だな。よし……」



 アーサーは屈んで紙束を手に取り、ぱらぱらと捲る。ヴィクトールとハンス、そしてカヴァスも同じように紙束を覗き込む。



「……ん」



 全てのページを流し見し終え、もう一度あるページを捲った所で、アーサーの手が止まった。



「見つけたか」

「ああ、この辺りの文字……やけに白く輝いている」

「それは復元魔法により、魔力を流されて元の形に戻ったということだな。何と書いてある?」

「ふむ……」




「『……させる呪文、陶酔と忘却』」




 文字を読み上げた後、沈黙が辺りを走る。




「……えっ、それだけ? まじでそれだけ?」

「ああ。何をさせるのかまでは復元できなかったが」

「呪文……呪文か」



 ヴィクトールは腕を組み、右手を顎の下に当てて紙束を覗き込む。



「魔法使う前にべらべらべらーってやるやつでしょ。めんどくせー神様に誓いを何たかってやつ」

「それは神誓呪文と言って、全ての魔法の基本となるものだ。これはただの呪文だろうが……それだと面倒臭いことになるな」

「どういうこと?」



 ヴィクトールは持っていた杖を両手で寝かせて持ち、二人に見えるようにする。



「触媒を手に持ち、神誓呪文を唱えると魔法が発動する。だがこれは魔力回路を通し、呪文を記憶させた物でないといけないんだ」

「へぇ……呪文の記憶。魔力を通しただけでは駄目だと」


「そうだ。魔力回路の方は手先が器用であればどうとでもなるが、呪文の記憶はそうともいかない。しっかりと呪文を詠唱できる頭と、それを覚えさせる技術と根気。熟練の職人でないと安定した触媒は製作できない。まして学生なら不可能と言ってもいいだろう」

「うーん……ってことは、ここに呪文は書いてあるけども、触媒に記憶させるのが難しいから意味がないってこと?」

「理論上はな。とはいえ、行使される魔法の内容が簡単だったり、あるいは呪文そのものが改良されていれば、記憶させなくても使える呪文もあるがな」




 そうしてヴィクトールは立ち上がり、ハンスに向かって杖を向けた。




「え? てめえ何の冗談だ?」

「効果や行使の可否がわからない呪文なら、一回使ってみるのが手っ取り早い。貴様も誇り高き純血のエルフなら耐えてみせろ」

「おい、待てよ――!」

「陶酔と忘却」



 ヴィクトールが淡々と口にすると、杖先から紫色の光帯が出現する。



「ぐあああああああ……!!」



 それに包まれたハンスは、その場にがっくりと倒れ込んだ。





「ふむ。どうやら記憶しなくても使える呪文だったようだ」

「……容赦がないな」

「此奴も偶にはこのような思いを味わっても良いだろう」



 ヴィクトールはハンスに近付き、手首に指を二本当てる。



「よし、生きてはいるな。まあ記憶不要で使えるということは、それほど威力がないということなのだが。シャドウ起こすぞ――」



 しかしシャドウが変身するよりも前に、ハンスはむくりと起き上がった。



「むっ……起こす前に起きたか」

「ほんにゃらびぃー?」




 どうやら様子がおかしい。悶えて倒れ込んだ割にはやけに気色の悪い笑顔になっている。




「……は?」

「は? じゃねえんですよくそ人間が。いきなりおくにゆもんを唱えんなって話ですよ」


「……」

「おいおい、てめえも何か言いなさいよ。このくそ人間を何か言いなさいって話ですよ」


「……」

「でもまあ……なーんっかこう、気持ちええなあ……うひひ……」



 話している間、ハンスは大きくゆっくりと身体を左右に揺らしていた。顔を真っ赤に赤らめ、うっとりと頬を綻ばせている。目尻はすっかり垂れ下がり、口からは今にも涎が出てきそうだった。



「これは……」

「成程、陶酔。今此奴は酒を飲んだ時と同じように酔っているというわけだ」

「そういうことか。ということは、忘却も何かありそうだな」

「それを知るためにも話を聞こう。第二階層に酔い止めを売っている店があったはずだ。シャドウ行ってこい」



 素早くシャドウは反応し、ヴィクトールから投げられた硬貨を受け取る。そして魔法陣の向こうへと向かっていった。





 二十分もすると、シャドウは酔い止めの薬草を買って戻ってくる。




「よし。起きてこれを飲め」

「ああああああ。折角いい夢見てたのによおおおおお」



 その間にハンスは土の地面に横になり、大いびきをかいて仮眠を取っていたのだった。ヴィクトールに揺り起こされ、汚い吐息を吐く。



「てめえ、許さねえ。安眠を邪魔しやがって。ぶち殺してやああああああああ」

「酔ってても言うことは変わらないな……」



 ヴィクトールは予め生成していた水で、薬草を強引にハンスの口の中に流し込む。





「……」


「…………」


「………………」




「……どこだよここ」




 一分もしないうちに、彼の目付きが鋭くなり、頬も冷めていく。呂律ろれつも元通りになり、辺りをきょろきょろと見回している。




「ふむ……どこだと言ったか、今」

「ああそうだよ畜生が。何でこんな見知らぬ場所に連れてきたんだよ」

「見知らぬ場所と」

「そうだって言ってんだろ。何なんだよあの石柱は」



 ヴィクトールは隣にいたアーサーと顔を見合わせてから続ける。



「……貴様、どこまで記憶がある」

「えっ? ああ……」



 頭を捻って記憶を捻り出すハンス。



「うーん……何か昨日二人と話した覚えがあるんだよね。魔法陣がどうこうって話になって、展開する場所が……あれ? それってもしかしてここ?」

「ふむ……」

「いやふむじゃねえよ説明しろよクソ眼鏡」

「よし」



 その話を持ちかけてきた張本人、アーサーが割って入る。



「あんたの言う通りだ。ここで魔法陣を展開することになって、オレが二人を連れてきた」

「へえ。いつの間に見つけたんだこんな場所」

「それで、ここの存在は誰にも言わないでほしい」

「まあ言う理由もないし」

「……さっきも聞いた台詞だな」


「んで? 復元魔法は成功したの?」

「したぞ。その成果が今の貴様の状態だ」

「は?」



 ヴィクトールは立ち上がり、服や手に付いた砂を払う。



「陶酔と忘却。相手を酔わせて直近の記憶を消す呪文が書かれてあった。これは復元魔法により解読に成功したんだ」

「……へぇ」

「以上が大体のあらましだが、どうだ」

「……あー。何か言われればそんな感じだった気がする……」



 ハンスを右手を頭に当て、考え込みながら証言する。



「うん……ぼくの身体が受けた魔法の影響を排除しようと動いている感じがする。二、三日経てば完全に排除されて、記憶が戻っていると思う」

「そうか……それはまあ、俺の魔力が少ないとか、呪文の効果が弱いとか色々あるだろう。重要なのは――」



 アーサーが持っていた紙束に目を向けながら、ヴィクトールは言う。



「俺達学生の分際でも、復元はできるということが証明された。今回は試験的に付き合ってやったが、これからどうするつもりだ」

「……オレとしては、今後も復元を続けていきたい。他にも呪文が残されているかもしれないし、それ以外にもあるかもしれない」




 アーサーは真っ直ぐ二人を見据える。




「だから……今後も協力を頼めるか」

「……いいだろう。俺もその紙束には興味があるし、魔法陣の勉強にもなる。此奴にも仕事が増えるしな」

「何だよそれ!?」



 憤慨するハンスをよそに、ヴィクトールは再び魔法陣まで移動する。



「さて、撤収作業をするぞ。とはいえこっちは楽だ、刻み込んだ魔法陣を足で消せばいいだけだからな。魔力結晶粉末は残るが、そのうち大気に溶けていくから安心しろ」

「はいはい……んじゃ、さっさとやろうよ」

「ああ」



 三人は魔法陣を跡形もなく消していく。島には砂を踏んでならす音だけが淡々と響く。




 アーサーはこの紙束の所持者――恐らく先程の呪文も生み出したであろう人物について、どのような者なのかを想像しながら、黙々と作業を続けていた。

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