第83話 観劇:フェンサリルの姫君

 昔々、かのグレイスウィルの帝国よりも大地は肥え、人が行き交う豊かな町に。


 オージンという金色の髪を持つ若者が訪れた。



 オージンは武芸に優れ、頭が良く回った。好奇心が旺盛で、自分の意見を曲げない男であった。


 加えて彼には好きな食べ物があった。甘酸っぱい苺の実である。


 彼は常に魔法の鉢植えを持ち、一日に一つは苺の実を食していた。



 勇猛果敢なオージンは町の人々に歓迎され、三日三晩も続けてもてなしを受けた。


 かの名声を聞き、腕の立つ戦士がオージンに挑んだが、オージンは食後の苺の実をつまみながら片手間に薙ぎ倒していった。




 数日して、オージンが町を散策すると一際大きい館が目に入った。


 その館は掘り返された土地の中央に建っており、集落から離れた場所にあった。


 オージンは彼を案内をしていた侍女にその館のことを聞いたが、何も答えなかった。



 隠しているような態度を見せたので、町の者に問い質していったが、唯一わかったことは、館にはフェンサリルという名前がついていることだけ。それ以外のことに関しては、この町の者は全て、一切答えようとしなかった。



 オージンの好奇心はそれで治まるわけがない。夜になって彼が屋敷に忍び込むと、そこには白い衣を纏った娘がいて、颯爽と窓から入ってきたオージンを訝しそうに見ていた。


 オージンが名乗ると、娘もまた自分の名はフリッグであると名乗った。流れるような銀の髪に、澄み切った碧い瞳。オージンは一目でその美貌に吸い込まれていく。



 オージンはフリッグを館の外に連れて行こうとしたが、彼女は外には恐ろしい物があると言い、それを拒んだ。そこで、オージンは持っていた苺の実を渡した。十二個の実があった中から一つを渡し、フリッグはそれを口にした。


 するとフリッグはこんな木の実は食べたことがないと答え、他の苺の実に涙をこぼした。オージンは館の外に行けばこの木の実が沢山食べれると返し、その身体を受け止めた。



 そうして二人が抱き合ったその時、部屋に数人の兵士が入ってきた。兵士達はオージンを追い出し、フリッグを何処かに連れていった。




 それからオージンは行く人行く人にフリッグのことを訊いて回った。


 平民はあの館に娘がいるようなことは知らないと答えた。商人と兵士は彼女には関わらない方がいいと答えた。侍女や大臣は館で見たことをは忘れろと答えた。そして町長は、答えを伝える代わりにオージンを地下牢に幽閉した。



 オージンは地下牢に幽閉されている中、侍女達の話をこっそりと聞いた。


 曰く、フェンサリルの館に幽閉されている娘は、人の願いを叶える力があること。館に閉じ込めておき、他人が好きに力を使えるようにしてあるということ。娘は産まれた時から館に幽閉され、外の世界を見たことがないということ。


 オージンはこの町の真実を、全て知ってしまったのだ。



 オージンは地下牢の扉を破り、外に出ようとした。しかし腹が空いて力が入らなかったので、持っていた苺の実を三つ残して食べた。すると身体の底から魔法の力が溢れ出て、オージンは道を塞ぐもの全てを破壊していった。



 そしてオージンが館に向かうと――








「……何ということだ。これは一体、何が起こったのだ!?」



 背景は夜空、その下に佇む深い森。台上には燃え盛る館が置かれ、町民が魔法や水を駆使して炎を消そうとしている。オージンは立ち尽くしてそれを見上げていた。




 そこに近付く、短い髪を巻き上げた男。



「むっ、貴様の顔は忘れるわけがない! 私とフリッグを引き離した、身なりだけは慇懃に整えた悪魔め!」


「ああ、私も覚えているぞ、不躾で常識知らずのオージンめ! 今この場で民達に向かって、脱獄者がここにいるぞと叫びたいが、そうしたところでこの炎が燃え盛る音にかき消されて、みなの耳には届かないだろう……」



「何故フェンサリルの館は燃えている!? ここから見る限り、皆は大層慌てているようだ。めらめらと燃える炎を消すのに必死になって、他人の姿になぞ目を当てようとしない。唯一貴様を除いてな。故に、屈辱ではあるが貴様に訊く他ないのだ。答えろ!」


「ならば私から問うてみるとしよう、その屈辱を極限に至らせるためにな。この館の姫君を愛し、共に飛び立とうとしたオージンよ。全てを飲み込み、そして崩れんばかりの勢いで肥大し続ける、この炎を放った者は誰だ?」


「誰だと……?」




 男は指を三本出して、少しずつオージンと間を開けていく。背景の館は未だ燃えて、音響であろう火の音も凄まじい。にも関わらず、二人の間には静寂が訪れていた。




「候補は三つある。一つはフリッグ。彼女が貴様と引き離されたことに絶望して、館ごと火に包まれ高峻なる女神の下に参ろうと謀ったか?」


「違う! 私はフリッグと共に生きていくと誓った! この言葉を聞いた時、彼女は震えながらも私に身を預けてきたのだ! その時零した涙を業火で燃やし尽くして、なかったことにするわけがない!」



「ああ、貴様がそう言うだろうということは、森を喰らうようにのさばる、この炎を見るよりも明らかだったな。では次に参ろう。二つは町の者。フリッグの貞操が失われることを恐れて、無垢なままに留めておこうと画策したか?」


「ふん、連中がそのようなことをするものか。貴様らは館に閉じ込めたフリッグの力を好き勝手に使い、私腹を肥やしていたのだろう? 全ての願いを叶える力、鍛錬も積まずに怠惰に満ちた者が、万能の力を捨てる訳がない!」



「ほう、貴様はそこまで知っていたのだな。確かに貴様が今言ったことは、イングレンスの世界の理を指している。我々はフリッグを殺さない、運命を支配する力をみすみす捨てるような愚かな真似はする必要がない。故に我々はこの炎を放ってはいない」


「では誰がこの炎を放ったというのだ!?」



「そう慌てるな、猪突猛進で凝然たり得ぬオージンよ。恐らく放ったのは、候補に上がった最後の一つ。それは――」


「もういい! 貴様と話したばかりに、あの憎き炎に時間を与えた、私が愚かだった!」




 男の言葉を聞き終える前に、オージンは駆け出してしまう。舞台袖に彼の姿は消えた。




「……行ってしまった。行ってしまったよ。どうせ奴には敵わないというのに。嗚呼、空に雲を、大地に花を、海に魚を、イングレンスの世界に理を与え給うた、偉大なる創世の女神よ。主はかの者に何をお与えになられるのか――」




 男の引き攣った嘲笑と共に、舞台は暗転する。






 次に舞台が明天すると、そこは一面の赤で包まれていた。



 先程も使われた館が、赤く染められ崩れ落ちている。



 その舞台の中央に、フリッグが顔や身体に煤を纏わせ、横たわっていた。




「フリッグよ、草原に咲いた名も無き花の様に儚い、我が愛しき人よ! もしもその耳に私の声が聞こえたら、その潺のような透き通った声で私の声が聞こえていること、返事をしてくれ!」




 フリッグの身体は、その言葉を聞いても小指すら動かない。




 それから数秒してから、オージンが扉を開けて入ってくる。




「ああ、なんということだ! 炎と共に酒を呷り、生命の全てを卑下するサンブリカ神よ! 貴方様は何故このような仕打ちをお与えになられるのです? 彼女の美しい肌を焦がし尽くして、愉悦に浸ろうとしておられるのですか? ならばいたぶるのは、彼女ではなく私になされてください――」



 急いでフリッグに駆け寄り、身体を抱きかかえるオージン。



「愛しき人よ。こんなにも苦しそうに、虫が辺りを飛び回るような声でもがいているのか。神妙たる創世の女神よ、どうか、どうか、彼女から全てを奪うのはやめてくれ。これ以上の辛苦を与えるようなことは、どうかしないでくれ……」



 その言葉と共に、腰元の何かが一瞬だけ光った。



「……そうだ。まだ苺の実が三つ残っていた。身体が蝕まれる痛みに耐えるのに必死で、今の今まで忘れていたよ。創世の女神よ、貴女様が私の記憶を呼び戻してくださったのですね……さあフリッグよ、これをお食べ。君が涙を流して美味しいと讃えた、甘く瑞々しい苺の実だ……」




 オージンはフリッグに苺の実を食べさせ、顎を上げて飲み込ませる。




 それから数十秒程、台上にも客席にも炎が燃え盛る音だけが覆い被さった後。




 フリッグはゆっくりと瞼を開け、身体を僅かにオージンの方へと向けた。




「……オージン、さま……?」



「……そうだ。私の名はオージン。君を助けるために、炎の中に突撃することも厭わない、一騎当千の戦士だ。サンブリカ神の怒りに震えながらも、私は君を迎えに来たのだ」



「ああ、オージン様……私の、大切な人。私の心は今幸福に満たされております。貴方様がこぼした涙が私の顔に落ちてきて、この痛みを和らげてくれているのです。顔も、身体も、心も、全部、全部……」




 その時、遠くから何かが崩れ去る音が静寂を破る。舞台袖から出でる炎は、演出だと理解していても、本当に燃えてしまいそうな迫力がある。




「……時間がない。間もなくこの館は炎と共に崩れ落ちる。だが君はそれに怯える必要はない。私が君をここから連れていくからだ」


「ああ、なんということでしょう……貴方様は私を連れていくために、その身体を炎で焦がし、耐え難き痛みを身に受けるのですね。私の身体が、私の心の声を聞いてくれるのなら、貴方様が痛みを背負うこともないのに。私の心は酷く軟弱で、そして醜悪で。故に身体が声を聞いてくれないのです……」


「創建で美麗なフリッグよ。この炎には魔の力が宿っている。触れた者の心をも蝕み、弱らせていく邪悪な力だ。そうして生きていこうとする力を無くした者を、確実に喰らっていくのだ。君が今動けないのは、決して君の心が軟弱だからではない。この炎が頑強な鎖に姿を変え、君を縛っているからなのだ」




 オージンはフリッグを抱きかかえて立ち上がると、声高に叫ぶ。




「そして私は、痛みにも幻にも屈する戦士ではない!! 七度炎で焼かれるなら、八度目覚めて立ち上がるのだ!! 聞こえるか、人を誑かす厭わしき化物共よ!! 今にこの剣で、貴様らを葬り去ってくれよう!!!」




 その瞬間更に館が崩れ落ち、炎が形を変える。



 炎の中に生まれ、共に生きるサラマンダー。それは炎を吐いてオージンに襲いかかる。




「くっ! 遂に正体を現したか――!」




 オージンは右手で剣を振るい、炎を切り捨てていく。次第にサラマンダーの炎が剣を振るう速さに追いつかなくなる。



 そうなった時、剣先がサラマンダーの身体にかかり、それは元の炎に戻っていく。




「……どうした、化物共よ。このオージンの剣戟に恐れをなして、姿を隠したか? それとも隙を伺い、剣戟が届かぬ間に我が心臓を仕留めようと策を練っているか? だがどちらにしても、貴様らは生きて陽の光を拝むことは二度とできん!! 私の怒り、フリッグの苦しみと共に沈むがいい!!」



 オージンの声に当てられて、炎は次々と姿を変える。


 リザードマン、マンティコア、果てはドラゴンまで。様々な姿でオージンに襲いかかり、そして為す術もなく元の炎に戻っていく、そのことの繰り返し。






 そのような応酬が二分続くと、背景の空が少し明るくなる。炎の勢いも弱まっていき、舞台上を覆う光が場面転換の合図――






「オージン様、どうか私の言葉に耳を傾けてください。今私の瞳には夜明けの空が映っています。黒が広がって塗り潰していったかのような、宵闇の空ではなく。遥か東の空に太陽が昇りだした、希望の星が瞬く空でございます」


「私はこれまで、空に再び陽が昇ることを見たことがないので、これは初めて見る空なのです。そして……あまりの美しさに、心が天上へと赴きそうになるのです……」



「愛しき人よ、私の瞳にも薄く明るい空が見えるとも。今まで幾多もこの空を見てきたが、今見える空は一際太陽に照らされて、一際星々が瞬いている」


「それは一体何故だと考えたら、君がいるからだとすぐに気付いたよ。君がいるだけで、空も、大地も、このイングレンスの世界全てが、愛おしく、美しく思えてくるなんて……」




 オージンは酔いしれるように空を見上げる。






 そんな彼の背中を、鈍い音と鉄の槍が貫く。




「え――」




 紅き命の巡りが胸から吹き出し、



 力を失ったオージンの腕から、フリッグは投げ出されてしまう。




 オージンは蒼白な顔で膝から崩れ落ち、



 そして、顔から倒れ込んだ。






「クックック……ハーッハッハッハッハッ!!! これは傑作だっ!!! ログレスの平原に名を轟かせし、一騎当千の戦士オージンが、たった一本の鉄槍で、こうもあっさりと地に伏すとはなあ!!!」




 槍が飛んできた方向から、赤いローブの魔術師が現れる。ローブの背中には、翼を生やした人間が薔薇の花の中で笑う紋章が描かれていた。




「ああ、オージン様……!! どうして、どうして……!!」


「……麗しき人、運命を統べ得るフェンサリルの姫君よ。君はこの館から抜け出し、青く清廉な空に参ろうと策したようだが、それは叶わぬ願いだ。君はその心臓が鼓動を打たなくなる時まで、固い鉄の地面を舐めて生きていくのだよ」



「その真紅に浸された衣……貴方様はサンブリカ神の御使いなのですか? 荒れ狂う炎のようなあの方の啓示を聞いて、私を捕らえに参ってきたのですか?」


「サンブリカ神だと? ハッ、くだらない!! 私はあのような欺瞞たる神とは違う!!!」




 男は右足でオージンを踏み付け、やっと上半身を起き上がらせたフリッグを見下す。




「私は、かの創世の女神よりも偉大なる千年帝国グレイスウィル、聖杯の加護の下に理想を紡いだ、初代皇帝マーリンの忠実な下僕だ!!」


「君のことは随分と前から伺っていたよ。全ての願いを叶える力を持っていることも、そしてこの町の連中が、それを利用して反逆の機を狙っていたことも!!」


「グレイスウィルはこのイングレンスの世界に安寧を齎す者、故に反逆の芽は摘まんで火にかけねばならない!!!」



 男はオージンから離れ、フリッグの胸倉を掴む。



「さあ姫君よ、今度は私と共に参れ。その身に余る力、このようなちっぽけな町のために使うことなぞ、宝石を泥水に浸しているようなものだ。今度は帝国の為に振るうがいい。皇帝陛下の冠に埋められる、一際大きい宝石になれ。そして我々と共に、この地に理想郷を築こうではないか――!!」


「嫌っ……! やめて、離して……!」




 男がフリッグの腕を引っ張った瞬間、




「――おおおおおおおぉぉぉぉ……! ああああああぁぁぁぁぁっ!!!!」



「何っ……!!!」




 オージンが声を振り絞りながら、槍を胸に刺したまま立ち上がった。



 その光景に、男は掴んでいたフリッグの腕を離し、



 フリッグはまた倒れてしまう。




「その穢れに満ちた手で、彼女に――触るなぁ!!!」




 オージンはそう叫びながら胸元の槍を引き抜き、男に向かって投げた。



 そして穴が空いた胸からは、血飛沫ではなく、



 仄かに霞む光の奔流が流れ出ていた。






「……ああ、そうか。貴様、それは姫君の力か……!!」


「そうだ――我が愛しき人、フリッグが私に力を与えてくれたのだ。私と共に大地を歩んで行きたいと願い、それを実現させたのだ。そしてそれは――私の願いでもある――!!」




 オージンは腰から剣を引き抜き、男に斬りかかる。



 男は後ろに仰け反りそれを回避した。魔術師と言えど身体能力は高いらしい。




「これは、これは。随分と粗暴で不躾で、諦めの悪い騎士がいたものだ!! ならばその願いすらも、全てこの炎で焼き尽くし、塵に還してやるまで!!!」




 男が杖を振りかざすと、炎がみるみるうちに化物の形相を成す。獅子、虎、狼の顔を持った三つ首の怪物。



 空想の産物だと理解しても恐ろしいそれは、オージンに襲いかかるが、彼は剣を振るって対峙していく。男は杖を動かして、巧みに怪物を操る。




「オージンよ、運命に抗う蛮勇の戦士よ!! 何故姫君を解き放つことを願う? 堅牢で神々ですらも破ることのできない、運命の牢獄から!!」


「貴様のその心に篝火を灯し、突き動かす物は何だというのだ? まさかそれは愛であると、寓話のような世迷言をほざくのではあるまいな!!」



「賢愚な皇帝に仕える、愚鈍な魔術師よ!! 貴様は今、愛は世迷言であると吐き捨てた!!」


「ならば私はこの世を延々と彷徨う、生きるべき道を探し出せぬ愚者であるのだろう!! いや、そうであって構わない!!!」




 オージンが叫びながら放った一撃が、炎の怪物を完全に消し去った。




「私が彼女の姿を目にした時、彼女と共に生きていきたいと、口よりも先に心が叫んだのだ!! 彼女の言の葉が恐怖や喜びを紡いだ時、彼女に館の外に広がる美しき世界を見せてやりたいと、四肢が疼いたのだ!!」


「そして、貴様が彼女の身体に触れた時――この心に宿った、怒りが、憎しみが、愛が!! 神々をも凌駕する力を与えたのだ――!!!」




 オージンは地面を踏み締め、上半身が天幕に隠れて見えなくなるほどに飛び上がる。




「ぐっ……!」




 そして男の後ろから落ちてきて、背中を大きく切り裂く。






「おおおっ……!!!」



 オージンは男を背にして着地する。そして男は身を悶えさせながら、血を噴き出して倒れた。



「はあっ、はあっ……!! ああ、赤薔薇に連なる聖なる一族、その真祖たるマーリン様……!! 私の心臓は今、水が流れずに止まった水車のように、その鼓動を止めようとしています、どうか、どうか、私の魂を、貴方様の御座します、光の、花園、にっ、」



 固い物に剣が突き刺さる音がした。



 オージンが剣先で男の喉を刺した為、その先の言葉は発せられずに終わっていく。





「……貴様が向かうのは花園ではない。心すら狂わせる深淵、奈落に落ちていくのだ。私とフリッグが生きている限り、久遠に」




 オージンは苦々しく言い捨てた後、フリッグを優しく抱き上げる。



 炎が徐々に消えていき、明け方の空を映し出す。燃え尽きた野原に二人だけが残される――




「……オージン、様。終わったの、ですか……?」


「ああ、全て終わったよ。そして済まなかった。私が油断をしていたせいで君を苦しめてしまった。君の美しい身体を傷付けてしまった……」


「いいえ、オージン様……先程の戦いの中の御言葉を、私は聞いておりました。炎が燃え盛る音の中で、貴方様の雄叫びだけが突き抜けて聞こえて参りました。私を愛していると……ああ、私は今、生まれて初めて、私の心から溢れ出る雫に満たされております……」




 フリッグはほんの少しだけ力を振り絞り、オージンに身体を寄せる。




「オージン様。先程まで私の瞼は、炎の痛みを受けて開けることができませんでした。しかし今は炎も消え去り、私の瞼を妨げる物はございません。ですが……怖いのです。この瞳を開けてしまって、貴方様の後ろに先程の悪魔がいたらと思うと……恐怖で身体が震え出して、心が揺れ動くのです……」




「……ならば、暫くの間その瞳を閉じているといい。そして私が良いと言ったら、その瞳を開けるのだ。そうすれば、君の視界を覆うのは、一面に広がる青く清涼な空だ」


「ああ、なんて素敵なことでしょうか。館の窓から見る、灰色の壁が遮る空ではなく、逃れようのない一面の空が見えるのですね……」




「空だけではない。海も、大地も、草木も、全てが君を待ち望んでいて、そして迎える準備をしているのだ。君がその全てに会いたいと願うなら、何時如何なる時でも歓迎してくれる」


「ただそんな彼らでも、傷付き果てた姫君の姿は見たくないと申している。花の様に微笑む、本来の美しい君と会いたいと願っているのだ。君はその願いを叶える力で、彼らの願いを叶えなくてはいけない」




「――だから、今はゆっくりとお休み。私が傍にいてあげるから」




「……はい……私の愛しい方――オージン様――」




 二人は柔らかく、甘く、優しい口づけを交わす。




 そこに、天幕が静かに下りてくる。それは幸福な時間の終わりを告げているかのように、後ろめたそうに。


 最後に聞こえてきた誰かの声。それはこの物語に触れた者を幸福に満たす、魔法のおまじないと言ってもいい――




『束縛の夜、

 運命の牢獄は崩れ去り』


『解放の朝、

 誰とも知らぬ黎明に、

 二人は旅立っていった』

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