第5章 青年と青い木の実

5-1 なんでも屋の苦悩

 今朝は涼しく、すこぶる心地の良い目覚めだったと思う。

 夜だって虫の声が良い感じに眠気を誘ってくれて、寝付きの悪い僕にとっては子守唄だ。

 季節はいよいよ、夏から秋へ移ろうとしていた。

 が、


「あー……あづ……」


 僕の隣でうちわを仰ぎながら気だるそうにテーブルに突っ伏す少年。


「昼間はまだまだ暑いですね……」


 少年に話しかけるけど、返事はない。

 相当、暑さで参っているみたいだ。


「大丈夫?」


 もう一度声をかけてみる。

 ぱたぱたと力なくあおがれるうちわが、少年のコンディションをよく表している。


龍斗りゅうとくーん……?」


 少年こと黒井龍斗くろいりゅうとは、目線だけを動かして僕の方を見た。


宗治そうじさん……こんなクソ暑いのに、よく計算とかできますね」


 そう言うと龍斗くんは、僕の手元へと視線を落とした。

 手元の広げたノートには、黒字と赤字の数字が並んでいる。


「どしたの、そのノート」


 後ろから女の子の声。

 聞きなれた声に振り向くと、白いブラウスに真っ赤なリボン、チェックの――プリーツスカート、っていうんだったか。そんな少女が一人。


「おかえりなさい、姫奈ひめなちゃん」


 じぃ、とノートに並ぶ数字とにらめっこをしながら、おかえり、ととりあえず返してくれた。


「……お金の計算?」

「はい。今までの依頼からいただいた報酬をもとにこれからの月々の収支を計算してたのですが……」


 九月、十月……とまだ見ぬ架空の報酬額を連ねたノートの、一番最後に記した赤数字を差す。


「……このままでは、赤字なんですよね」

「――――」


 少女から、言葉は返ってこなかった。

 パタパタと仰がれるうちわの音だけがリビングに響く。

 僕は恐る恐る、ノートを覗き込む少女の顔色を伺ってみる。

 と、冷たく鋭い視線がキッと僕を睨んだ。


「もっと働きなさいよ、ニート」


 ピキンと氷の張った湖にヒビが入るような、そんな涼しげな声が居間に放たれた。


「…………」


 ……返す言葉が出てこない。

 返す言葉がないのは、僕自身がそう自覚しているからだろう。

 僕が黙っていると、目の前の少女はダンっと机を叩いた。


「ていうか、前の坂上さかがみの報酬受け取らないのはどう考えてもおかしいでしょ! お人よし通り越して大バカ者だわ!」

「すみません、そこはものすごく反省してます」


 そう、数日前の依頼で、僕は依頼主の坂上さんから報酬を受け取らなかったのだ。

 というのも、龍斗くんの病気を治す薬草採取を手伝ってくれた上に報酬を催促するのは、なんだか悪い気がしてしまったから。

 が、後から姫宮家の家計を考慮しない安直な発言に、僕は非常に後悔していた。


「といっても……今さらくださいっていうのも難しいよな」


 龍斗くんはため息をついて、机にうつ伏せになる。

 少しの沈黙の中、少年の腹の虫が鳴った。 


「……腹減った」


 ……申し訳なさが極限に達しそう。

 どうにかしてあげなければ。

 だが、そう思うばかりでいい案が浮かばない。

 僕は、無力だ……。


「お昼ご飯の準備ができましたよ」


 何も言えずにノートの赤字を見つめていると、台所から穏やかな声とともに一人の女性がやってきた。

 ピンク色の羽織に、クリーム色のワンピース。そして、着物の帯のような奥ゆかしさを表現する大きなリボンとポニーテール。


「ご飯ご飯♪ リリアンさん、アタシ運ぶよ」

「重たいので気をつけてくださいね」


 そんな彼女――姫宮ひめみやリリアンが運んできた真っ白な大皿には、何やら飴色の大きな塊が。

 多分、何かの肉だと思うのだけど……その、彼女ととっても不釣り合いだ。


 姫奈ちゃんはリリアンさんからその大皿を受け取り、机に突っ伏す龍斗少年の前にどんとそれを置いた。


「ん……これ、はっ!」


 気怠げに顔を上げるや否や、龍斗くんは驚きの表情を見せる。


「……? どうかしました?」


 ただ事でない表情で飴色の物体を凝視する少年に、僕は尋ねた。


「どうしたも何も。これ、二足牛にそくぎゅうじゃないですか」

「二足牛、とは?」


 聞き慣れない単語。人工世界の幻界ではよくあることだ。

 三年ほどこちらで過ごしてもなお、今みたいな疑問符を浮かばせざるを得ない事象に出くわす。

 現実世界の実界で生まれ育った僕がここに慣れる日が来ることはなさそうだ……。


「二足牛は幻獣の中でも希少種な上に、かなり気性が荒いんすよ。コイツで何人の狩人かりゅうどが犠牲になったか……」

「でも、味は絶品中の絶品って言われてて、普通は高級料理店でしかお目にかかれないものよ」


 少年少女は大皿の上の高級食材をじっと見つめながら僕に説明してくれた。


「コイツはベテランハンター四人がかりで仕留める幻獣なんだけど……」


 ちらりと台所の女性の方に目をやる龍斗くんと姫奈ちゃん。僕もつられて彼女に目をやる。


「もしかして用心棒、要らなかったかしらね」

「リリアンさん、何者なんだろうな」


 狩人四人がかりというと、小柄な竜一頭を仕留める時と同等である。それを考えると、女性一人でそれをこなすのは至難の技どころの話ではない。

 こんな言い方をすると失礼かもしれないけれど、そもそも人間のなせる業ではないと思う。


「坂上さんが来た日の晩御飯もなかなかだったよな」

「たしか……百面鳥ひゃくめんちょう、でしたっけ」


 坂上さんが姫宮家を訪ねた日。リリアンさんが午前中に出かけたままなかなか戻らなかった。

 夜に帰宅したリリアンさんが片手に握っていたのは、百面鳥と呼ばれるこれまた希少な幻獣だった。


「あの鳥は小柄だけど、肉食でかなり凶暴なはずよね」

「……リリアンさんが一番用心棒になりそうな気がします」


 このままでは、家主が強すぎて何でも屋どころか、用心棒という役割すら果たせなくなる気がする。


 ――そうだ。筋トレのメニュー、強化しよう。


 僕はこの日、赤もやしと少女に言われる自分と今一度しっかり向き合うことを誓った。

 メモ帳に“筋トレ強化”と書き留めて、机に広げていたノートを本棚にしまった。


 台所の食器を出す音に紛れて、居間の外の廊下から足音が聞こえる。


「おはよーさん、勢揃いやんな」


 時刻は正午過ぎ。既におはようの時間ではない。

 この家でそんな能天気なことを言う輩といえば、アイツくらいだろう。


「おはよう隆一りゅういち。非常によく寝たね」

「ほんまそれやんなぁ。多分九時間は寝てるわ」


 飛鳥隆一あすかりゅういち、二十歳。僕の幼なじみだ。


「おはよう隆一さん。もうお昼ご飯の時間だよ?」

「おはよう、嬢ちゃん」


 隆一は姫奈ちゃんににっと笑いかけ、窓側の誕生日席に座った。

 少女に笑いかける彼の横顔は、世間一般では“イケメン”の部類になる。

 青い髪に緑の瞳。これだけでも恵まれてる感がある。

 だが、切れ長の二重の目とか、すじの通った鼻とか、一七八cmとか、脚が五メートルとか、そういう要素を大体取り揃えている。

 そういうこともあり、学生時代は女子からかなり人気があったようだ。知らんけど。


「しっかしなぁ。今日は宗治より遅く起きてしもたわぁ、ショックでかいで」

「人を怠け者みたいに言わないでくれるかな」


 非常に心外だ。黙っていればきっといい男なのだと思う。残念なイケメンというやつなのかもしれない。

 だが彼のそういうところには慣れてる。親しい人に対してのみ、昔からこういう憎まれ口を叩くやつなのだ。

 信頼されているからこそ、ということだ。というより、そういうことにしておかないと僕のメンタルが持たない。


「でも、真田は放っておいたらいつまでも眠ってると思う。毎朝叩き起こしてあげないと餓死するわ」

「姫奈ちゃんまで……」


 せやせや、と姫奈ちゃんの言葉に頷く隆一。

 姫奈ちゃんの言葉には毎度刺さるものがある。彼女は誰に対しても、はっきり物申すタイプなのだ。


「宗治さんだって、そうなりたくてなってるわけじゃないと思うぞ。今のオレだって、好きで腹減らしてるわけじゃない」

「それはその……すみません」


 励ましてくれているのかもしれない。半分訴えも含んでいるのかもしれない。

 同居している少年が腹を空かせてて何もしてあげられていないのは、やはり大人として非常に申し訳がない。


「で、真田。赤字の件はどうするの?」

「ああ、そう……ですね……」


 十一歳の少年少女の視線が突き刺さる。

 だが、これといった打開策も浮かばず何も言うことができない。

 どうしたものか。


「赤字て、何が?」


 ただ事でない空気を感じ取った隆一は、少し心配そうに僕を見る。


「実は……」


 隆一に姫宮家の家計事情と何でも屋『終始亭しゅうしてい』の収益状況を伝えた。

 なるほど、と真面目に静かに耳を傾けて聞いてくれる彼は、頼れる幼なじみそのものだ。

 普段はちゃらんぽらんだけど、こういうときはしっかりと向き合ってくれる。ここが飛鳥隆一の良いところだと思う。


「ほうほう、なるほどなぁ……」


 目を閉じ、腕を組んで、何やら思案し始める隆一。

 数秒後、大きく頷いて目を開けると、僕を真っ直ぐ見て言った。


「飯食ったら出るで、宗治」

「出るって、どこへ?」


 僕が問うと、隆一は力強い口調で言い放つ。


「こうなったらアレをするしかない。覚悟しとき」

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