0-day2 夢を見ない日


「んーーーー」


 俺は伸びをする。久しぶりにあの夢を見ないと、かなり目覚めがいい。それに、姉のビンタも受けなくて済んだ。結局、昨日は上本と話し込んでしまい、家に帰ったのは8時を回りかけた頃だった。

 俺はさっさと制服に着替えて階段を下り、洗面所で顔を洗って庭の方向に足を進める。


「おはよう、ジャック」


 そう言って撫でてやると、「ワン!」と元気の良い声が返ってくる。


 ジャックは、三年ぐらい前に父さんが連れて帰ってきた柴犬だ。当時はまだ子犬だったのだが、今ではすっかり成犬である。昔から少しだけ右の犬歯が出ているのが特徴的だ。


 しかし、さすがに柴犬に「ジャック」はイタいと思う。三年前の自分を殴ってやりたい。


 それはさておき、少しジャックと遊んでいると、起きてきた姉が俺を見て目を丸くする。


「……あんた、熱でもあんの?」

「俺の早起きがそんなに珍しいかよ。それとも、俺をしばくのが日課になっへぶっ!?」


 俺が何か言うと、反論の言葉よりも先に暴力が飛んでくるのが海崎志織という人間だ。


「痛〜〜〜っ」

「日課なんだから、別にいいでしょ」


 一本とられた。しかし、

 ……理不尽だ。

 口より先に手が出る性格は困りものである。


 さて、せっかく早起きしたのだから、久しぶりに朝食でも作ろうか。

 炊飯器を見ると、ご飯はしっかり炊けているので、とりあえず味噌汁を作ろうと思う。鍋に水を貯め、コンロにかけてそこに切った人参、豆腐、玉ねぎを入れていく。ある程度煮たら出汁入り味噌を溶かして完成だ。

 次に、冷蔵庫に卵があったので、それを二つほど割って混ぜる。カラザはとった。そして少しずつフライパンに流し、くるっと巻く。それを数回繰り返すと、一般的な玉子焼きの完成だ。

 ちなみに、姉は料理に関してはからっきしなので、いつも食べる担当だ。今日もすでに自分の指定席に座って朝食を待ち構えている。

 米と味噌汁を程良く三人に分け、玉子焼きは机の真ん中に。自分も席に着く。意外にも、姉は俺が座るのを待ってくれている。


「「いただきます」」


 そう言って食べ始めると、姉の前にある朝食が凄まじいスピードで片付いていく。自分で作ったものがこれだけ美味しそうに食べられると、少しむず痒く感じてしまう。


 少しすると、母が起きてきた。


「おはよう。あら龍、珍しく早いのね」


 一言多いのが少しずつ俺のメンタルを削る。


「ずいぶん久しぶりねぇ……。一ヶ月ぶりぐらいかしら?」


 ……この人に悪気は無いと俺は信じている。

 仕方なく、この空間から逃げ出そうと早めに食べ終え、鞄を持って靴を履く。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 なんだかんだで母の声は優しい。また、それとは違い、


ふぃっふぇふぁっふぁいいってらっしゃい、ゴホッ、ゴホッ」


 いつまで食べてるんだ、この人は……。


「食べてるときはそっちに集中したら?」


 そう言うと睨まれたので、逃げるように外に出る。すると、昨日と同じくミヤが待っている。


「今日は早いんだね」

「二日連続はさすがにな。それと、お前に借りを作りたくないんだ、面倒くさいから」

「何よ、その理由は」


 ミヤが頬を膨らませて、下からこちらを睨んでくる。

 ……喋らなきゃ別にいいんだがな。

 この顔で何人の男を殺せるだろう。と、そんな考えていると、また残念発言が飛んでくる。


「今日は処理無しだから早いの?」


 少なくとも、女子が男子に向かって直接言えるセリフじゃないと思う。

 真面目に返しても疲れるだけなので、テキトーに答えておく。


「はいはい、そうですよー」

「へっ!?」


 なぜかミヤは、驚いたような声を発しながら一歩後ずさった。


「おいおい、どうしたよ急に」

「だ、だって、その、普段はしてたんでしょ……」


 その言葉とミヤの慌てっぷりから、俺はなんとなく察した。


「なんで間に受けてんだ」


 すると、ミヤはキョトンとした後で、顔を真っ赤にして、


「バカーーーーーー!」


 猛スピードで学校の方に走っていってしまった。それにしても、


「速いなぁ…………」


 ミヤのダッシュは残像が見えそうだ。そして一つ、わかったことがある。


 ……なるほど、ちゃんと恥ずかしいんだな。


 俺は遅刻しないために、そしてミヤの気持ちを収めてやるために、駆け足で学校に向かう。その道中で、数人の男子学生やおっちゃんに睨まれたような気がする。


 学校に着くと、律儀にもミヤは校門前で俺を待っていた。


「……遅い」


 そう言って歩いてくるミヤは俯き加減でまだ頬が赤く、そして、どこかぎこちない。俺は思ったことをそのまま言ってみる。


「お前もちゃんと女子だったんだな」

「んなっ!?」


 なにか言おうとして顔を上げたが、俺と目が合うと、またすぐに俯いて口籠る。


「まぁ、この件はお互いに忘れようぜ。覚えてて得すること無いんだから」

「……うん」


 ミヤの顔は少しずついつもの明るさを取り戻して行く。


「もう慣れないことはしたらダメだからな」

「……うん」


 こういうことがあまりなかったからかもしれないが、ここまで素直なミヤは初めて見た気がする。

 ……ちゃんといいところもあるんだよな。

 ミヤのまとっていた雰囲気も、かなり落ち着いた。それよりも、ミヤへの視線がかなりうるさい。非常にうるさい。

 コイツも苦労してるな、なんて思っていると、


「おっはよー!」

「ぐはぁっ!」


 元気のいい声とともに、背中に重い衝撃が走り、俺はその勢いで地面に崩れる。


「やっほー、ミヤビ」

「サキ! 久しぶりー!」


 うんうん呻く俺の横で、二人は楽しそうに喋っている。


「おい中居、何か俺に言うことがないか?」


 俺はそう問いかけながら立ち上がり、俺に強度の挨拶をかました張本人の名前を呼ぶ。


「いやー、久しぶりだったからかな〜。ちょっと加減間違えちゃった❤︎」

「そういう問題じゃねぇ!」


 ごめんね、とポニーテールを揺らしながら悪気なさそうに謝るコイツは、中居咲希なかいさきという。中学の同級生で、ミヤとよく喋っていた。そして、中居がいるということは……


「よう、海崎」


 やっぱりいたか、上本。


「お前からも中居にちゃんと言っといてくれよ? むやみに人は蹴るもんじゃないって」

「わーったよ」


 俺は今までに何度もドロップキックをもらっているが、その度に上本とこの会話をしている気がする。


「いやー、しかしこれはなんとも絶景だな。ハズレがいない上に今どきニーソとは、けしからんな! ……ムフフ」

「ムフフじゃねーよ」


 冷たい声を発したのは俺では無い。先ほどまでミヤとキャピキャピしていた中居だ。


「無駄だ! 何人なんびとにも俺は止められながっ」


 上本の言葉が途中で遮られた。その原因は中居のアイアンクローだ。中居の腕には血管が浮き、それと対照的に上本は腕をだらんと垂らし、ピクリとも動かない。


「じゃあ、また後でね」

「う、うん」


 ミヤは決して引いているわけではない。久しぶりに見た友人の本性に怯えているだけである。


 中居は、根っからの格闘技ファンだ。見るのもするのも好きらしい。見る方は「SIORI」つまり俺の姉のファンで、する方は特にドロップキックが好きらしい。ちなみにこれは姉の得意技だ。


 さて、志半ばで死んでいった上本に黙祷。3秒程度数えて顔を上げた。


「さて、俺たちも行くか」

「そうだね」


 靴を履き替えて歩き出し、階段に差し掛かると、俺は今日の目的を再確認する。

 ……小田ってのはどんなヤツなのか。


「じゃーねリュウ、また後で」

「んー」


 昨日と同じように、廊下で別れて教室に入ると、昨日の比にならない視線が俺に集まる。……あれ?

 無論、男子の蔑むような視線が大半だが、ちらほらと女子からの視線を感じた。それも軽蔑とか嫉妬とかとは違った類いのものだ。俺はそわそわと自分の席に座って後ろを向く。


「なあ、上本。俺なんかしたっけ?」

「俺に聞くんじゃ無え。頭が割れそうでなんも考えらんねえ」


 上本の痛がる様子からして、アイアンクローの後遺症はかなりひどいらしい。

 俺は仕方なく教室を出ると、二つ横の参組に向かう。戸を開けると、そこには非常に殺伐とした雰囲気があった。


「さて、どうしたものか」


 目的が無くて参組に入った訳ではないし、別にその相手がどこにいるか探しているという訳でもない。むしろ目立っている。

 俺は意を決して目の前の女子の塊に歩みを進めた。その目の前で立ち止まり、


「ショウ、俺だけど?」


 目の前の女子数人にキッと睨まれるが、内側から伸びてきた手がそれを静止する。そして目の前に固まっていた女子が傍に避けた。


「やあ、リュウ。どうしたんだい?」


 見神翔みかみしょう。こいつも中学からの友人である。特徴は、外見、性格がとにかくイケメンだという事。いつものようにこいつは周りに女子を数人侍らせている。羨ましい限りだ。


 さて、単刀直入に聞いてみよう。


「あのさ、急に女子の視線が増えたんだけど。どういう事かわかる?」


 すると、ショウが顔を明るくする。


「うん、それはリュウがモテ始めたんだと思うよ」


 ほー、そうかそうか……。ん? 俺がモテるとはどういう事だ?


「いやいや、冗談はやめてくれよ。こっちは真剣に聞いてるんだから」


 俺の不満に対してショウはフフッと笑ってから、少し困り顔をして俺の顔をジッと見る。


「オレは冗談のつもりで言ってないんだけど……。というか、リュウにはもう少しハイスペックの自覚を持って欲しいな?」

「はあ……」


 思わず口から息が漏れる。俺がモテることなんて考えたことも無かった。高校はショウの一人勝ち、というわけにはいかないらしい。


「とりあえず、ありがとな」

「うん、自信持って」

「うっせ」


 笑い合って軽く手を振り、急ぎ足で参組を出る。すると、授業5分前の予鈴が、いや予鐘が鳴った。


「やべっ!」


 俺は自分の教室へ飛び込むように入った。そのときに教壇で足の小指を打ったのは余談である。



[ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン]



 この学校のチャイムは独特だ。別に仏教高校でも無いのに、鐘の音が時を知らせる。朝の予鈴が銅羅だったのは眠気覚ましだろうか。

 そんな聞き慣れない音で始まり、同じ音で一限目が終わる。僕はすぐに教科書を片付けて、後援会長としての仕事を始める。いつもなら、この仕事のときは周りの雑音が聞こえなくなるほどに集中できるのだが、


「えっとー……こんちは」


 声に反応して顔を上げるが、それは僕が最も望んでいない者だった。あえて表情に嫌気を出してから、スマホに視線を戻した。普通ならこれぐらいの対応をされれば引き下がるはずなのだが。


「えらく露骨だな……。ちょっとでいいから話を聞いてくれないか?」


 なるほど、メンタルは強いようだ。もう一度顔を上げると、相手はしっかりとこちらの目を捉えている。

 ……だが、随分と力弱い眼差しだな。死ねばいいのに。


「ふーん、君が海崎くんか。別に話すことは無いんだけれども」


 取り合うフリをして、軽くあしらえばいい。あとはこの男のメンタルがどれほどなのか。


「俺にはあるんだって。ていうか、なんで名前知ってるんだ?」


 白々しい。雅様を狙っているのは見え見えだというのに。こういう輩は我々で対処しなければ。


「初日に二人で学校に来ただろう。それも遅刻ギリギリで」


 すると、目の前の輩は腕を組み、目をつぶってブツブツと呟いた。


「……なるほど、ミヤが近くにいるだけでそいつの名前が知れ渡る仕組みか」


 さて、今こいつは何と言ったか。頭の奥が煮えるように熱くなっていくようだ。頭に血が上るとはこういうことを言うのだろう。


「今、何と言った?」

「いや、独り言だ。忘れて欲しい」


 忘れるものか。僕の耳には、はっきりとと聞こえた。


「軽々しく『ミヤ』なんて……。やはり君は彼氏なのだろう!」

「いやいや、発想が飛びすぎだろう! 大体、お前にもあだ名の一つ二つあるだろ?」

いな!」


 その一声で、会員が集う。海崎の顔は怯えの色に染まっている。


「あだ名というのは、ある程度気を許した中でなければ成り立たない! 『ミヤ』『リュウちゃん』だと? ああ、嘆かわしい」

おう!」


 僕の言葉に、会員たちは賛同の意を示す。


「おいおい……なんの宗教だよ」


 海崎が呟いた。聞こえないとでも思っているのだろう。


「雅様を崇めて何が悪い!」

「応!」

「は、はは……」


 海崎の顔に張り付いていた作り笑いがヒクヒクと動き、剥がれ落ちていく。これで海崎は顔面蒼白、と思いきや急に真顔になった。

 なぜだ、これでも我々を認めないつもりだろうか。


「おい」


 海崎が突然、僕の少し右の方を指差して鋭い声を発した。僕含め会員たちは全員そちらを向く。


「違うわ! お前だよ、上本!」

「なっ……」


 一番後ろの方に立っていた人物がこちらを向くと、僕は驚愕した。


「上本……」

「いや、なんすか。俺なんかしましたか?」


 上本英太。僕が作った後援会に最も早く食いついてきた男。海崎とつながっていたとは。


「なんかしましたか? じゃねーよ! 何でお前がそっち側なんだよ!」


 海崎が叫ぶように上本を問い詰めるが、上本は遠くを見るようにして明らかな無視を決め込んでいる。

 そんな上本を見て、海崎は何かを決意した顔を彼に向けた。


「よしわかった。お前がそのつもりなら、俺にも策がある」


 そう言うや、ズボンのポケットから携帯を取り出し、上本の前に構えて見せた。


「俺の携帯には、お前が今までしてきたことの録音データが全て入ってる。バラされたくなければ、」

「いいよ別に」

「へ?」


 海崎は固まり、上本は飄々としている。


「好きにすればいいじゃんか。俺はこの会でミヤっちのことを応援してるから」


「「「「「「あ」」」」」」


 上本以外の全員が、上本の犯したただ一つのミスに気づいた。


「あれ? もしかして、みんな俺のイケメン具合に気づいちゃった?」

「いやいや、少なくともそれは無いから安心しろ。……さっきのもっかい言ってみ?」


 海崎がボケ倒す上本を止めると、上本は先刻の自分の言葉を復唱する。


「好きにすればいいじゃんか?」

「その次」

「俺はこの会でミヤっっっ…………わーお」


 ようやく上本は自分のミスに気づいた。声には余裕が見えるが、その顔は青ざめて今にもしおれそうだ。


「さて、上本くん」

「あ、もうすぐ時間だ。じゃあ僕らはこれで」

「あっ、ちょっ、上本、おい!」


 上本は海崎を引っ張って壱組へ帰って行ってしまった。


「まあいい……」


[ゴーン、ゴーン……]


 鐘が鳴る。二限目だ。


 ◇


「あー、ミスった……」


 二時間目の後の休み時間。途方にくれる俺の後ろで、上本は呑気にあくびをしている。


「ふぁ〜あ。そんなに落ち込むなよ、次があるって」

「おい、どの口がそんなこと言えるんだ」


 俺は上本を睨むように見る。


「いや〜、すまんね」

「もうちょっと反省してくれ。俺にとっては平和な高校生活がかかった重大問題なんだ」

「ごめんな、反省してる」


 しっかりと反省はしているらしい。こういうところは憎めない。しかし、


「もう一回ぐらい行ってみたら?」


 と言う。ただ、


「一回ダメだともう無理なんだよな……」


 これは俺の経験上の話だ。どんな形であれ、一度折れてしまえばそこから先は沼だ。


「まぁ、今日は当たって砕けろでどうよ?」

「砕けたらダメだろ」


 軽くツッコんでから一息。


「ま、一日ぐらいそういうのも悪くないか」


 そう言うと、上本はキラキラと目を輝かせて、何か物欲しそうな顔をしている。


「…………何も出ないぞ」

「えー、なんか奢ろー」


 ごねる上本に、俺は一つ付け加えてやる。


「あのままならお前だけが悪役だったんだぞ!」


 すると上本は口を尖らせ、反論してくる。


「なんだよー、俺はもともと会員のフリして情報掴んでやろうとか思ってたのに。お前が俺の事に気づくから悪い!」

「……それは悪かった。でも、“フリ”は嘘なんだろ?」

「バレたか」


 そう言って舌を出す。可愛げがあると思ってやっているのだろうか。俺には何も響かない。


「で、その謝礼の品としてジュースでも奢ってくれるのかな?」


 上本がなおもキラキラした目で俺を見つめてくるが、俺はまったくその気が無い。


「また今度、な?」

「それ絶対無いやつだろ」


 まあいいけど、と言うショウを見ていると、些細なことが馬鹿らしく思えてくる。


「んじゃ、砕けてくるよ」

「おう、がんばれ」


 ▽


「はぁ〜〜」


 学校からの帰り道、俺は長いため息をつく。


「どうだった?」


 上本が聞いてくる。今日はミヤには先に帰ってもらった。


「それがさ……」


 散々だった。昼休みまではまだマシだったのだが、五時間目後の休み時間からは目の前に立つだけで他の会員に防がれたり、それを突破しても190cm強の巨漢二人に拘束されたりと、全く話せなかった。

 俺が言い終わると、上本は問いかけてくる。


「で、どうすんだ?」

「……どうすればいいと思う?」


 聞き返してしまった。考えても何も浮かばないのだから仕方がないのだが、上本は


「……奥の手があるだろ、リュウ」


 意味深なことを言うショウは、少し楽しそうだ。俺は頭を働かせる。

 上本が知っている事……中学の時の事……


「あ! アレか……」


 思い出したものの、そのせいで俺の士気は一気に下がっていく。


「思い出したなら使えばいいのに」


 上本はどうしても、俺にアレをやらせたいらしい。


「お前が得するだけじゃんかよ……」

「値下げしますぜ、旦那」


 上本は両手を合わせてすりすりしながら俺を見透かすようにジッと見つめる。


「……わかったよ」


 学生にとっては苦渋の決断である。

 俺の隣を歩く上本はなんとなく楽しげだ。


「また明日な」

「……ああ、また明日」


 俺はさっきよりも長いため息をついた。


 ▽


 途中で上本と別れてから、少し歩けば家に着く。


「ただいま」


 と言うと、キッチンから「おかえりなさい」という母の優しい声が返ってくる。俺は靴を揃え、そのままリビングへ向かうと、


「おかえりー」


 いつものようにソファーに寝そべってダラけている姉がいる。しかし、今日はいつもと違う。


「姉ちゃん、何持ってんの?」


 今日はテレビを点けずに、手紙らしきものをクルクルと器用に指先で回している。そしてそれを俺に渡してくる。


「ほい」

「誰から?」

「さあ? まだ開けてないからわかんない」


 こういう所で、意外にも姉はプライバシーを気にしてくれている。

 ふーん、と返してから俺は二階の自分の部屋に移動する。そしてハサミで手早く封を切って中身を引っ張り出す。すると、「カサッ」という音と共に一枚の紙幣と、折り畳まれた紙が落ちてきた。


「諭吉さんか……」


 俺はこの流れを知っている。こんな風にお金と手紙を送ってくる人を、俺は一人だけ知っている。

 もう一枚の紙を開くと、よく知った字でこう書いてある。


[龍、元気か?  今度のお前の誕生日にはそっちに帰れそうだ! ちゃんと待ってろ、逃げんなよ! 竜雄]


 一瞬だけ思考がフリーズする。そしてダッシュで一階へ駆け下り、こう言う。


「父さんが帰ってくる」


 その一言で、母も姉も顔が少しほころぶ。


 目標であり、尊敬の対象である俺の父ーー海崎竜雄かいざきたつおは弁護士だ。しかし、基本的に日本にはいない。なぜかはよく知らないが、海外から呼ばれることが多いらしい。そのため、家に帰ってくることはとても珍しいことなのである。


 その日は、家族全員が早い時間に眠りについた。五日後、帰宅する父親の姿を美化して期待しながら。



























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